第12話 差し出される手

「そうか。うん。辛いのに、話してくれてありがとう。お陰で、少し構造が分かって来たよ」


 店主は目を閉じながら、じっくりと私の話を聞いてくれていた。そして、話終わると、ぱちりと目を開いて、優しく私に語り掛けた。


「貴方の話を纏めると、一人が救われて、一人が救われなかったんだね」

「そうです、奏が」


 思わず込み上げるものを、喉元で留めておく。

 話している途中でも、何度か堪えていた。とは言え、先程散々に泣き散らかしたからか、その衝動自体は我慢出来るものだった。


「……止めようとは思わなかったの?」


 不意に声が掛けられる。声の方は顔を向けると、いつの間にかカウンター席に一人の若い男性が座っていた。

 前髪が長く鬱陶しいが、隙間から覗く灰色の目は美しく、そして、その眼差しは冷たかった。オーバーサイズの白いTシャツに黒いスキニーを履いていて、清潔感のある人だったが、何故か全く気配がしなくて、いたことに気付かなかった。固い表情も相まって、取り調べでもされているかのようだ。


 料理の減り具合を見るに、彼は恐らく私が来るより前に、店に来ていたのだろう。そして、私の話を全部聞いて、好奇心が湧いた、或いは不可解に思ったといった所かもしれない。


 彼は、くるくるとフォークで巻き上げたナポリタンを一口、口に入れた。


 遠慮のない言葉に、私は黙って首を振る。


「だって、きっとこれしか道はなかった」

「ちゃんと考えた結果なのか?」

「考えました。じゃあ、どうすれば助かったの」

「何で事が起きる前に、その問いを大人にぶつけなかったんだ。君は誰かに助けを求めなかったのか? 嗚呼、それよりもこっちが肝要だな。君は一体、今、何処にいるんだ?」

「何処って?」

「その」


 きつい物言いに、私が怯えていると、店主が間に入った。


「あまり遠慮のない言葉はやめて下さい」


 店主がやんわりと制止するが、男性は眉根を寄せた。


「事実確認は必要だろ」

「だとしても、詰問するような物言いはいけません」

「してないだろ」

「今の貴方の言葉は、ややきつめです」


 普段よりもはっきりと店主が物申す。ふにゃりと柔らかい人という印象があったが、強気に言い合うことも出来るようだ。だが、これは戦意ではなく、信頼から発せられる態度のように思えた。

 性格は全く似ていないように見えるが、この二人には何処か共通点があるのだろうか。お互いの雰囲気は馴染んでいた。


「あの」

「あ、えーと、この人は常連なんだ。少し困った、ね」

「君が勝手に困っているだけだろ」

「うーん、本当に。相変わらず、強引な」


 少し悩ましげに店主は眉間に皺を作る。そして、腕を組み、また瞼を落とした。何か考え事をしているようだ。

 口の中で呟く。


「とは言え、彼の言う通り、事実確認は必要だ」


 瞼をぱちりと開くと、店主は座り直し、私に向き合う。私も改まって、座り直した。

 店主は少し口をもごもごとさせて、言いづらそうにしていたが、観念したのか、短く溜息を吐いてから、寂しそうに笑いながら私に話し掛けた。


「その、貴方の理由を訊いても?」

「え?」

「貴方が飛び込んだ理由」

「それは」


 言葉に詰まる。


「責めている訳じゃないんだ。どうしても確認しなくてはいけないことがあるんだ」


 声はひたすらに優しくて、その言葉に嘘はないと思えた。そう思いたかっただけかもしれない。

 鍍金めっきにも意味はある。実用的にも、装飾的にも。だが、それは見る目がない者にとっては本物の金同様に映る。そして、後に真実を知ったなら、それが金ではなかったという事実だけでなく、それを見抜けなかった間抜けで滑稽な自分が露わになる。知らないままの方が、暗愚でも幸せかもしれない。少なくとも、自分に幻滅はしないで済む。だから、私は彼が優しい人だと思い込む。真実があろうとなかろうと、それで良いと思う。


 思い返せば、全てに於いて、何も知らないままでいたかった。何も分からないままでいたかった。いちいち痛みにも気付かないほどに、初めから鈍感であれば、この苦しみ達も芽生えなかったろう。


 でも、その苦しみというものも小さな積み重ねであり、故に飛び込んだ理由など、雑然とした何となくの集大成でしかない。確固としたものや、一言で言い表せられるものがない。鈍った痛覚では、その痛みを説明出来ない。


 強いて言うなら、世界には自分の居場所がないように思える。

 誰かに何かを言われた訳ではない。唯、誰もが普通にしている何もかもが、私には何気なく出来るものではなくて、少しずつ間違えているような気がするのだ。また、失敗しないかと、他人の目が気になって、びくびくとしている。普段着でパーティに来てしまったような、場違いな姿が恥ずかしくて堪らない。今すぐにでも逃げ出してしまいたい。けど、何処にも逃げ場はなかった。現実はいつでもそこにあって、私を逃しはしない。

