第11話 卑怯者

 透き通るような思い出は、今でも唯々きらきらと輝いている。そして、それが浮かぶ底には、区別が付かない程に混ざり合った澱みが溜まっていた。


 彼女と出会ったのは、入学して直ぐのことだった。

 式が終わった後、私は既に散った桜を尻目に教室へ向かっていた。おろしたばかりの着慣れない制服に、大勢のそわそわとした雰囲気に飲まれて、少しへとへとになりながら、よく分からない間取りの校舎を歩いていた時、唐突に話し掛けられたのだ。


「ねえ、さっきの新入生代表の挨拶したのって、貴女?」


 私は首席で入学したらしく、新入生代表に選ばれて、入学式の挨拶を任されていた。陰鬱で展望のない私などより、他に適任は大勢いただろうけれど、その時の私はそれを完璧にやり遂げれば、両親の期待が戻って来るのではないかと、甘い算段をしていたのだ。結局、狸の皮算用で終わってしまったけれども。


 話し掛けられたので、反射的に振り向くと、酷く美しい少女が少しぎこちなく微笑みながら立っていた。

 傷一つない白い肌に、バランスの取れた輪郭。柳眉の下には大きく涼しげな目元、仄かに色付く唇は妖艶で、色素の薄い艶々とした直毛がさらさらと埃っぽい風に揺れていた。ぼやけた春の陽射しの落ちる中庭は、宛ら優しいスポットライトに照らされた舞台のようで、浮世離れした彼女の存在を際立たせていた。


 思わず立ち止まった私のせいか、それとも目を引く彼女のためか、周囲が流れに沿いながら、此方に目を向けていた。


「あ、えっと、そう。さっきのは私」

「やっぱり。声が可愛いなぁって思って、気になってたの。あ、私、渡辺奏わたなべかなでって言うの。貴女は?」

「あ、ありがとう。私は倉本美晴くらもとみはる


 彼女は私に歩くのを促しながら、話を続けた。

 私達はまた人混みに合流して、隣り合う。

 彼女は人好きのする笑みを浮かべながら、その光に良く透ける焦茶の瞳に私を映した。


「美晴って呼んで良い?」

「良いけど」

「やった。私は奏で良いよ。ねえ、美晴は何組だった?」

「二組」

「嘘、一緒じゃん! 宜しくね」

「宜しく」


 急に話し掛けられて驚きはしたものの、入学早々に知り合いが出来たことは喜ばしいことだった。彼女の見目では、きっと私の元など直ぐに去って、所謂クラスカースト上位の人々の仲間入りをしまうものだろうとは思ったが、それでも人懐っこい彼女の性格は好ましく、純粋に話していて楽しかった。


 しかしながら、一抹の不安は私の杞憂に終わり、彼女はずっと私に話し掛けてくれた。

 休み時間になれば、私の席へやって来て、移動教室があれば声を掛けて来て、お昼になれば学食へ二人で食べに行った。残念ながら、帰り道は逆方向の電車だから、駅までしか一緒にいられなかったが、そんなにずっと傍にいても不快感はなく、寧ろ、もっと長く話したい、もっと彼女のことを知りたいと思うようになっていた。


 勉強ばかりさせられて、学校が終われば直ぐに塾に向かっていた中学時代とは比べ物にならない程に、充実した毎日だった。その頃はまだ、耐え切れる程ではあったが、家に帰れば憂鬱なことは待っていた。だが、学校にいる間は彼女がいたから、忘れることが出来た。


 彼女の秘密に気が付いたのは、蒸し暑い六月の頃だった。


 衣替えも過ぎ、誰もが蒸し暑さから半袖へとなっていると言うのに、彼女は決してセーターを脱がなかった。下に着ているのは半袖だろうけれど、絶対に腕を捲らないし、体育の着替えの時も、人の目に映らないように上手に体を隠しながら着替えていた。


 私は見られたくないものでもあるのだろうと、楽観的に考えていた。それが傷だろうが、体型だろうが、それで私の彼女自身への何が変わるまでもなく、勿論、私達の友情に響くこともない。それに、本当に偶に、彼女は半袖を着て来ることもあった。

