第 2 章 更けて暗き海

第15話 月取屋の猿猴

 光が箱の中に収まると、途端に暗く沈みつつある夜が寄り添って来る。いつの間にか、昼間よりも夜間の静かさに慣れ親しんでいた私は、それに安息を覚えた。

 眩いものを見たばかりで、まだ暗さに慣れない目ではあまり見えないが、周りに人気ひとけはなく、打ち寄せる波の音だけがある。

 それは、音が鳴っているのに静かな世界だ。


 息をゆっくりと吐き出す。無意識に上がっていた肩が、自然な高さへと下りていく。緊張していたみたいだ。

 見上げれば、薄藍の空には小さく星が瞬き始めていた。遠く水平線の向こうには、まだ、僅かに残る落日の余韻が、雲や空を小さく染めている。間もなく、夜の帳が世界を覆うだろう。


 手に持った回収箱を見つめる。

 中に入ったことはないが、入ったことのある者から聞いた話では、外に出されるまで眠った状態になると言う。だから、それなりに快適であるとか。

 もし、誰にとってもそうであるなら、何よりだと思う。彷徨う魂の多くは、何かしら苦しんでいることが多い。束の間ではあるが、安らぐ時間になれば良い。


 例に漏れず、彼女も苦しみの渦の中にいた。


 目の前にある現実から、必死に目を逸らしていたことには気付いていた。彼女は現実があること自体には気が付いていただろう。だからこそ、目を逸らしていた。それは逃げていたという見方も出来るが、同時に重過ぎる現実に心を打ち壊されないための防御策であったとも言えよう。

 真正面から立ち向かうだけが、生き方ではない筈だ。一度に受け止め切れない事実なら、時間を掛けて、ゆっくりと受け入れることだって、許されるだろう。強さとは、硬いことだけではなく、しなやかであることだって含まれるのだから。

 それに、一度壊された心を元通りにすることは出来ない。幾ら繋ぎ合わせようとも、繋ぎ目は残る物であるし、強度が元に戻らないことだってある。

 だから、彼女のやり方は間違いなどではなかった。彼女にとって、それはどうしても必要な時間だったのだ。


 そう思って、私も時間を掛けて、ゆっくり受け入れて貰おうと考えていたのだが、達者に出来なかった。店の中にまであれの侵入を許したのも、初歩的なミスであった。直ぐに追い出せはしたものの、彼女にストレスを与えてしまった。

 他にも、何処かでやり方を幾度となく間違えていたことだろう。私はいつも最中にそれを見付けることが出来ない。


 短く溜息を吐く。

 死神として働き始めて暫く経つが、いつまでも要領良く、スマートに終わらせることが出来ない。どうにかを必死で繋ぎ止めて、何とか終わりを迎えることを繰り返している。

 友人はそれで良いと言ってくれたけど、もう少し上手く生きられたらと、思わずにはいられない。


 もう一度、溜息を吐く。先程よりも大きく。

 今回もあまり後味の良いものではなかった。本人の抱えているもの、どうしようもないこと、罪と後悔、そして、遺された人々の想いや環境、考えればきりがない程に悩ましい。

 死神としての仕事に、遺族やその友人へのフォローは含まれていない。死神の血が半分しか流れていない私は、存在感が薄いくらいで済んでいるが、そもそも、大半の死神は人の目に映らないため、やりようがない上に、一番の目的はあの世の管理のために魂を回収するということだから、それが達成出来たら、後はどうとでもなれなのだ。それに少し思うことはあれども、然りとて、私に何が出来ようか、哀悼は個人のものであろうとは思うのだが、どうにも気になってしまう性質のようで、何も出来やしないのに、思いを巡らせてしまう。


 気が塞ぎ掛けていることに気付いて、私は思い切り伸びをした。

 そして、回収箱をベルトに着けると、海を覗き込んだ。日が沈んだ今となっては、そこにあるのは美しい海底世界ではなく、自分の指先さえも見通せない暗黒の世界である。何が潜んでいてもおかしくない。元より、人の領分の外にある世界だ。


