第14話 透き通る
潮騒が私を包む。
僅かに胸がざわめいて、仕舞った過去を取り出そうとする。夕闇の中は、いつかを思い出すには最適な場所だ。其処にいれば勝手に何かを懐かしむからだ。
私が取り出したのは、いつかの硝子玉のような思い出達で、それらは今でも僅かな光を受けて、鮮やかに煌めいて見えた。掌から零れ落ちそうな程に、こんなにも数が増えた。一つ一つ覗けば、全て思い出せる。笑った時も、慰め合った日も、全てに貴女がいた。美しい貴女との日々は、まるで幻想のようで、泣きそうになるくらい心を締め付ける。
こんなになっても、私はまだ、貴女に縋っている。
忍び寄る手に心臓を掴まれて、私は静かに涙を目尻に溜めていた。
滲む夕陽が沈んでいく。薄藍の空が広がっていく。明日がない私の今日が、終わっていく。
鳥の影が彼方に見えた。酷く羨ましく思えた。
私もそんな風に飛べたなら、何処までも行けただろうか。糸も鎖も全て断ち切って、身軽な体で風を切る。羽を羽ばたかせて、海を渡って、名前も知らない彼方まで、ずっとずっと旅をする。そして、降り立った場所で、のんびりと何にも遮られずに生きていく。
理想的ではあるけれど、きっと、鳥にならなくても、出来ることはあったのだろう。とても身近な所で、するべきだったことがあったのだから。
私は口を開いた。引っ付いていた唇が剥がれていく。
「私、死にたくなんかなかった」
思わず口に衝いて出る。
その勢いに合わせて、涙がぽろぽろと落ちた。
「唯、一緒にいたかったの。楽しいことをしたかったの。でも、毎日が苦しくて、まるで水面ぎりぎりに顔を出して息をするようで、辛かったの」
店主は黙ったまま、聞いていた。
「ずっと逃げ出したいと思っていた。それは死にたいってことなんだと思っていた。でも、違った。違ったの。死んでから、分かったの」
僅かに眉を顰めて、口は真一文字に。酷く真っ直ぐな眼差しが私を射抜く。底の見えない、深く透き通った目だ。その目で私を砕いてくれたから、溢れた言葉を掻き集められる。この追悔を語ることが出来る。
「私は、奏と一緒に生きていきたかったの」
「……そっか」
短く、感情を押し殺すように、店主は呟いた。
そうだ。それはどんなに願っても、叶えられることのない望みだ。私が自分で閉ざした可能性だ。
苦しみに耐え続けることは出来ない。だから、遠からず同じ結末をきっと迎える。だが、今なら、違う結末を選べたのではないか、あの時とは違う選択肢を見付けられるのではないか、そんな気がしている。
先ずは、情けない根性をどうにかして、彼女のために戦うのだ。それは間違っていると、それは人を傷付ける行為だと指摘して、それでも終わらないなら、教師も保護者も、場合によっては警察も呼んでやる。彼女がより幸せに生きられるように、私が自分の人生を誇れるように、徹底的に戦ってやるのだ。
なんて、今だから言えるのだろうと、私は自嘲気味に笑う。結局、それが出来なかったからこうなったのだ。
私は短く息を吐き出した。
そして、脱力する。これでもそれなりに堰き止めていた想いが、なすがままに頬を流れ落ちていく。
「もう、何も出来ないんですね」
「……そうだね」
「もう、もう、何も」
「……」
「私、もっと貴方に早く逢えていたら良かった。そうしたらきっと、こんなことをせずにいられたと思う。そうしたら、勉強ももっと頑張るし、両親との関係も頑張って修復させるし、恋もして、バイトもして、奏とはまた遊園地とかにも行きたかった。他にもいっぱい、色々なことをして」
「うん」
「色々なね、沢山のことをしていくの」
「そうだね」
相槌を打ちながら、店主の痛ましい程の微笑みは柔らかく優しくなっていく。
反して、私は何処か清々しい気持ちで夢を語った。自暴自棄に近しいかもしれない。
決して取り返すことの出来ない、手に届かない光が遠くに見えた。それは線香花火のように弾けて、最後に火種が、小さな音を立てて消えていった。
美しいものだった。儚いものだった。
でも、本来ならそれはもっと長く、力強く続くものだった。落としたのは他でもない、私だった。
