第38話 転転

 あなたに会いたいのだと思っていた。

 あなたに触れたいのだと思っていた。

 会って、触れて、それだけで通じ合える何かを、自分達は持っているのだと思っていた。だから、私達は共に在れるのだと思っていた。

 それは正しかったのか、間違っていたのか。自認の外には目が届かなかった。唯、間違わないようにしないとと、頭の中で声がした。


 あなたがいなくなって、私は一人になった。

 狭い部屋の中で、私は一人ぼっちになった。

 悲しいのだと思った。寂しいのだと思った。この胸の喪失感は、今までの重ねた時間がすっぽり抜けてしまったから出来たもので、それを埋め直すことなんて、一生かけても無理だと思った。


 だって、埋められるのはあなただけだから。


 でも、どうしてだろう。あの低い声が聞こえないことに、少しほっとした自分がいた。なんて、不誠実な。


 喉が締まる。


 ベッドの上で、あなたの残したシャツを抱き締めている。脱ぎっぱなしにして、そのまま忘れたシャツだ。

 鼻を近付けると、あなたの匂いがする。それがとても落ち着く。いつかその香りが抜けてしまいそうな気がするから、今の内に沢山吸っておく。

 そうしていると、気を失うように瞼が落ちて来て、気付いたら時間が経っていた。


 そんなことを、毎日繰り返している。


 家の中にある食料がなくなった頃、連絡がつかないことを心配した母が訪ねて来た。

 彼女は私の有り様を見てとても驚いたようで、その日の内に、最低限の荷物を纏めて、実家へと連れ帰らされた。暫く乗っていなかった車の乗り心地は相変わらず快適で、私は母からの少ない質問と報告に曖昧に答えながら、流れ行く景色を眺めていた。


 暗闇を照らす光が線となって、後方へと流れて行く。行き交う車も人も、何だか作り物のように見える。まるで、玩具が動いているみたいだ。何処か遠い箱庭の世界を、硝子越しに見ているような、そんな感覚で、私は街を見ていた。

 直ぐに、無機質なのは彼等ではなく、それを見る私の方だと気付いた。だって、其処にあるのは当たり前の日常なのだから、生きている彼等がそういう風に見えるのは、私の目に問題があるのだ。


 そうだ。私は壊れている。でも、それは何故?


「いつから苦しいと思われていましたか?」


 白衣を着た男性が、私に問う。

 見慣れない場所だった。初めて来る場所だ。


「ずっと……。いえ、ずっとではないです。楽しい時もありました」

「それはどういう時ですか?」

「……」


 思い出せない。

 楽しかったという言葉だけが浮かんで、本体の記憶が蘇らない。何処かに行ったのか、何かを話したのか、私達は日々をどう過ごしていたのか。


 思い出は、まるで穴だらけで、あんなに沢山一緒に出掛けたのに、何も語ることが出来ない。この口から出るものは何もない。あんなに共に映画を観たのに、タイトルの一つも出て来ない。何も思い出せない。語らった内容が何もない。

 心が空っぽになってしまったのかもしれない。何も感じない。何も頭に入らない。文字も滑って読めない。入ってくる情報もなければ、出て行く情報もない。唯、私の中で知らぬ内に抜け落ちていて、そこに元々何があったのかさえも、私は分からないでいる。


 葬式に出ていないことに気付いたのも、実家に戻って、暫く経った後のことだった。

 それは幸運だったかも分からない。今の私が行った所で、何も出来なくて周りに迷惑を掛かるだけだろう。或いは、縋り付いて、引き剥がされていたかも分からない。

 だが、呼ばれることがなかったというのは、そういうことなのだろう。彼の家にとって私とは、幽霊のようなものだったに違いない。

 主張すれば、参列くらいは出来ただろうが、そこまでの体力も熱意もなかった。人が死んだら、お葬式が開かれる。そんな簡単なことさえも、気付かないでいた。


 実家の自分の部屋のベッドの上で、時が無感動に過ぎていく。昨日と今日の境目も、明日がいつから始まるのかも分からない。暗くなってから目を覚まして、明るくなる窓を見た。眩しくて目が痛くなるのも構わず眺めては、やはり、耐え切れずに目を閉じた。

 しんと静まったままのかつての子供部屋は、全てが凍り付いているようだった。何も変わらず、何も動かず、私でさえも、まるで氷像のように丸一日同じ体勢で、凪いだ心は軋みながら奥底へと沈んだ。