 潜ってから、大分経っていた。聞いたことはないが、どれくらい潜り続けられるものなのだろう。もしかしたら、息が続く続かないどころではない状況にあるのかも分からない。

 黒い海の底を見る。自分の眼球の限界地点を越えて、より遠くに焦点を当てて、意識だけをそこに近付ける。この眼の特殊能力だ。

 見え過ぎる、と言えば良いのか。眼球の機能が拡充されていると言うのだろうか。カメラでより良く見るためにズームインとズームアウトをするようなものだ。人よりも遠くも近くも見える。更に、それのピントが合う所ならば、周りの環境を無視して、見ることが出来るのだ。壁の向こうさえも見通せる。

 目で見ると言うより、視覚という感覚を広げていると言った方が良いかも分からない。

 使い所によっては便利だが、日常生活においては見え過ぎて眼が疲れることがあるので、普段はそれを抑える眼鏡をしていた。先程、海に落としてしまったから、買い直す必要がありそうだ。


 ピントを遠く、動く物へと合わせる。少し目が発熱する。

 目的の人物は直ぐに見付けることが出来た。今、彼は浮上中だ。今に海面へ顔を出すだろう。


 十秒後、見慣れた顔が飛び出した。


「はあ、はあ」

「大丈夫ですか?」

「し、死ぬかと」


 手を伸ばすと、彼も濡れた右手を差し出す。それを掴んで、上へと引き上げた。

 珍しく疲れているようで、肩で息をしているし、項垂れていた。頬に張り付いた長い前髪からは、絶えず滴が落ちて、リズムを刻んだ。良く見ると、変に長い髪が紛れている。底の奴の物だろう。指で摘んで、海へと返した。


「あー苦しかった。後、五秒、海面に出るのが遅かったら溺れてたな」

「随分と長い潜水でしたね。あれはどうなりました?」

「えーと、あれは、そう、無理だった。更に底へと逃げられた」

「海の中は、流石の貴方も自由とはいかないようですね」

「うーん、息は続く方だが、移動スピードが全然違うんだよな」


 そう言って軽く頬を掻く間に、徐々に呼吸は穏やかへと移っていく。続いた息の長さもさることながら、その回復の早さも驚異的である。


「多分、あいつはまだ魂を抱えている筈だ。捕まえて、解放してやらないと」

「もう一仕事ってことですね。でも、海の中で太刀打ち出来ないなら、何処かに誘い出すくらいしか作戦が思い付かないですね。餌でも用意しましょうか」

擬似魂魄ぎじこんぱくのレンタルか? あれ、高いし、手続き面倒臭いんだよな」

「大量の魂を回収出来たら、ボーナス出るんじゃないですか?」

「嗚呼、それはちょっと良いな。大分やる気が出る」

「もしくは、私を餌にでもするか」


 その提案に彼は不満げに唇を尖らせた。


「いざって時に、どうするんだよ。君、弱いんだから」

「転移を使います」

「でも、言う程、自由が効くものでもないんだろ。大人しく引っ込んでろよ。擬似魂魄レンタルしてくるから。経費で落ちるだろ、多分」


 そう言って、彼は黒いスキニーの尻ポケットから、ジップロック的なものに入れたスマートフォンを取り出した。目的地が海だと分かっていたので、水没しないように保護したのだ。

 袋から抜き取り、指先で何回かタップした後、スマートフォンを耳元へと持って行く。私の耳にも微かに呼び出し音が聞こえた。


「あ、お疲れ様です。今すぐ擬似魂魄を借りたいんですけど、いけます? 嗚呼、そう。在庫はある。取りに行けばいいですか。え、あいつがこっち来るの? あ、ちょっと、もしもし。もしもーし」


 耳から離したスマートフォンの画面を覗くと、通話が終了になっていた。


「切られたんですか?」

「あの人、話の途中で切るんだよな。取り敢えず、こっちに持って来てくれるっぽいから、それまでは待機だな。この堤防にいると、あいつ出て来そうにないから、砂浜の方へ行こう」


 私達はまだ乾き切らない服から海水を垂らし、暗い足跡を残しながら、移動を開始した。まだ、足元が視認出来るくらいには明るいが、真夜中とかだと、この堤防は何も見えなくなるのではなかろうか。そう考えると、さっさと移動をすることに異論はなかった。

