第37話 整整
ぽつりぽつりと何かを話していた。
取り止めもないことだ。偶に、飛び切り重要なことも出て来ては、やはり、直ぐに流されていく。その言葉の重さをあたし達は感じずに、自分の中の筒を空にしたくて、吐き出し続けていた。
此間食べたお菓子が不味かったとか、
空っぽになりたかった。なって欲しかった。そうしたら悲しみも苦しみも痛みも、弱まるような、感覚野が鈍くなるような気がした。半ば願望も込められたデトックスのようなものだ。彼女の傷が薄くなるように、苦しみが昇華されるように、そんな胡乱な期待もあった。
途中まで盛り上がる瞬間もあったけど、泣き疲れているのか、
今いるのは、二階の奥の日向さんが泊まる予定の部屋だ。その部屋の壁に寄り掛かりながら、横並びに座っている。
お互いの顔を見合うこともなく、ぽろぽろと皿から取り溢すように何かを呟いていて、夜の静寂へ放った。埃のように宙へ舞っては沈む言葉に、感慨らしい感慨もなく、寄り添うお互いの感触だけが確かだった。
明かりもつけられていないから、部屋の中は月明かりしかない。白い光が窓の向こうから降り注ぐ。その様は、冷たくて静かで、時間の感覚すら掴めなくて、まるで人のいるべき場所ではないみたいだった。
窓側に座る彼女の左半身は明るい。逆の位置にいるあたしは体が闇に溶け込んでいる。
手は、まだ、繋がれている。あたしからしても小さな手だ。
そこだけが、とても熱かった。
「家事が全く出来なくて、洗濯機一つ動かせないの」
「機械音痴じゃなければ、家事しないとか最悪じゃん」
「自分は働いてるから良いんだって」
「人の健康をまるっと潰しておきながら、何をほざいているのか。糞野郎だな」
「……もっと早く気付けば、もっと早く楽になれたかな」
「誰かとの繋がりがあって良かった。無理しないでね、眠かったら寝て良いから。一日目から全部観測出来るとは思っていないから」
その時、不意に不可解な風が吹いた。
窓は閉じた。廊下側の扉も閉じられている。空調も何もしていない。
むわりとした生暖かい風は、あたしの頬をひと撫ですると、近くに滞留した。勿論風なので、実態が見えるわけではないが、何となくそういうものの察知は比較的得意であったから、予兆のようなものを感じた。
日向さんがビクリと体を震わせた。
その反応を見て、あたしは来たなと思った。
怯えた眼差しがあたしの目線と絡む。握る手に力を込めれば、彼女もまた握り返した。
「────」
何かが耳元でぼそりと呟いた。ぞわっとした悪寒が走る。全身が強張る。
あたし達の背後には壁がある。人の立つ空間はない。だが、それは背後から耳へと囁くように聞こえた。
あたしの手を掴む力が強まる。
「逃げるのか」
声が言う。低く、不機嫌そうな声だ。
「お前は捨てるんだな」
あたしの心臓がばくばくと脈を速めるが、それとは逆に頭や手足は冷えていた。
幽霊の声はもっと希薄だ。だけど、これは本当に其処に生きている人間がいるみたいだった。熱を帯びた吐息が、耳に当たる。空間が重く、重く沈んでいく。
今回の話を聞いた時、頭の何処かで、楽な依頼だと思っていた。
日向さんについてではなく、伊東さんについての部分だ。
後ろからごにょごにょ言うだけで、実害はない。なら、大して危険もないし、出て来たら、千佳さんに連絡をするだけ。楽勝だし、ご飯も無料で食べられるし、悪くないバイトだと思っていた。
「逃がさない、逃がさない」
声が言う。私の耳元で、声が言う。
怒りを込めて、恨みを込めて、敵意を込めて。
私よりも大きくて力も強くて、そして、意志の通じない相手が、触れそうなくらい傍にいる。
幽霊の相手は多少慣れている。でも、これは怖い。怖いと思った。姿は見ていない、怪我もしていない。だけど、本能的に怖いと感じた。身動きを取るのも恐ろしくて、唯、過ぎ去るのを待つことしか出来ない。
明確な悪意がある。命の危険はないだろうと思っていたけど、何をするのか分からない恐怖がある。振り返ったら、取り返しのつかないことが起きそうな気がする。空気がとても重くて、重くて、そして、何か違和感がある。
何かの真似をしているかのような、重みは確かにあるが、内側と外側がちゃんと嵌っていないような、そんな感覚だ。
とは言え、先手を取られた以上、此処から立て直すのは厳しい。
視線をずらせば、浅い呼吸を小刻みに繰り返す日向さんがいた。その肩は震えていて、喉からはヒューという音が漏れていた。
「許さない、許さない、許さない、許さない」
声は大きく感情的になっていく。
