第21話 傘と伝言
平日、昼下がりの公園には、
普段なら小さな子達が元気良く駆け回っているが、雨が降っているからだろう、一人もいなくて、そう広くもない公園はしんとしていた。今日はやけに気温も雲も低くて、暗く、どんよりとしていた。
昼なのにまるで日の入り後のような薄暗さで、夏間近だというのに、肌を撫でるひんやりとした風が、時折頬や腕の隙間を擦り抜けていく。
公園内のブランコには、制服の少女が一人、腰掛けていた。揺らすでもなく、傘も持たずに、彼女は項垂れた様子で雨に打たれていた。
大人びた顔付きは美しいが、何処か
私は影を無視して、彼女に近付き、自分の蝙蝠傘を差し出した。
翳りに気付いたのか、少女は見上げ、私の目を見た。
「風邪引きますよ」
「誰?」
「死神です」
「あ、えーと、危ない人?」
「貴方に伝言を届けに来ました」
押し付けるように傘を手渡すと、私は隣のブランコに腰掛けた。椅子部分に溜まっていた水分がズボンに染み込み、上からは梢から滴る粒の大きな水滴が降って来る。
彼女は戸惑っている様子だったが、私が親切心で傘をあげたことを理解したのか、「ありがとうございます」と呟いた。
少し、ブランコを揺らしながら、彼女は問い掛けた。
「誰の伝言を預かって来たんですか」
「貴方のお友達ですよ」
「嗚呼、あいつらね」
彼女は顔を曇らせた。嫌なものを聞いたとばかりに、眉頭が険しくなり、テンションが下がっている。
その顔は化粧っ気もなく、隈も濃く、何処かかさついていて、草臥れているように見えた。唇も乾いて、皮が捲れている。
ここ二週間での苦悩を思えば、当然だったのだろう。首謀者にして、生存者。共に進んだ者のみが犠牲になった。その事実は二重に三重に重い枷となり、彼女を縛り付けている。
それをどうにかすることは、私には出来ないだろう。せめてもと、余計なお世話と分かりながらも来たが、どうやら彼女は私のことを、クラスの子が嫌がらせで呼んで来た人か何かだと考えているようだった。
「性格の悪い人達。……こんな子供の遊びに付き合わなくたっていいんですよ。貴方だって、お仕事とかあるでしょう」
「いや、これも仕事……仕事ではないか。いや、でも、これにはクラスの子達は関係ありません」
「どういうこと?」
彼女は、奏さんは首を傾げた。細く白い頸が見える。
どんなに窶れていても、隠し切れない好奇心が目を輝かせている。それを見て、私は少し安心した。心が死に切っていないと分かったからだ。
「私が預かった伝言は美晴さんからのものなんです」
「美晴……」
名前が出た途端に、一瞬、表情が硬くなるが、直ぐに意思の篭った目で続きを促した。
そんな彼女が後も先もないと考えずにいられなかったことを憂う。僅かな怒りも滲み掛けて、直ぐに無用な物と頭の隅に投げた。
私ははっきりと口にした。
「ありがとうと、貴女と一緒にいられて楽しかったと、そう言っていました」
「……」
「これが彼女の最期の言葉です。正しくは死後の言葉だけど。彼女は死んだことを後悔していましたが、貴女との思い出はとても大切にしていました。貴方のことも気に掛けていました。……見た所、あまり寝ていないようですね」
「寝られる訳がないでしょう。人が一人、あたしのせいで死んでいるんですから」
彼女は勢い良く立ち上がると、涙の溜まった焦茶色の瞳で私を睨み付けた。そして、手に持っていた私の傘を此方へと投げ付けた。
私は特に何を言うでもなく、傘を拾って畳んだ。その後は、またブランコに座って、その視線を受けていた。
俄か湧き出した激しい怒りの矛先は、友の死を侮辱する不届き者だ。よく分からないことを友が言ったことにして、嘘を吐いていると思っている。それは当然のことなので、私は何も言わずにいた。
「ふざけないで。死神だとか、美晴の言葉だとか、適当なこと言って、そんなに私を傷付けて楽しいの? どうして静かにしてくれないの」
「伝えて欲しいと言われたので」
「だから、そんな嘘を吐かないで。本当に信じられない」
そう言って、彼女は乱暴に椅子に座ると、頭を抱えて蹲った。ブランコは僅かに揺れて、小さな軋み音が硬い空気に傷を付ける。茂る枝葉から落ちる滴は彼女の肩を背を濡らしている。
私の言葉を否定しても、彼女はこの場を離れない。一筋の糸を手繰るべきか迷っている。
「海、行ったんでしょう。二人で。窓際の席でこっそりと計画して」
呟くと、彼女がばっと顔を上げた。
「何で知ってるの」