 差し込む光の色だけが、時を伝えてくれる。


 此処には浮かぶものがない。放るものもない。死体のように横たわる人形が一人いる。


 不意に涙が溢れた。不本意な一筋は、鼻筋へと伝っていく。

 不可解だった。

 私は何も考えていなかった。心は凪いだままで、一言も発しない。だから、涙を押し出す感情など、ある筈もなかった。

 それでも、溢れるのだから仕方がない。でも、理屈が分からないものは怖い。間違えていないか分からないから怖い。


 喉が締まる。


 呼吸をしたくて、誰もいないリビングに這い出る。

 遅い時間だから、両親は既に寝室に入っていた。

 整理整頓された広いリビングは、まるで綺麗な深海だった。静かで暗くて沈んでいて、でも、恐ろしくはない。かつて多くの時間を過ごした日常が眠るこの部屋は、いつからか私を異物としていたようだ。此処にも過去にも私の居場所はないように思える。落ち着かなくて、踵を返して、部屋に戻ろうとした。


 何も悲しくない。何も寂しくない。何も感じない。


 それは、普通じゃない。


 普通の人なら、大切な人がいなくなったら、悲しむでしょう。


 間違えたくない。


 その時、声がした。


 低い男性の声だ。父のものではない。勿論、母の声でもない。

 幽霊だろうか、初めて出会ったなと、不思議と冷静に考えていた。もし、生きている人間だとしたら、泥棒か何かであろうし、そういう人は忍んでいる時に喋りはしないだろう。だから、きっと声がするなら、それは幽霊か、若しくは、私の幻聴だ。どちらにしても、正体が分かっているなら恐ろしくはない。

 それに真っ暗闇のキッチンから聞こえたその声に、私は聞き覚えがあった。

 冷蔵庫の唸り声だけが響く暗闇に、光が見えた気がした。


「嗚呼、そう。そうなのね」


 何と言ったかも聞き取れなかったのに、私はその声が何を伝えようとしたのか分かった。今思えば、それはそうであって欲しいという願望だけで出来ていた。

 キッチンに入り、引き出しからそれを抜き取る。そして、夢遊病のようにふらふらとした足取りで自室へと戻った。


 テーブルライトだけが照らす、薄暗い部屋の中で、私はベッドの端に腰掛けていた。

 その手には台所から持って来た包丁があった。暖色の明かりに照らされた鈍色のそれは、無機質で、美しくて、そして、恐ろしかった。

 私はそれを強く握りながら、首元へと寄せたり、離したりしていた。手が震えて堪らないのに、握り締めた拳から力を抜けないでいる。ひんやりとした切先が触れる度に、自身の熱を思い出す。幾度も繰り返し、血飛沫の飛び散る己を思い描けど、それは為されない。


「嗚呼」


 縋るように、耳を澄ました。

 声は聞こえない。

 遠くに、冷蔵庫の音が聞こえる。


 私は腕を下ろした。


 喉が締まる。

 涙が流れる。

 嗚咽が漏れる。

 それでも、心は何も語らない。

 あなたはまた黙したまま。


「駄目。駄目なのね。私は、あなたのために何も出来ない」


 ベッドへ倒れ込んで、包丁を枕の上へ放った。途端に脱力して、私は思い切り息を吸った。自分の呼吸音だけが聞こえる。上下する胸の動きに、血流が回り出す。


 手が冷えている。

 でも、鼓動は確かに胸の内を打つ。目を閉じれば、拍を感じる。


「あーあ」


 失敗だ。出来なかった。怖くて、私には出来なかった。

 情けない。意気地なし。薄情者。

 大切な人がいなくなったのに、私は悠々と生きている。何も感じない、何も語らない。本当に悲しんでいるのだろうか。もし、悲しんでいないのなら、きっと私はまともじゃない。間違っている。


 私は包丁をキッチンに戻すと、先生から処方された睡眠導入剤を飲んだ。いつもの苦い味が舌へと滲む。それが少し苦手だったけど、眠れない時間の苦痛を思えば耐えられた。

 窓を見れば、曇り硝子を通して、カーテンの隙間から光が射し込んでいた。誘われるようにカーテンを開くと、淡く赤く染まる窓があった。

 朝焼けは此処まで届くだろうか、こんな色になったことがあっただったろうかと不思議に思ったが、それが何よりも美しく思えて、細かいことなんてどうでも良くて、これが見れたなら自分の人生なんて終わってしまつてさえ良いと思えた。そして、それが出来ない自分を再確認してしまった。