どうにかしなくちゃいけない。でも、頭が恐怖いっぱいで、何も思い付かない。焦りばかりが膨らんでいく。
不意にポケットが震えた。スマートフォンを入れっぱなしにしていた。先程も何回か震えていたような気がする。
そうだ。千佳さんを呼ぼう。これはあたしには手に負えない。でも、指一本動かすのも恐ろしい。相手の機嫌を損ねないか、報復はないか、刺激になりやしないかと恐ろしい。
この場は、彼の圧で支配された。
あたしは音がなるべくしないように、深い呼吸を繰り返した。落ち着かなくちゃ、何も考えられない。この場を乗り切る方法を、彼女と一緒に抜け出す方法を。と言っても、走って逃げるくらいしか思い付かない。
「日向さん」
「……はい」
小声で呼び掛けると、俯いていた彼女が顔を上げる。蒼白で強張った顔があった。必死に恐怖に耐えているという所か。此処までの恐怖を感じることは話になかったし、その表情を見るに、今日のあれは何かがいつもと違っているようだ。
あたしは意味があるのかも分からないが、小声で彼女に耳打ちする。
「走って、この部屋から出よう」
「は、はい」
あたしは立ち上がり、部屋の出口の扉へ行こうとした。しかし、左手に繋がったものが、それを引き止め、勢いを殺されたあたしは、バランスを崩して、床に倒れ込む。
振り返れば、腰を抜かせた彼女が切羽詰まった顔で、あたしを見ていた。助けてって目で見ていた。
「逃げるのか。逃げるんだな」
声が言う。見れば、彼女の背後には黒い影法師が立っていた。月明かりに照らされても尚、暗く黒い、異質なものだ。
それが彼女へと手を伸ばそうとしている。
「駄目! 触るな」
手を伸ばしながら、あたしがそう叫ぶや否や、不意に部屋の扉がばんと勢い良く開かれ、外から線の細い人物が入って来た。
「失礼します!」
律儀に挨拶をしながら入って来たのは、千佳さんだった。
さっきと同じ格好のままだ。いや、靴下を履いていない。そんなことはどうでも良い。
あたしは勢いに飲まれて、一瞬、思考を奪われてしまった。
千佳さんはぐるっと部屋の中を見渡すと、日向さんの元へと足を向けた。
そして、突然の訪問者に驚いている彼女の前で片膝をついてしゃがんだ。
「千佳さん、あの、幽霊が」
あたしが恐る恐るそう報告すると、千佳さんはまるで何事もなかったかのように、此方へにこりと笑って「見ました」と返した。そして、直ぐに日向さんに向き直って、こう告げた。
「取り敢えず、今はもう大丈夫です。来ませんから。ご安心を」
壁を見れば、影法師の姿はなく、あの痛い程の威圧感も部屋から消え失せている。思わず、あたしはへたり込んだ。
変わらず月明かりが窓から差し込むばかりで、変わった所は憔悴したあたし達の様子だけだった。
立ち上がった千佳さんがぱちんと壁のスイッチを入れると、点滅しながら部屋の明かりが灯り、それぞれの輪郭が顕になる。
「お二人共、お怪我はありませんか?」
「何で幽霊は去ったの?」
質問に被せて、あたしが質問をすると、千佳さんは特に気にした様子もなく、淡々と答えた。
「私が来たからでしょう。後、あれは唯の幽霊ではありません。生霊です」
「千佳さんが来たから?」
「私の存在は多少異質ですから、警戒される時もあるのです。でも、今のは、単に私が突然やって来て驚いたから引っ込んだのだと思いますよ」
もしかして、一人だけ別の場所にいようとしていたのは、そういう理由だったのだろうか。いや、今はそれは良いだろう。
「千佳さんは何で此処に?」
そう訊ねると、千佳さんがあたしのポケットを指差した。
「何度もご連絡しているのに、全く反応がなくて、少し心配になったから、様子を見に来たんですよ」
スマートフォンを見れば、何件か千佳さんからのメッセージが届いている。どれも此方を気に掛けている内容だ。これに全く返信がなかったら、何かあったかもと不安に思うことだろう。
「もうお休みになられたのかもとも思ったのですが、念のために確認をしに来たら、変な気配が家の中にありましたので、突入しました」
「ごめんなさい、気付かなくて」
「いえ、でも、結果オーライって奴ですね。それと、此方も謝罪を。幽霊が出て来たら連絡してくれとお願いしましたが、あんな感じだと連絡を取るのも難しいですね。怖い思いをさせてしまいました。すみません」
「あ、いえ、そんな」
同じ部屋にいたのはあたしの独断であるし、別々の部屋であれば、恐らく、連絡するくらいは出来たであろうから、つまりはあたしの見込みが甘かっただけだ。それに、今日のはきっと何かが違っていた。
「日向さん、大丈夫?」
