第10話 紅茶と告白
飛び込めば、ちりんちりんとドアに付けられたベルが響いた。
「いらっしゃい」
穏やかな声と光が私を迎える。
その様子に、逆立った心が少しだけ穏やかになった気がした。
その人はいつもと同じように、ソファに座っていた。珍しく新聞を読んでおり、それを持つ、袖を捲った右手には古い火傷の痕があった。そして、私の様子に気付いて、慌てたように新聞を置いて、駆け寄って来た。
それはずっと触れて来なかった人にされる心配だった。優しさから来る善良な行動だった。私を思っての行動は、逆に私の心を抉るから、だから、私はどうにか堰き止めていたそれを止められなくなった。
「え、どうしたの? どっか痛いの?」
普段の落ち着きは何処へやら、焦った顔で蹲る私の顔を覗こうとする。しかし、私が俯いて泣きじゃくる一方で何も話せないでいるので、取り敢えず、と近くのソファへと誘導される。
ふかふかとしたソファに腰を埋めると、店主は店の奥へと消えた。そして、一分もせずに、ティッシュを片手に戻って来た。
何枚か取り出して、私に握らせると、隣に座り、背中を摩りながら、言葉を選びながらこう言った。
「ええと、うん、何があったかは分からないけど、此処には貴方を脅かす者はいないし、無理をする必要もないよ。落ち着くまでいて良いからね」
知らず知らずの内に私はその人の服の裾を掴んでいた。白いシャツに皺が寄る。
店主は一瞬それに目を落としたが、決して振り払うことはせずに、何も言わない私の背中を摩り続けた。
いっぱいいっぱいだった。感情も、身体もそれ以上がないくらい限界だった。
溢れる衝動のような感情は、名前もつけられない程に怒涛の勢いで私の心を蹂躙している。呼吸がままならなくて、目から溢れる涙も際限なくて、真っ赤で汚い顔を見せたくないのに、何処かに行かれてしまうのは嫌だった。
そうだ。これは私の我儘で、店主は甘やかしてくれている。
良くない。迷惑を掛けている。お行儀良くしなくてはならない。失敗しないように、失望されないように、卒なく熟さなければならない。
でも、今だけはこの辛さを理由に安らぎを求めても良い筈だと、頭の中で囁く声があった。
だから、甘えた。裾を離さないでいた。
皮膚に触れなくても体温を感じられるその距離に居続けた。
それは、十分のようでもあったし、一時間のようでもあった。
永遠に終わらないと思われたしゃっくりは止まった。
脈が落ち着きを取り戻し始める。
落ち着き始めた私を見て、店主はお茶を淹れに行った。静かな店内には、私の呼吸音と茶器の揺れる音だけが聞こえる。
机の上には、店主が置きっぱなしにした新聞が置かれている。そこに印字されている日付は今日のものではなく、二週間前のものだった。文字の羅列を斜めに読んだが、頭の鈍った今では、唯の記号としてしか認識出来ず、内容は理解出来なかった。分かったのは、小さい記事にマーカーで丸が付けられていることくらいだ。店主にとって重要なのだろう。興味はあったが、何だか他人の日記を無断で見てしまうような感じがして、私は視線を逸らした。
日付のずれを不思議に思いながら、天井へと目線を移すと、温かみのある深い色の梁があった。いつもと変わらない天井だ。
漸く、深く息を吸い込んだ。
肺の奥へと流れて溜まっていく。そして、それを絞り出すように吐き出した。胸が微かに上下する。体の中の熱が僅かに排出されたような気がした。
私という生命が機能するために、熱は生まれる。その代謝は、私が生き絶えるまで続いていく。そう思うと、この熱は私の命と近しいもので、何故だか同時に酷く気持ち悪く思えた。心の硬質さと身体の生々しさがどちらも己の中にあって、それらは溶け合うことがなく主張し合う。だから、重心を見失って、私は躓くのだ。身体は私そのものでありながら、私の意思の下にはなく、ある種の悍ましさを纏って変化をし続ける。