 だから、私は開き直ることも退場することも出来ずに、居心地悪く立ち竦み続けることしか出来なかった。あの家の中や、学校での私のように。


 彼女といた時だけが、楽しかった。其処には居場所があった。其処にいることを許されていた。だから、ずっと一緒にいたかった。そのために、ついて行こうとした。


 何かが込み上げて、胸が苦しくなる。


 唯、ありのままでいられる場所を求めるのは、それ程に難しいものなのだろうか。ゆっくりと、静かに息を吐き出せる時間が欲しいだけだった。それだけだった。


 揺らぎようのない事実が心を打ち壊す。


 呼吸が浅くなって、自分の身体が発する音が気になって、透明になりたいと、強く強く願う。透明人間にでもなってしまえば、誰の目にも止まらないならば、私は漸く息が出来るかもしれない。


 呼吸が、浅くなっていく。


 優しい眼差しが、目を通じて脳内に刺さる。

 問いに答えなければならない。良い子にならなければならない、困らせるようなことはしてはいけない。言われたことを言われた通りに、望まれたことを望まれた通りに、そうすれば、誰も咎めはしない。

 与えられた鎖は未だに私を雁字搦めにしている。神様がもしいるのなら、助けて欲しい。多くは望まない。息がしたいだけなんだ。


 血の気が引いて、感覚が麻痺してくる。


 だが、あんな薄い答えに誰が納得するというのか。呆れられて、幻滅されて、そうなった時、私はまだ私でいられるだろうか。恥の感情が人を人たらしめるのならば、私はどうしようもない程に人間だ。そして、そのために私自身が自分に絶望せずにいられない。


 質問に答えなければ、質問に答えなければ。


 逃げ出してしまいたい。逃げ出した、その先に。


 そう思った時、水音が聞こえた。


 耳を閉じた時に聞こえる音のように、鈍く、ぼやけた潮の音は酷く耳に馴染んだ。まるで、いつも聞いていたかのようだった。


 冷たく、暗く、静かに。身体も思考も透き通り、惹かれていく。溶け込んで、混ざり合って、私という自我は其処にあるのに、肉体はまるで他人のように解離していく。唯一、右手の感触だけが、際立つように残っていた。誰かの熱が伝う。


 誰かが手を引いた気がした。


「ずっと一緒にいたかった」


 幻聴のような誰かの声がした。聞き覚えがあるような、ないような声だった。


「ずっと一緒にいようよ」


 その声は、誰の声だったろう。求めて、縋って、願って、その色に酷く見覚えがある。


 手に触れている、誰かの手を掴み返そうとして、空を掴んだ。


 視界を阻む黒い束は何だろう。


 潮流が私を導く。

 全てが急速に遠ざかっていくようだ。


「待って。行っちゃ駄目だ」


 店主の声がして、後ろ髪が引かれた。でも、それも遠く、遠く、水音に掻き消されて聞こえなくなる。


「君は一体、今、何処にいるんだ?」


 冷たい疑問が最後に脳内に浮かんで消えた。

 そして、全ての声は遠退いて、世界は水中の音に包まれる。


 眩む視界は既に暗色に満ちて、私は私が何処にいるのか分からなくなっていた。

 脱力しているのに、いつまでも床に着かない。ふわふわと浮いているのとも違う。これは揺蕩っている。潮の流れを全身で感じながら、私は海藻のように揺れていた。


 目の前が暗いのは瞼を閉じているからだと気付いて、緩慢な動きで瞼を開けた。

 ぼやけた視界が広がる。茜色の光が表面を照らしている。此処は海だ。海の中だ。あの日、見上げた光景と全く同じだ。


 驚きよりも、納得が先にあった。

 あの時、彼女は来てくれるだけで良いと言った。ずっと一緒にいようとも言った。だから、彼女が私を連れて行こうとするのは自明の理だ。


 ついて行ってあげなくてはならない。


 店主の海の町の話を聞いていた時に見た幻覚は、私を呼びに来た彼女の姿だったのかもしれない。


 見上げた先にあるのは、揺れる水面。そして、それを閉じ、塞ごうとする黒い髪の束。左右から昇るそれは、まるで生き物のように奇妙に揺れて、意志などある筈もないのに、巻き付くように私の体に纏わりついた。