「教えてくれたんですよ。学校をずる休みして抜け出して、電車を乗り継いで、海を見たんだって。揺れる電車内で肩が触れ合って、笑い合ったと」
「それを知ってるのは」
「とても楽しい旅だったって言っていましたよ。お土産屋さんを冷やかしたとか、階段の先に海が見えてテンションが上がったとか、浜で貴方が裸足で駆け出して、追い掛けたら水を掛けられたとかね」
「あなたは、本当に」
私は立ち上がって、もう一度、彼女に傘を差し出した。垂れた骨の先に滴る雨水が、私の肩を腕をしとどに濡らした。
「私は死神です」
先程と同じ台詞を繰り返す。
「彼女の魂を回収するために、彼女と話をしました。後悔と幸福の物語を聞きました。本来なら、こうして対象者の周囲の人に接触する必要はないのですが、私は貴方にも聞いて欲しいと思ったから、こうして伝えに来ました」
驚いた顔で、彼女は私を見ていた。だが、直ぐに何か分かったような顔をして、傘を受け取った。
「美晴は、あの子は苦しんでなかった?」
「全くないとは言えません」
「あたしのこと、恨んでいるだろうな」
「それはないですよ」
影が彼女の耳元へ何か囁くように、顔を近付けた。
彼女はきっと何かを否定しようと口を開いた。でも、言葉は発せられなかった。代わりに溢れたのは涙だった。目元を抑えても、次々と頬を伝い落ちていく。葉を打つ音と、鼻を啜る音が公園に響いた。それに嗚咽も加わって、まるで子供のように泣きじゃくりながら、彼女は言った。
「あたしのせいなの。あたしが。あたしが、あの子を」
「……」
「きっと、苦しかった。死にたくなんてなかった。でも、あたしが連れて行ってしまったの。なのに、あたしだけが生きてる。許せないの、自分が。ご飯を食べる度に、何であたしが食べてるんだろうって、美晴はもう食べられないのに、何であたしが食べているの、何で生きようとしようとしてるのって。何で、何で神様は一緒に死なせてくれなかったの」
堰を切った想いの津波に、彼女はまた俯いた。
私は掛ける言葉も思い付かないのに、彼女の傍に跪いた。
「何で、何で。苦しいから逃げたかったのに、もっと苦しいの。嗚呼、望み通り一変はしたね。あたしは、もう、まともには生きていけない。親友を殺してしまった。結局、逃げ道なんてなかったんだ」
「道は閉ざされてない筈です」
「だからってどうしろって言うの。そんなの、今更言われたって、どうしようもないじゃない」
「嗚呼、そうですね。もう終わってしまったことだから、幾ら嘆いた所で過去は何物にも形を変えない。だから、未来を考えなくてはならない」
「そんな綺麗事、何の意味もない」
追悔がこの子を縛る。居もしない亡霊が背後に立ち、恨み言を告げる。それはまやかしだ。彼女はちゃんと回収されたのだから、此処にはいない。ならば、これは奏さんの想いによって作り出されたものだ。幽霊とは死者そのものではない。生者死者問わず、強い想いから生まれるもの。死なせてしまったという彼女の後悔の想いから生まれ、彼女自身を苛むための幽霊だ。
責められては傷付き、その痛みから逃れようとして、また責められる。責められている間は、安心があるのだ。自分が悪いと悲嘆している内は、失ったものの大きさに直接触れずに済む。傷を作り、抉る、また抉る。そんなもの悪循環でしかない。
私はもう一度、はっきりと口にした。
「美晴さんは、ありがとうと言ったんです。全てが終わった後に、本当の最後の最後に、そう言ったんです」
「……」
奏さんの眉が更に険しくなる。再び、瞳が潤み出し、下唇を噛む。鼻先と耳が赤くなっている。それは、白い肌にはよく目立った。
私は真っ直ぐにその目を見て言った。
「一緒にいられて、楽しかったと。それには、決して貴方を恨む気持ちなど込められていない。ある筈がない。あるのは、今までの貴方への感謝です。そして、祈りだ。貴方がこれから健やかに生きていけますようにと」
「あたし……」
「これが貴方にどんな影響を及ぼすかは分からない。これから貴方がとんな道を歩んで行くのかも分からない。でも、あの子が最期に告げたかったことはこれなんだ。これなんだよ」
「あたしは、どうして……」
奏さんはぼたぼたと涙を落とした。止めることもせず、とめどなく落ちるがままにしている。
暫く学校に行っていないが、彼女は毎日、制服を着ていた。グレーの夏用スカートには、丸い濃い染みが次々と出来ていく。
傘を差しているのに防ぎ切れない滴は、想いをたっぷりと含んでいて、それは紛れもない真実だった。反面、乾いた薄い唇が僅かに開かれて、耳に心地良いやや低めの声が滑り出して来る。
