第39話 人人
改めてお礼を言いたいので、会ってくれませんかと、
そして、今、駅前から少し離れた所にあるカフェに私達はいる。
二階建ての建物で、一階は雑貨屋、そして、二階はカフェとなっている。大通りからは一本逸れた立地であるが、人気店なのだろう、吹抜けの階下には若いお客さんが商品を見て回っており、昼というには少し早い時間ながら、カフェも半分程席が埋まっていて、ざわざわとした人の話し声が心地良い。
来た時にちらりと雑貨を見たが、文房具やキッチン用品など、実用的でありながら、どれもシンプルで品の良いデザインのもので、足を止めて見てしまう気持ちが分かった。待ち合わせがなければ、私もじっくり見て回っただろう。
カフェスペースは、木の温もりを感じるような造りになっており、座席数も多い。サイフォンが並ぶカウンターの向こう側の棚には彩りのティーカップが並び、二つと同じものはなく、店主が拘りを持って作った空間なのだろうと思われた。
耳に心地良く流れるのは、クラシックのピアノの落ち着いた旋律だ。生憎、曲名は知らないが、私にも聞き覚えがあるものだったから、有名な楽曲なのだろう。
「此間、
向かいに座る日向さんが少し笑いながらそう言った。
「お行儀が悪い?」
私は日向さんの言葉を繰り返す。
パーティにも様々な種類があろうが、お行儀の悪いパーティなるものが存在していたとは初耳だった。
「言葉の通りなんです。お行儀悪くするんです。例えば、ご飯を食べるのにお皿を出さないとか、寝転がって食べちゃうとか」
「嗚呼、そういうことですか。ふふ、確かにそれはお行儀が悪いですね」
カウンターの方で、かちゃりと食器の擦れる音が聞こえた。順番的に私達の頼んだ飲み物の準備だろう。
メニューを見たが、お店の規模の割にメニュー数が多く、食事もサンドイッチなどの軽食からハンバーグなどのがっつりとしたメニューまで揃っていた。写真付きで載っていた食事はどれも美味しそうで、それを食べに再訪するのも良いかもしれない。
コツコツとお盆を持ったウェイトレスが此方に近付く。その手にはカップが二つあった。
「お待たせしました。ミルクティーになります。えっと、其方の方が珈琲ですね」
日向さんの前にシンプルな白のカップが置かれる。傍には白磁のポットと同じ陶磁器のミルクピッチャーが置かれる。
私の前に置かれたのは、緑を基調とした品のあるマグカップだった。少しフルーティな爽やかな香りがした。
「ありがとうございます」
「良い香りですね」
「ええ」
店員さんにお礼を言いながら、日向さんは赤い紅茶にミルクを投入する。すると、白い部分と茶色い部分とが渦巻き、混ざり合っていく。
その様を何と表現するのかは分からないが、私は昔から違う色の液体が混ざり合う所を見るのが、何となく好きだった。それぞれが違う色なのに、混ぜると最後には一つの色になってしまうのが不思議だった。絵の具を混ぜる時にも思っていたが、結局、仕組みは良く分からない。
彼女はテーブルの端に置かれたスティックシュガーを半分程入れて、カップに添えられたスプーンでかき混ぜた。
私はそれを見ながら、珈琲を一口啜った。すっきりとした味わいで、飲みやすい。フルーツタルトとかが食べたくなる。
「それで、そのパーティはどうだったんですか?」
中断した話を繋ぎ直すと、日向さんはまた微笑みを浮かべた。
「楽しかったです。ケーキをね、買ったんですけど、それも手掴みで食べちゃえって花神さんが言い出したから、そんなことして良いの? って訊いたら、花神さんが本当に手掴みでショートケーキを食べたんです。そして、美味しいよ、食べなって、鼻にクリームつけながら言うから、私笑ってしまって」
その光景が簡単に思い浮かべられたので、私も思わず、笑いを溢した。
「豪快ですね。でも、する気持ち分かりますよ。上手く言えませんが、美味しいですよね」
「
「その、お恥ずかしながら、洗い物をするのが面倒で、そのまま……。何でしょうね、いつもと違う食べ方だからですかね。特別感がありますよね」
「そうなんです。口いっぱいに頬張れる喜びと、ちょっとケーキに対する不敬と言うか、背徳感があって」
「昔読んだものに、桃の一番美味しい食べ方について書かれたものがあったのですが、確かそれには、食卓に出す前に台所で一人で齧る桃が美味しいと書かれていましたね。それと少し似ているかもしれません」