一番、ダメージを負っていそうな彼女に声を掛ける。体をびくっと震わせると、おずおずと俯いた顔を上げた。声を掛けたのがあたしだと分かったのか、少し安心したような表情を浮かべた。
「あ、その、すみません。ちょっと」
具体的なものが何もない台詞を唱える。その顔はやはり、まだ強張っているままだった。
「もう、大丈夫だよ」
あたしは彼女の隣に座り、そっと背中を摩る。
「いつもは、こんなじゃないの?」
「……はい。こんなに怖いのは初めてで」
その言葉に千佳さんが少し目を細めた。
「いつもとどう違いますか?」
「そう、ですね。……いつもはぼそぼそと言うだけで、こんな重苦しい空気になったりはしなくて。言うことも、こんなに感情的な感じじゃないんです。愚痴みたいな感じで。でも、今回のはその、何と言うか」
言葉に詰まる彼女の代わりに、あたしが言った。
「強い意志を感じた」
「うーん。そうですか」
悩ましげに千佳さんが眉を寄せる。
そういえば、いつも掛けている眼鏡を、今はしていない。そのせいか、普段よりも幼いように見えた。だが、その眼差しは鋭く、仕事モードに入っていた。
何か結論が出たのか、千佳さんが表情を気持ち和らげ、口を開いた。
「分かっていることを言っておきましょう。あの幽霊は生霊です。伊東さんの形をしていますが、日向さんから出て来た生霊です」
「え」
「そして」
あたし達がぽかんとしているのを無視して、千佳さんは言葉を続けた。
「伊東さんの魂は日向さんの中にあります」
「待って、待って、何でそうなるの? さっきの幽霊が日向さんなら、自分で自分を怖がらせていることになるじゃん」
「そうなるんですよ。だって、彼女にとって、伊東さんとはそういう存在だから。日向さんの非を責める人。そういう人物としてしか、成り立たないんです。どんどんエスカレートしていったのも、日向さんが伊東さんをそういう人物だと認識していたからで」
「違くて、そこじゃなくて。何故、生霊を飛ばしているのかって所なんです」
「罰せられたいから、じゃないでしょうか」
頭の中にはてなのマークが浮かぶ。
だが、あたしの反応とは反して、日向さんは「嗚呼」と、何かに納得したように吐息を吐いた。
「何か、伊東さんに対して負い目がおありなんじゃないですか? いえ、伊東さんに対してだけでなく、自分は何かを間違えているに違いないと言ったような意識が」
「……そうかも、しれません」
千佳さんのその言葉に、あたしは漸く、少しだけ状況を理解した。
さっき話していたことの延長線上だ。彼女はまだ、伊東さんに罪悪感を覚えているのだ。言葉では違うと分かっても、感情はそれですっぱりと切り離せる訳ではない。
そして、あの幽霊が日向さんの罪悪感の表れであるならば、その罪悪感を切り離そう、伊東さんを排除しようとすることは、彼女の今後を考えるなら必要なことでも、彼女にとっては強く罪悪感を覚えてしまう工程でもあるのだ。だから、幽霊はいつも以上に強く彼女を責めたのだ。
そして、その構造を成り立たせる罪悪感を、彼女は日常的に感じているのだろう。だから、常日頃から幽霊は現れる。彼女が落ち着いて一人で反省を始める頃に。
「幽霊については、一時的に取り除くことが出来ますが、貴方が罪悪感を抱き続ける限り、それはまた現れるでしょう。そして、伊東さんの魂についてですが、今、それは日向さんの中にあります。此方は迅速に回収しなければなりません。だから、優先度としては、回収が先になります。ご協力頂けますか?」
淡々とした口調で千佳さんが話を進める。
強引なのではないかと思ったが、もしかしたら、魂を回収して、伊東さんへの未練を完全に断ち切ってしまおうという狙いなのかもしれない。恐らく、魂を抱えているのも、未練が故だろう。そうでもしなければ、現状、彼女が自身の罪悪感をコントロール出来るとは思えないから、状況の改善は見込めない。とは言え、これは間違えれば、自分のせいで恋人が決定的に死亡した、という罪の意識も生まれるものだ。
「このままでは、貴方の心が押し潰されてしまいます。どうか、貴方が少しでも楽になれる道を選んでください」
窺うと、日向さんは、状況を少し飲み込め切れていない様子だった。まだ、迷っているのかもしれない。
きっと、此処で足を止めたら、何もしないままにしてしまったら、彼女は本当に潰れてしまう。
あたしは彼女の手を握った。
大きな瞳があたしを映す。
努めて気軽に、あたしはこう言った。
「糞野郎を成仏させてやろうぜ」
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