 どうやら、私を底へと引っ張っているようだ。


 思えば、私は随分前から此処にいた気がする。今感じている感覚全てに覚えがある。

 体が重く、動かない。まるで死体のように、私は其処にいることしか出来ないでいる。息をしていないのに、苦しみもなく、焦りもなく、されるがままに沈んでいく。

 きっと、あの日から私の魂は此処にいたのだ。彼女と共に在ると決めたあの日から、ずっと傍にいたのだ。そして、今、抜け出した意識が戻って来たのだ。


 為す術なく、揺れる髪を見ていた。

 黒々とした束は捩れ、縮れている。私の背後には彼女がいる。私を呼んでいる。

 私の心は酷く安らかで、人形のように瞼を閉じた。望みは叶えられる。願った通り、息の出来る場所に辿り着いた。もう、逃げ出したりしないで良いのだ。


 だが、現実は私に立ち塞がる。すうっと差し込まれる冷えた疑念があった。髪だ。


 私は髪が短いから、このように伸びる髪は持たない。そして、奏の髪は色素の薄い茶色の直毛だ。濡れると、少し癖が出て来ても、此処までの変化はないだろう。

 ならば。ならば、この黒々とした髪の持ち主は誰なのだろう。


 途端にどくんと心臓が大きく跳ねた。


 疑念は急速に膨らみ始める。嗚呼、背後にいるのは、私を沈めようとしているのは、一体誰なのだろう。いつから私は此処にいて、いつから私は捕らえられているのか。何故、私は此処から逃げ出し、家へと戻ったのか。それよりも、彼女は何処にいるのか。もしかして、この髪に捕まってやしないだろうか。いや、私はまた目を逸らそうとしている。


 纏わりつく髪の引っ張る力が強まる。私はそれを引き剥がそうとするが、力が入らず、上手くいかない。ゆっくりと、私は底へ沈んでいく。どんどんと光は遠退き、暗い場所へと降りて行く。振り向くことが恐ろしくて、私は光へ顔を向けた。


 眩しい光。疎んだ光。それでも、今は唯一の救済の道を示す。


 右手を伸ばした。その先に掴めるものなどないことは百も承知で、何かに縋ろうとした。底にいる何かから、出来る限り遠くへ逃げようとしていた。


 でも、分かっていた。この右手を掴むのは彼女しかいないこと。そして、彼女とはもう繋げないことも。


 救われたのはどっちだったか。

 どちらも救われなかったのかもしれない。

 私も貴女も、馬鹿みたいにどうしようもなく死んでいったのかもしれない。逃げ出せたと思ったら、また此処に戻ってしまった。


 この後に及んで、私はまだ目を背けている。


 体に込めた力を解く。

 逃亡は成らなかった。だから、諦めよう。どうせ逃げられないのだから、抵抗したって何になると言うのか。私は髪の引っ張る力に抗わず、そのまま沈んでいく。


 底には何があるだろう。きっと禄でもないことが待っている。希望は持たない。絶望は既に其処にあって、私を慰めることも貶すこともしない。唯、変えようのない今を色付かせる。


 それでもと、右腕を伸ばす。指の先には光る水面。諦め切れなかった何かが、そうさせる。


 その時、突然夥しい量の水泡が、目の前を上って行った。何かが海に飛び込んだのだと気付いた時には、その水泡の壁を割って腕が差し出された。


 伸ばされるその腕は迷わず、私の右手を掴む。空の掌に他人の熱が篭る。


 そして、呆気に取られている私を無視して。力強く水面へと引っ張り始めた。髪の力も強くあったが、その人が力づくで引き剥がしていく。次第に髪達は私を捕らえ続けることが出来なくなり、その拘束から私は逃れることが出来ていた。


 水泡ともにやって来た人は、私の腕を引いて、水面に押し上げてくれた。


「ぷわっ」

「はっ」


 私の次に、水面に顔を出したその人は店主だった。

 眼鏡は掛けていないが、間違いない。


「何で」

「兎に角、陸に」


 店主は焦ったように、私の手を引いて、見覚えのある堤防へと近付く。此処は私達が飛び込んだ海だ。堤防の上には、常連という客が仁王立ちで待ち構えた。


「速く! 後ろにまだいるぞ」


 その言葉にまた、店主が私を引っ張る力が強まる。そして、同時に私の足首を撫でる何かの感触もあった。

 底のあれは、まだ、私を引き摺り込もうとしているのだ。


 堤防は直ぐ傍だ。店主は私を上へと押し上げ、堤防の上にいる常連客が引っ張り上げる。私は壁に足を掛けて、登る。足首の髪は店主が解いてくれたようだ。

 気息奄々としながら、私は登り切り、四つん這いのまま、肩で息をしていた。


 常連客は直ぐに店主の方へ向かって、同じく引っ張り上げていた。


「何で、此処に、あなた方が」


 息切れしながら、問い掛ける。


 それに同じく肩で息をする店主が、なんてことないように答えた。


「貴方を助けたかったからだよ」





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