 だが、口さがない人間は何処にでも湧くものだ。


「知ってる? 渡辺さんが隠れて着替える理由」「痣があるんでしょ」「お父さんが」「可哀想」「お母さんじゃなかった?」「関わりたくない」「やば過ぎ」「お高くとまっちゃってさ」「調子乗ってるよね」「どうせキャラ作りでしょ、設定作り過ぎ」「ちょっと可愛いからって」


 それは憶測のみで語られたこと。唾棄すべきくだらない話だ。だが、一部の層には増大して突き刺さった何かがあったらしく、彼女の周りには波が引くように人がいなくなった。


 それが物理的な攻撃にまで転じなかったのは、せめてもの幸運だったのかもしれない。


 彼女達は時折ひそひそと陰口を言うだけで、手までは出そうとしなかった。だが、発言力の強い子がそのような態度を取れば、自然と大人しい子達は自分に被害が及ばないよう避け始めるものだ。

 傍観者は加害者と変わらないと言うが、目を付けられたら最後だと言うのに、自分の身を守ることすら出来ないかもしれないのに、どうしてあの子達に彼女を守れだなんて言えたろう。戦わなければならない時はある。正しくあらねばならない時も。でも、誰もが戦える訳じゃない。勝てると分かっていなければ、拳を振り上げられない。自己保身とは、弱い自分を守るために必要なものだ。無謀は命取りになってしまう。


 そう言い訳が多くなってしまうのは、私も彼女達と同じく、立ち向かって戦ってあげることが出来なかったからだろう。私達は愚かしい程に臆病だった。

 私は戦うべきだった。その場限りの慰めの言葉ではなく、彼女に降り掛かる言葉の雨を跳ね返して、逆に浴びせるくらいの気概が必要だった。先生には言わなくて良いだなんて言葉は突っぱねて、問題にするべきだった。


 本音を言うなら、こんなものは間違っていると、出鱈目な噂も悪口もやめるべきだと、皆が言ってくれたら良かった。もし、そうなったら、私も一緒に戦えたのにだなんて。都合の良い言い訳だ。罪悪感を他責で溶かして薄めるばかりで、自分の責任から目を逸らしているから、今でも私はまだ立ち向かえない情けない人間なのだろう。


 結局、私は此処でも逃げたのだ。大丈夫だから、平気だから、と言う彼女の言葉に甘えたのだ。

 それがどれ程に薄い薄氷の言葉かを知っていながら、私は彼女を陸地へ連れ戻すことも、氷を割ろうとする者を制止することも出来なかった。


 後悔ばかりが、思い出に色を付ける。浮かぶ硝子玉の下には、黒く澱んだ水に満ちている。


 しおらしく、教室の隅で二人で話している分には、何も言われなかった。


 事実だけ言うなら、噂の通り、彼女には誰にも言えない悩みがあった。

 比べるものでもないが、私のそれとはまた違う次元の問題で、家族に纏わるものということが共通点だった。だけど、それは家の中のことであって、学校の、況してや偶々同じクラスだった程度の他人がどうこう言えることもない。確証など何処にもなかった筈なのだから。

 口汚い彼女達にとって、それは何処まで行っても他人事で、手を差し伸べる必要性すら見なかっただろう。


 でも、私は違った。私は真実を知っていた。信頼してくれたから、話をしてくれたのだ。

 なのに、何も出来なかった。こんなに沢山して貰ったのに、何も返せなかった。

 そして、自分など所詮そんなものだと諦めた。


 碌でなしだと嘲笑ってくれたなら、酷い奴だと厭悪してくれたなら、幾らか心も楽になったろうに、あの日、彼女は一緒に来てくれるだけで良いと寂しげに笑った。


 そう、あの日。学校を抜け出して、海へ行った日だ。


 何もかもを棚上げにして、束の間の暇に安らいだ。時間の終わりは、夕闇と共に訪れて、閉塞感に溢れる明日は私達の展望をいとも容易く打ち砕く。一片の好転の兆しも見出せないまま、唯、逃げ道を探していた。終わりだけが救いだった。停滞し、濁り臭う日々からは逃れられないと分かっていた。それでも、だからこそ、逃亡を夢見ていた。