呼気の温かさが不快だ。冷たくなりたい。腐敗も病もない程に、成長が止まる程に、心の深い所と同じく冷ややかな身体になりたい。
澄んだ空気を体内へと取り込む。一種の強迫観念のように、私は呼吸を繰り返す。
繰り返せば、私の体は綺麗な物だけで満ちるだろうか。
いや、きっと、内側に入った途端に腐敗が始まるのだろう。傷んだ蜜柑に近い物から、色を変えていくように、それを損なわせながら毒を出す。
繰り返す呼吸に、私は次第に息苦しさを覚えた。
見たくないものから目を逸らすように、私は店の奥を見る。
湯気の上がるお茶を持って、店主が戻って来ていた。お盆から机へと移すと、途端に良い香りが私の鼻腔を擽った。
穏やかな日差しが窓から差し込んで、私達を包み込み、仄かな暖かさが皮膚の表面に残る。店主の艶やかな黒髪がきらきらと輝く。時折、眼鏡の縁やレンズに反射する光が目に眩しい。
机には店主が淹れてくれたセイロンのミルクティーと、白いアイシングの掛かったウィークエンドのケーキがあって、甘い香りは私の神経を穏やかにさせた。
「落ち着いたかな」
いつものマグカップを手に持ったままの店主が問い掛ける。僅かに昇る湯気は珈琲の香りを纏わせていた。
既にシャツは手から離れている。
私は自分の考えていたことを口にすべきか悩んでいた。この取り止めもない嫌悪感を恐怖心を外に出すべきではないという気持ちと、この店主ならこの気持ちを受け止めてくれるんじゃないか、整理をしてくれるんじゃないかと期待する気持ちとがある。
口を微かに開ける。唇がひっついていたのが離れるが、私はまた唇を閉ざした。
「すみません、ご迷惑を」
「気にしないで。偶にあることだ」
「店主さんにもあるんですか」
「嗚呼、あるとも。泣きたくなることも、叫び出したくなることもね。大人だからやらないだけさ」
それを聞いて、私は気が塞いだ。
大人になっても、まだ、嫌な出来事は続いていくのだ。
店主が少しぎこちなく此方に視線を向けた。手元に持ったままの珈琲からは湯気が昇るが、胸の辺りで霧散していた。
「何があったか、訊いても良いかな」
「……はい」
問い掛けに観念して、私は先程あった出来事を辿々しく伝えた。
まとまりがない上に、まだ、ぎこちない動きの喉のせいで聞き取りづらいだろう私の話を、穏やかに微笑みながら、店主は黙って聞いていたが、机の上の花瓶の話に差し掛かると、顔を曇らせた。
ショック故か、何処かまだ現実味のないあの出来事を口にすると、頭の中で言語化という処理がされるからか、じわじわと実感が伴って来た。悪寒のようなものが背筋をなぞり、手足の感覚が遠くなる。
それでも話し続けた。聞いて欲しかった。胸の内に溜まるものを吐き出したかった。それが相手にとって、どれだけの重みになるかも思い至らず、唯、八つ当たりにも似た衝動で力いっぱいに投げ付けていた。
溢れそうな涙を時折堪えながら話し終えると、店主は目を閉じて、一言「そうか」と呟いた。その後は暫く、腕を組んで沈思していた。
私はまだ緊張している喉に、少し冷めた紅茶を流し込んだ。まろやかなミルクが優しい。
話したお陰で、実感も襲って来たが、冷静さを取り戻すことも出来たようで、私の心は平常に近付いていた。全貌が分からない程に恐ろしかったことを、今は少し距離をもって眺めることが出来る。
「そうだね。とても、とても難しい問題だ」
閉じていた瞼を開いて、店主が私を見つめた。灰色がかった黒目が、真っ直ぐに此方を見ている。
場にそぐわない感情がほんのりと心を包む。どうやら私は、思っているよりも余裕があるのかも知れない。ひた隠しながら、我ながら気味が悪いと思う程にしんなりとした態度で、次の言葉を待った。
「先ずは、月並みな言葉になってしまうけれど、学校というのは社会から見たら狭い世界だ」