 誘い出すなら、態々同じ場所を選ぶ必要はなかろう。寧ろ、同じだと、今の状況だと警戒されてしまいそうだ。兎に角、疑似魂魄の到着を待とう。


 海に面した通りのベンチに座って、水平線を眺める。もう、赤色はなく、うっすらと光が見えるばかりで、夜が本格的にやって来ていた。反対側を見遣れば、すっかり暗い闇色に染まっていて、月も昇っていた。


 蝉の声は未だ聞かず、潮騒だけが空気を揺らす。


「君さ」


 静寂の中に、少し掠れた落ち着いた声がぽつりと落ちる。


「何ですか」

「取り敢えずで飛び込むのはやめなさいね」

「まだ、言ってるんですか」

「何度言ってもやめないから言ってるんだろ」

「そんなにやってないですよ」

「嘘だね。前にビルに閉じこもってる魂を出す時、一番に突っ込んでた」

「それは、えっと、それはそんなに危険な状況ではなかったからで、貴方の言うような、短絡的な考えでの行動ではないです」

「ちゃんと考えた結果だと言うのなら、ご自身の実力も思考に組み込んでくださいね。君、率直に言って雑魚なんだから」

「ぐえ」

「轢かれた蛙のような声を出すのもやめなさい」


 不意を突いた攻撃に、思わずダメージボイスが口に吐く。自分の実力不足についてはよく分かっている。身をもって理解している。それでも、実力も経験も伴った人から嫌味に言われると、それなりのダメージがあるものだ。

 項垂れていると、予想よりも私の項垂れ具合が大きかったことに戸惑ったのか、彼は少し慌て出す。


「いや、でも、魁って誉れって言うから」

「フォローは結構です。事実は事実として受け止めておきますから」

「毎度! 月取屋です」


 急に彼以外の声が掛けられて、吃驚する。見ると、目の前には大きな極彩色の箱を背負った、猿の面を被った小柄な男がいた。

 まるで最初から其処にいたかのように、平然としていて、箱以外は景色に溶け込んでいる。男は背負っていた箱を床に下ろすと、小さく此方に頭を下げた。釣られて私も頭を下げる。


「相変わらず、早いな猿猴えんこう

「偶々、一抜け足をしていたもんで、近くまで来ておったのです。それでお望みの品ですが」


 猿猴と呼ばれた男は、自分で持って来た箱の鍵を開け、中から何かを取り出そうとしていた。

 箱は百二十センチメートル程の高さがあり、キャビネットのような作りをしていて、上側は観音開きの大きなスペースがあり、下は引き出しが二つ上下に並んでいた。そして、その箱には原色を多く使った彩色がされていて、暗くなって来たというのに、存在感が強かった。

 猿猴は引き出しから、白いピンポン玉のような物を取り出して、彼に手渡した。


「何これ。見たことないな」

「擬似魂魄でもいけますが、此方の方が目的に合っているかと思いまして。悪霊ホイホイボールって言います」

「名前が安直過ぎないか?」

「目的って、私達が何をしようとしてるか知ってるんですか」

「ええ、海を見りゃ分かります。それで、それの使い道ですがね、疑似魂魄は魂擬きを見せて騙すものですが、これは魂擬きではなく、魂の匂いだけの物になりまして。ああいう手合いの好む匂いがついとりますので、大食い相手にはより良い釣果を得られましょう」

「幾らなんだ?」

「おひとつ二百円です。使い捨てですがね」

「擬似魂魄に比べると、大分安いな。こっちにしよう」


 彼がスマートフォンを差し出すと、猿猴はささっと四角い機械を取り出して、スマートフォンを翳すように動かした。ぴこんという電子音が静かな浜に響いた。

 決済が済んだようだ。彼はスマートフォンをポケットに仕舞いながら「領収書出る?」と問い掛けた。


「勿論です。此方です」


 猿猴はささっとペンで書くと、切り取って、彼へと差し出した。彼はそれをジップロック的なものに放り込んだ。


「さて、もう一仕事だな」

「その割には、随分と機嫌が良いですね。楽號らくごう


 私の言葉に、伸びをしながら彼はにやりと笑って返した。


「ボーナスが僕を待っているからな」





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