「貴方に、貴方にもっと早く逢えていたら良かった」
同じ言葉が口から零れる。何処か責めるように。喉が締まって、胸が痛み始める。目頭がまた熱くなって、私は思わず目を閉じた。熱い雫が手の甲を打つ。
「……ごめんね」
囁きのような声が、暗い世界に迷い込む。
「いつも、何かが終わった後に、私の番が来るんだ」
悲痛ささえも滲む色に、私は胸がときめいた。
言わせてしまっているとは分かっていた。この件について、店主が何か誤ったことはないと思う。
私の魂を回収するのが仕事とはいえ、店主は私を労っていたし、気に掛けてくれていた。二つに分かれた私の魂を探してくれたし、私がなるべく傷付かずに済むように話を進めてくれていた。
それは効率的に見たら、非効率で無駄の多い仕事なのだろう。やろうと思えば、あの常連客のように、今何処にいるのかを詰問してゆけば、素直に吐くにしろ、耐え切れず海に戻るにしろ、どちらにしても居場所が分かるのだ。
でも、それをしなかった。一つ一つを拾い上げて、語って、ゆっくりと私の準備が出来るまで、待っていてくれた。
俯いた視線の先には自分の右手があった。其処にはまだ温もりが残っている気がした。
ひっくり返して、掌を上にする。中には何もない。今となっては、白々しい生命線がはっきりと刻まれた私の掌だ。でも、他人の熱の感覚が残っている。
息を吸って、吐いた。広がる肺の隅々にまで空気が行き届くように、そして、ゆっくりとそれを吐き出した。
痺れ、縮こまる肺が伸びる。
此処は息がしやすい。
溺れなくて良いのだ。
それは、どうしてだろう。
後悔と諦念で埋め尽くされた私の心に、ぽつりと火が灯る。
右手の感触がまざまざと蘇る。
助けて欲しいと縋ったその手を、店主は掴み、私を引き上げてくれたのだ。
それに、なんて美味しい紅茶とお菓子だったのだろう。甘く蕩けるようなミルクを引き立たせるセイロンと、さくさくの小麦の味の濃いクッキーの相性は抜群だった。癖のないニルギリに、レモンの爽やかな香りが立つ、ざりっとしたアイシングの掛かったウィークエンド・シトロンも美味しかった。そして、添えられる不思議で不気味な物語達。
私はまだ苦しみの中にあるのだと考えていた。それもまた事実ではあるが、同時に救われてもいたのだ。
束の間の安らぎと、その右手によって。
そうだ。私は最期の後で、救われたのだ。
それは間に合わなかった、ということかもしれない。もう、焼け石に水なのかもしれない。
店主のあの表情も、それを分かっているからなのだろう。
「嗚呼、違うの」
吐息が漏れる。吐き出した呼気の分だけ、心が軽くなる。全てが終わった後でも、灯る熱がこの身にはあった。駆り立てて、奮い立たせて、私に力をくれる。
暗闇から抜け出て、目を開けて、顔を上げた。目の前には、辛そうな顔を押し殺した店主がいる。
いつか、私が店主の傷になれば良いと思った。私に対して強い感情を抱いてくれればくれる程、嬉しかった。そういう形でしか、私は私を特別に出来なかったから。
誰かに特別扱いされていたかった、なんて、今にして思えば、日常さえも既にそのようなものだったのだから、大して良いものでもなかったと分かる。腫れ物扱いは慣れたものだったのだから。
先がない私は何処に行くのだろう。罪を犯したか、何もしていないことも罪か、ならば、地獄にでも送られるのだろう。実感がないから、恐怖も湧かない。それよりも膨らむ感情を言葉にしよう。
今言えなかったら、もう二度と言えないような気がするから。
私は目に力を入れて、座り直す。少々膝が痛いが、跪座をして、店主と目線の高さを合わせた。戸惑いを隠す眼差しが、弱さであり、優しさだと思った。
そして、努めて笑みを浮かべながら言った。
「ありがとうございます。救ってくれて」
店主はその言葉に驚いたように目を見開いた後、眉を寄せて、また泣き出しそうな顔をした。
「でも、私は」
「でも、じゃない。私がそう思ったんです。漸く、漸く手を掴んで、引っ張り出してくれた人がいた。それが出来るのは奏だけだと思ってました。でも、貴方もそうしてくれた。だから、嬉しいんです。とても」