 だから、あの甘い囁きに私は頷いたのだ。


 手を取り合って、海の向こうの堤防を目指した。会話はないのに、心は不思議と軽く、不意に絡む視線にお互い微笑み合うことさえあった。

 沈み行く陽の影に私達は紛れて、世界の何処にもいなくなった。誰にも見付からない。誰にも傷付けられない。


 拍子抜けな程にとんとん拍子で辿り着いた堤防は、お誂え向きに人気ひとけがなく、眼下に広がる暗い水面と潮騒だけがあった。

 彼女の顔を見ると、少し寂しそうに笑っていた。それもまた美しい。一瞬、何か言いたげに、唇を動かそうとしたが、直ぐに微笑みの形へと戻った。

 私が繋いだ手に力を込めると、彼女もまた力を入れて握り返す。胸に何かが宿る。

 言葉は要らない。これだけあれば良かったのだ。


 底の見えない深い海は、まるで誘うようで、何処までも受け入れてくれそうで、だから、酩酊した大人のように、ふらふらと頼りなげに私達は委ねるように飛び込んだ。


 途端に塩気が舌に纏わり付いた。海水を吸って、ベストもスカートも重くなっていく。口から漏れる空気を吐き出して、浮かばないように底へ底へと落ちて行く。我慢が出来ないかもしれないと思ったのに、案外苦しみは薄くて、意識は比較的直ぐに遠退き始めた。


 そうして、私の意識は、身体は海へと一体化して、透き通って行く。


 唯一、右手の感触だけが、未練だった。

 離したくなかった。

 だって、彼女と一緒だから出来ることだ。

 彼女がいなかったら、私は実行出来ない。

 一緒にいたかった。いつまでも、何処までも。一緒なら、海の底へだって、地獄だって構わなかった。


 なのに、弛緩した手の内から、呆気なく手は離れた。


 もがいた気がする。手を伸ばした気がする。神にも祈った気もした。どうか、望みを果たさせてと。でも、その辺りはもう朧げな記憶の内にあって、確かなことは分からない。


 沈んで行く感覚だけがあった。


 息苦しさもなく、恐怖もなく、揺蕩う藻のように、私は唯、海に在った。上へと伸びる髪が水面を閉じる。


 次に意識が覚醒した時には、私は自室のベッドにいた。

 それで私は、私達の企みが失敗したことを知った。


 誰も何も教えてくれないから、彼女がどうなったのかは分からなかった。後に、ニュースで私達のことが報じられていて、近隣の漁師によって一人が助かり、もう一人は助けられずに亡くなったと聞いた。


 それっきりだ。

 それで、永遠に続けば良いと思った私達の関係は終わりを迎えた。もう、話すことも遊ぶことも出来ない。その顔を見ることも、声を聞くことも、何も出来ない。

 何気ない日常に見る面影だけが、私の中に残る彼女を思い起こさせてくれる。そして、同時に喪失感に力が抜けるのだ。

 後悔すれば良いのか悪いのかさえ、判断がつかない。彼女は救われたのか、それとも、救われなかったのか。憐れみと追悼の言葉ばかり耳に入る。形ばかりのピーマンだ。


 あの日以来、私の頭と心は痺れていて、何も感じない。痛いのか、辛いのか。なけなしの抵抗で、目を逸らし続けていた。

 此処に通っている内に、ほんの僅かに元に戻れたような気もしたけれど、また口さがない彼女達のせいで、私の心は痛みを忘れようとしている。でも、店主の問い掛けで、私は自分の傷を見ている。


 全て、高望みだったのかもしれない。或いは、前提から間違えていた。

 だとしても、今更どうしようもないでしょう。昨日には戻れない。今日をどうにか乗り越えなくては。明日が来るのを恐れながら、それでもやって来た朝に茫然としながら、私は喘いでいる。水面近くで顔だけ出しているように、呼吸がままならないでいる。


 現実は私を打ち壊すためにやって来た。


 見て見ぬふりして来た彼女が、今、目の前にいる。

 あの日を私は思い出している。血に塗れた透明な硝子玉。

 そして、何も変わらない現実を前に絶望している。


 これは報いなのかもしれない。


 彼女はいない。

 私だけが助かった。


 彼女はいない。

 私の苦しみは続く。


 彼女はもういない。

 私はまだ此処にいる。


 救われたのは、どちらだったのだろう。

 やっぱり、私は逃亡こそが。

 嗚呼、神様。私の願いは。





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