「何でしょう。形式から外れた、そのままのものを食べていることが、美味しいと感じる理由でしょうか?」
「そうかもしれません。つまみ食いも美味しいですし」
「嗚呼、成程。そうですね、ちょっとお行儀が悪いのが良い……あ、話が最初に戻ってしまいました」
はっとした顔で、日向さんが口を押さえる。
「あはは、本当ですね。やっちゃいけないんですけど、でも、偶にはそうやって肩の力を抜いてみるのも良いかもしれませんね」
それを聞いた日向さんがほっとしたように、微笑んだ。
随分と表情豊かになった。ころころと笑ったり、驚いたりと、感情が良く顔に出ている。元々そういう人だったのだろう。私と会った時が特異なケースの状態だったのだ。
顔色も良い。化粧をしているから、実際の所の色というのは分からないのだが、化粧が出来ているそれ自体が余裕が出て来た証であろうし、表情が明るいし、何処かさっぱりとしていて、その手の状況に陥っている人間にありがちな、ファンデーションで塗り隠しても滲み出る悲壮感のようなものもない。髪は綺麗にカットされて、染め直されと、手入れがされている。黒地に黄色の小花がプリントされた、さらりとした質感のワンピースに、緩く巻かれた髪型が似合っている。
端から見れば、彼女の状態は改善されている。
つまり、幽霊は出なくなったということだろうか。
伊東さんの魂と、伊東さんを模した日向さんの生霊の二つの内、魂の回収は住んでいる。もう一つの幽霊に関しては、日向さんの罪悪感を起源としたものであったため、彼女の心の持ち方次第ではまた発生してしまうかもしれないと考えていたのだが、出ていないということは、彼女は罪悪感を手放せたのだろうか。そう簡単に行くとは思っていなかったので、元気そうにしていて喜ばしいが、無理はしてないかと心配になる。
私は珈琲で湿らせた唇を開いた。
「その後、幽霊は出ましたか?」
カップを皿に置き、彼女は思案するように目線を斜め下へ向けた。薄いピンク色の唇を内へ巻き、返答を渋っている。
言葉を選んでいるのだろう。もしかして、説明が難しい程、より複雑な状態になっているのだろうか。
「説明が難しい状態ですか?」
「あ、いえ」
続けて問うと、日向さんは片手を振って否定した。
それでも、視線は斜めに向きがちだ。
「出るには出たんですけど」
「はい」
「段々と出なくなってきて、今では全く出て来ないです。でも」
罪悪感の克服が成されたのだろうか。
それは良いことだと思う。話を聞く限りでは、彼女はちゃんとしなければならないという意識で、自分を強く縛っており、そのせいで自分を追い込みがちということだった。罪悪感というのも、戻って来てくれた伊東さんを邪険にしてはいけない、消えて欲しいなんて思ってはいけない、という良い子であろうとする故に抱えてしまっていた。
必要以上に良い子として振る舞うことは、間違ってはいけないという強迫に襲われるものだ。それを軽減出来ているとしたら、彼女の場合は良い傾向だろう。
では、何故、彼女は言い淀んでいるのだろう。
今は悩ましげな顔をしてはいるが、今日の印象としては、さっぱりとしている。
「もしかして、罪悪感が薄まったのではなくて、罪悪感の発生原因自体がなくなったとかですか?」
私の言葉に日向さんが驚いた顔をした後、笑って、手を合わせた。
「何で分かったんですか?」
「あ、いえ、唯の当てずっぽうというか」
「でも、凄いです。そうなんです。花神さんと話してて気付いたんですけど、もしかしたら、私は進君のことをあまり好きじゃないんじゃないかって」
伊東さんの気持ちを知っていると、どきりとする言葉だった。でも、あそこまでのことをされていて、好きなままでいる方が難しいだろう。唯、疑問がある。
「好きじゃないのに、あんな酷いことを耐えて、傍にいたんですか?」
日向さんが紅茶を飲み込んだ。
「ええ。私はきっとあの人に尽くす自分が好きだったんです。ボロボロになってまで、それが出来る自分が、誇らしかったんです」
思いもよらない展開に、言葉が詰まる。
「つまり」
「共依存です。あの人は誰かを虐げなければ自尊心を保てなくて、私はそれでも相手に尽くす自分が好き」
日向さんは視線を落とした。
「ずっと彼のことを好きだと思っていました。亡くなった時はとても悲しかったですし、手放したくなかったですし。でも、これに気付いたら、今までの愛情も執着心も全部そういうことじゃないかって。相手に向けた愛情ではないんじゃないかって」