優しく包んだ右手には、まだ熱が残っている。分けて貰った灯火は、思い出と共に、確かに私の元にある。
「だから、ありがとうございました。後悔は、してるけれど、もう仕方ないし、自分のしたことだから、受け入れます。この後、どうなるのか分からないけど、死神さんにお任せして良いんですよね?」
「貴方は」
店主が唾を飲む。
そして、やはり泣き出しそうな顔で口元を微笑ませた。
「貴方は強い子なんだね」
「そんなことないです。情けないし、狡いし、駄目駄目なんですよ、私。でも、そういう風に言って貰えるのは嬉しい。だから、少しでも強くてかっこいいって思って貰えている内に、終わらせたいんです」
店主は腰から下げていた四角い虫籠のような物をベルトから外し、私の前に置いた。
近くで見ると、白い石で出来ているようにも見える。格子の間隔は狭く、中身は見えづらいが、特に何も入っていないようだ。
店主がとん、と人差し指でそれを突いた。
「これは回収箱と呼ばれる物だよ。一時的に霊や魂を保管するもので、その後、管理局へと引き渡される。貴方の場合は魂だから、そのままあの世の裁判に向かう筈だ」
「そこで天国か地獄かが決まるってことですか?」
「そうなるね」
「えー、やだな」
「怖い?」
「うん」
「裁判と言うから、あれなのかな。実際の所はね、組み分けみたいな感じだよ。罰を償う人もいるけど、そこまでじゃない人は程々の所に行って、程々に生まれ変わるんだ。大体の人は程々だよ」
「でも、私、悪いことしました」
「どんなこと?」
少し言いづらくて、淀む。
「友達が困っていたのに、助けなかったんです」
「その子は助けを求めていたのかい」
「いえ」
反芻する。一緒に来てくれるだけで良いと言っていた言葉が硝子玉から聞こえて来る。
「一緒に来てくれるだけで良いと。でも、本当なら、友達なら、もっとしなければならないことがあった」
「貴方は一緒に行ったのかい」
「はい。この海まで」
波が、コンクリートの堤防に纏わりつくように寄せては返した。
すっかり落ちた陽は、水平線の底まで辿り着けたろうか。海の中も明るくなったら綺麗だろうに、闇は益々濃くなるようだった。
「私は他人だから、実際の所は分からないけど、貴方はその子の望んでいたことをしてあげられたのではないかと、私は思うよ」
本当の答えはもう聞けない。でも、少しでも肯定してくれるその言葉が聞けたなら、もう未練らしいものはなくて、寧ろ、何かに気付いてしまう前に、進もう。
「連れて行ってください。行くべき場所へ」
差し出した手を、同じく差し出された手が掴んだ。
後悔はしている。ずっとしている。泣いていた母にも、残された奏にも何もしてあげられない。何も成してないし、何も遺せてない。私のせいで、どれだけ心に傷を負ったのだろう。どれだけ他人に揶揄されるだろう。想像出来ない。
「一つ、お願いしていいですか」
「なんだろう」
「あの子にね、ありがとうって伝えて欲しいの」
私は軽率で、然れど重大な決心での行いの責任を、自ら取ることが出来ない。時の流れが促す忘却が、早く来ることを願うことしか出来ない。
だから、決して恨むことはない。記憶に触れた後に思う気持ちはいつも同じだ。
「嗚呼、一緒にいられて、楽しかったなあ」
透き通る体と透き通る意識。
私が薄れていく。
悪い気はしなかった。そのまま消えてしまっても構わなかった。その方が貴女の中に残る私の記憶も薄れていくような気がしたからだ。
きっと、悲しんでくれているでしょう。きっと、自分を責めているのでしょう。なら、私のことなんて忘れてしまって、切り捨ててしまって良いから。貴女がこれ以上苦しむことをこそ、私は憎む。
嗚呼、ごめんなさい。ごめんなさい。何も出来なかった。なのに、傷だけを残していった。
それでも、願わせて。どうか達者で、健やかに、幸せに。それを告げる口ももう失ったから、唯、心の底からそれを祈る。
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