「あたし、この後に及んで、自分のことしか考えられていなかったみたい。自分の気持ちでいっぱいで、美晴の気持ち、全然想像してなかった」
「彼女の言葉だと信じてくれますか」
「うん。きっと優しくて弱いあの子は、最期まで誰かを想えるのでしょう」
奏さんが顔を上げて、私を見た。真っ赤な目も耳も鼻も、初めはまるで抜け殻のように見えた彼女は、確かに心が生きていたと証明していた。
遠くて近い、重い雲が圧迫する空を見上げる。
「戦ってなんてくれなくて良かったの。唯、一緒にいるだけで、私は随分と救われていたのだから。でも、あの日の前の日は、いつも以上に辛いことがあって、それで、あんなことをしてしまったの。こんなことになるなんて、思い至らなくて、これで楽になるって、それだけを信じ込んでいたの」
「そうですか」
一言だけで答えると、奏さんが空は向けた視線を此方に戻した。
「怒らないの?」
「何をですか?」
「馬鹿なことをしたって、大人は皆、説教をして来た」
「浅慮なことだったかもしれません。周りの人達は部外者ですから、貴方の置かれた現状を全て把握しているとは言えません。だから、それ以外の道も探して欲しかったと、簡単に言います。でも、そうはならなかったし、貴方のその考えに至るまでの道の絶望も、逃げたいと思う気持ちも本物で、きっと最優の行動を取れる状況ではなかったろうとは想像出来ます。人は耐え難い程に苦しくても、逃げる選択肢すら思い付かないことがあります。確実な改善策があったとしても、手に取れないこともあります。だから、きっとあれがあの時の貴方がたにとっての最善策だったのでしょう」
奏さんは少し、落ち着きを取り戻しつつあるようだ。
「だけど、その行動の責任は取らなければなりません」
「何をしたら許されるの?」
「償いとは、赦されるための態度ではなく、罪と向き合い続けること、そのものだと私は考えています。そして、赦しとは、その贖罪が本物であると認め、これ以上は罪を咎めないことです。つまり、罪は消えません」
私の言葉に奏さんは顔を暗くする。
「美晴さんは貴方を恨んでいない。だから、貴方を咎める者はいない。それでも、貴方には罪がある。ならば、償うというのはどういうものか。今回の件で言うなら、もう美晴さんが示しています」
「何?」
「健やかに生きること」
「……」
「とても難しいことです。とても、とても過酷なことです。今の貴方には尚更。それでも、痛みを抱えてしまっても、その先も生き続けることが出来れば、少なくとも彼女は喜んでくれるんじゃないでしょうか」
彼女が目を閉じ、首を僅かに傾けた。
粒が葉を打つ音が静かな公園に響いている。暗い空に隙間が空いて、遠く遠くの方で、細く光が見えた。だが、直ぐにでも、閉じて消えてしまいそうだ。重くのし掛かる雲を吹き飛ばすような大風は吹かない。だらけたように、しとしとと雨は降り続ける。重く、暗く、沈む世界はまだ晴れない。
「生きるためなら、逃げても良いんです。その対象が、例え肉親であっても」
「……」
「方法は間違えてしまったかもしれないけれど、その考え自体は、貴方達が正しかった」
翳りの中で、ほう、と小さな吐息が白んで消えた。
「難しいよ。とっても」
「そうですね」
「きっと、そう、私一人じゃ逃げられない。何処に行けば良いかも分からない。誰かの助けが必要なの」
彼女が赤く泣き腫らした目で私を見た。年相応の幼い顔付きで、不安げに色が揺れる。
「力になれるかもしれない人達がいます。一度、会ってみませんか」
彼女は静かに頷いた。
背後の影は、最初に見た時よりも薄くなっているように見えた。幽霊の回収も仕事の内だ。此処まで薄くなれば、私でも回収可能だと、こっそりとそれを回収箱へと仕舞った。
見れば、彼女は傘を持って、立ち上がっていた。
雨は降り続ける。絶え間なく降り続けるように見える容赦のない雨粒は、きっと多くの先人の言葉の通り、何れは止むのだろう。だが、それがいつになるかは分からない。気が遠くなる程、長く降ることだって、次の瞬きの後に晴れ間が覗くこともある。
それでも、雨の中を歩くことを決めたなら、せめて、傘を差し出そう。気休めでしかなくても、ないよりは良いだろうと信じて。
あの子の願いと追悔を傍らに、彼女はもう一度、歩き始めようとしていた。
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