 私は自室のベッドで横になった。目を閉じても眠気は来ない。眩い朝日を恨みながら、明日へと意識が飛ぶのをじっと待った。


 その後も、声は度々聞こえた。

 懐かしくて、愛おしくて、そして、苦く痛い記憶を呼び覚ます声。

 私はそれを、自分を呼ぶ声だと認識していたけれど、次第に何を話しているのか聞き取れるようになってからは、それは違っていたのだと分かった。彼はいつも通り、何かに文句を言っていたり、自己嫌悪に囚われていたりしていて、私のことなど、あまり気にしていない様子で、そのことは少し寂しかったけれど、でも、やっぱり心の何処かで安心していた。

 相手にされていないことに安心していた。

 私はそれに、また、罪悪感を覚えた。

 聞こえても、聞こえなくても、勝手に期待しては、望み通りの言葉が聞けないと残念がる自分に失望した。


 そして、声は私を捉えた。


 逃げ場はなかった。逃げる気力もなかった。

 どんどんと狭まっていく視界に、息が詰まりそうになる。間違えないようにしなければ。指摘されないようにしなければ。


 また、喉が締まる。


 急いで、薬を飲み込んだ。

 まるで、意識を膜で包んだみたいだ。向こう側のものは、私に触れられない。傷付けられないから、怖くない。


 それだけが、私にとっての命綱だった。


「散歩にでも行くって言うのはどうかな。ずっと家にいるのも体に悪いし、気分転換になるかもしれないよ。ほら、体力作りだと思って」


 実家に戻って、どのくらいの月日が経っていたか。ある時、父が遠慮がちに伝えて来た。私は気は進まなかったけど、それはその通りだと思ったから、調子の良い日は挑戦してみようと思った。何より、両親が私のことを酷く心配していて、本やネットで症状を調べていたから、世話になりっぱなしというのと申し訳ないし、何かしらのアクションで安心させたい気持ちもあった。


 体は重く、鉛のようだ。でも、全く動かない状態からは脱したようだ。単純に薬の効果だろう。こんな気分でも、以前よりは回復しているのだと思うと、少し安堵した。


 外に出て、刺すような冬の凍て付きに肩を縮こませた。吐く息は白く、五分も経たない内に私は帰路についた。次の日は、マフラーをして出た。次は手袋も。そうして過ごして、暫くしたら、もう、厚いコートは要らないかもしれないなと思った。


 椿の花が地に落ちて、踏まれていた。


 梅が散って、枝から鳥が飛び立った。


 河津桜が花の重さで枝垂れていた。


 手入れのされた庭先でパンジーが咲くのを見た。


 白木蓮の花弁が街路に落ちて積まれていた。


 躑躅が道を彩り、菖蒲が凛と咲いて、木々が青々として、爽やかな風が吹くようになって、そうなって、私は漸く、頭の中が落ち着くようになった。ちゃんと脳内に思考の声が聞こえる。花の美しさに心を寄せることが出来る。

 そして、言葉としてではなく、自分の状態が如何に異常であったか、そして、現状、聞こえて来るあの声への対象の必要性を実感した。


 身体のことは、お医者さんに頼ることが出来る。だが、私にだけ聞こえるあの声については、私にしか対処が出来ない筈だ。とは言え、幽霊への対処法など知らないし、まるで虫を払うように塩を撒くのは気が引けた。会いに来てくれたあの人へ、そんなことをするのは良くないことだ。


 宛もないから、僅かな糸へ縋った。昔、触れ合った袖の持ち主へ連絡を取った。

 それが正解なのか、間違いなのか判断がつかない。だけど、前には進んでいる気がした。今はそれで良いと思えた。


 だけど、今、お別れの直前で、私は足を竦めている。蘇りつつある記憶を閲覧して、私は私の置かれていた環境のおかしさも、私を助けようとしてくれている人達の存在もちゃんと認識出来た。きっと、私が転びそうになっても、この人達は手を差し伸べてくれるだろう。


「伊東さんの魂は日向さんの中にあります」


 納得があった。手放したくないと思っていたからだ。それは思い出のことだと思っていた、或いは、残された物のことだと思っていた、だが、もっと根本的なものだった。こんなにも大切に思うのに別れの儀式を忘れていたのは、既に私の中に彼がいたからなのだろう。通りで私にしか見えない筈だ。私の中に存在しているのだから、当たり前のことだった。


 だから、手放さなくてはならない。正しい道へ戻れるように。


 でも、どうしてだろう。何故、その一歩が踏み出せないでいるのか。何故、こんなに辛いのに、あなたを手放せないでいるのか。


「糞野郎を成仏させてやろうぜ」


 本当にどうしてだろう。その言葉を聞いた時、そんな言い方をしてはいけないと思うのに、なのに、どうして。


 こんなにも心は軽くなったのか。





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