恋に恋していた、とは、こういう時にも適用されるのだろうか。
彼女は伊東さん本人ではなく、伊東さんに尽くす自分に価値を見出していたのだ。だから、どれ程に関係が拗れて、心が軋み出しても、誰かに尽くす自分というアイデンティティを手放せず、そのために必要な伊東さんも手放さずにいたのだ。
勿論、人の心というのは、そこまで単純じゃない。グラデーションがあるものであるし、時間経過によっても変化する。件の罪悪感だって、幽霊として現れるくらいに、彼女の中に確かにあったものだ。きっと、愛情だってあったのだろう。
日向さんは、今日一番の笑顔を浮かべた。
「だから、もう、忘れることにしました」
それは、実に晴れやかで、爽やかで、私は何も言葉を返せなかった。でも、こんな素敵な笑顔を浮かべられるようになったことは、喜ばしいことだ。
今の彼女の話は、生者が死者をどう処理するか、という話だ。
通夜も葬式も、死者のためというより、生きている人間の心の整理のために必要だと見る話がある。
彼女は、失った伊東さんという存在を、自分にとって大したものではなかったとして、忘れようとしているのかもしれない。その方が、心は軽くなるだろう。
或いは、今まで己を雁字搦めに縛って来た「普通」を振り切るために、構造を解体して、本質を見付けようとしているのかもしれない。幽霊の正体見たり枯れ尾花というやつだ。この場合、自分があれ程の状態になっても別れられなかった理由が幽霊で、正体は自分の承認欲求というところだろうか。
いや、単純に、終わったことに幕を下ろしただけかもしれない。亡き後も想い続ける、それは美しい物語ではあるが、そうではないからといって責められる謂れはない。死者がそれを望んでいるかも分からない。
前に進むのは生者である以上、死者はその決定に手出しは出来ない。
彼女は忘れることにした。
それで、この話はおしまいなのだ。
「今度は健全な関係を築けるよう努力します」
「……そうですね。そのためにも、自分を追い込まないように、時々、肩の力を抜いて、お行儀悪くして。そして、共依存にならないような、心から大切に出来て、大切にされる人に出会えることを、祈っていますよ」
彼女は「ありがとうございます」と呟いた。
そして、カップを手に取り、口を湿らせる。
やはり、随分と表情豊かになったものだと、改めて、感慨深く思う。
伊東さんの立場からすれば、複雑かもしれないが、こんな終わり方でも良いだろうと個人的には思う。どのような形であれ、前に進もうとする意思を邪魔したくはないし、何より、鎖に繋がれていた彼女が、自分の意思でこうしようと思えるようになったことは、喜ばしい前進なのだ。
目が合う。
すると、柔らかく微笑む。
「ありがとうございます。あなたのお陰で、私は前に進めそうです」
「お礼を言われるようなことは、してないんですよ」
深々と下げられた頭に、私もつられて頭を下げた。
心を蝕む原因は取り除かれた。だが、そこへ至る迄の道も、今、こうして穏やかに微笑むことが出来るのも、彼女の成果だ。彼女が立ち向かい続けた結果だ。本当に、私は大したことをしていないのだ。
慌てて、彼女の頭を上げさせて、言い訳を並べて、それに彼女が困っているかもしれないと思って、言葉を詰まらせた。曖昧に笑った私に、日向さんははっきりと言った。
「あなたが何を言おうと、私はあなたに感謝します。だって、そうしたいから。そうすべきだと思うから。でも、きっとあなたは受け取らないと思うから、こうします」
彼女は席を立つと、テーブルの端の伝票をすっと筒から抜き取った。
「あ、ちょっと」
私が止めようとすると、彼女は微笑みながら、席を立とうとする私をガードして、座らせようとする。
「駄目です。駄目ですよ。まだ、立っては。珈琲が残っているんですから」
「いえいえいえ、そういう話では」
「そういう話です。どうか、甘んじて受けてください。あの日の美味しいご飯のお礼も出来ていないんですから、これくらい支払わせてください」
そう言って、彼女は立ち去って行った。
そこまで言われて、固辞するのも失礼だろうと、私は腰を下ろした。
レジは下の階にある。勘定を済ませれば、戻って来るだろうと考えていたのだが、五分、十分経っても、彼女は戻って来なかった。
私は気になって、席を立った。
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