考えながら話しているのだろう。いつもの流暢な語りではなく、躊躇うように店主は語り掛けている。
「其処で起きたことは、今の貴方には受け止め切れないぐらいの衝撃を与えて来たかもしれないが、それを齎した者達は大した奴らじゃないし、これから先も其処で過ごそうとしなくて良い。全く違う環境に逃げて良い筈だ。彼等が何を言おうと、貴方自身を差し出す必要はないし、況してや、その攻撃によって貴方自身の価値が損なわれることもない。貴方は貴方のままで良いんだよ。間違えているのは、傷付ける側なのだから。今は、もしかしたら今後も、今回の件は貴方にとっての傷になってしまうかもしれない。だから、繰り返し言うよ。間違えているのは、傷付ける側だと」
「でも」
「うん」
「でも、きっと私の何かが気に入らないから、あの子達はそうしたんでしょう」
「貴方の話しか聞いていないから、彼等がそうした理由を私は知らない。だから、この件について私が断言出来ることというのは、とても少ない。だけど、そうだね、私の推測が合っているなら、彼等は貴方を傷付けたくて、花瓶を置いた訳ではないと思うよ」
その言葉に私は少し目を見開いた。
店主の言うことが信じられなかったからだ。
机の上に花瓶を置くなんて、その机の主の死を望むというメッセージに決まっているではないか。明らかな侮蔑と嘲笑だ。
それ以外の意味なんてあるものか。
「どうしてって顔してるね」
「だって、意味は一つだけでしょう」
「一つだけじゃないよ。それを説明するには、貴方に幾つか質問をしなければならない」
「どんな質問ですか」
予感があった。
その問いは、と言うより、その問いに対する答えは、私の何かを致命的なまでに破壊してしまうのではないかと。足元が硝子のように割れて崩れてしまうのではないかと。
落ちた先には何が待っていよう。
僅かな恐怖と緊張が、顔を強張らせる。
店主が三本の指を立てた。細く長い指はしなやかで、器用そうだった。
「私がしたい質問は大まかに三つ。その内の二つは既に貴方に問い掛けている」
「あ」
胸を貫くような、あの質問達のことだろうか。緊張が増す。頭の中がごちゃごちゃとし始める。あと少し経ったら、真っ白になるだろう。
やっぱり、逃げ道はなかった。私は答えるしかないのだ。
「返事を貰っていなかったね。だから、もう一度、訊くよ」
店主は指を折り畳んで、自分の膝の上に置いた。
俯く私の頭の上から、声が降り掛かる。
「貴方は何を望んでいたのかな」
「……逃げ出すこと。息の出来る所へ行くこと」
「貴方は最近、海に行ったのかな」
「……行きました。彼女と二人で」
「三つ目だ。其処で一体、何があったのかな」
「……」
何て答えよう。何て、何て答えれば、この場から逃げ出せるだろう。
嗚呼、また、私は逃げ出すことを考えている。それだから、あんなことになったのに、いつまでも変わらないままでいるつもりなのか。過去には戻れないし、今日を凌げなくても、それでも、明日は変わらずやって来る。より適した形へ、より痛みの少ない形へ、私は進んで行くしかない筈なのに、まだ、蹲って丸まっている。
でも、此処なら大丈夫な筈だ。勇気を出しても、学校の時のようにはならない筈だ。店主は返事をしてくれる筈だ。
それに、どうせ私達に逃げ場なんてないのだから、言ってしまえ。
「あの日は」
舌の上に乗る透き通った硝子玉の思い出は、冷たく硬く、味がなくて、でも、口から出したくなかった。
「あの日、彼女は、奏は……」
少し眉を寄せながら、私の言葉を待っている。
息を吸い込む。震える声で、明日のために私は問いに答える。
「あの日、私達は海で自殺を図り、私だけが救われた」
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