第36話 漸漸

「ねえ」

「はい」


 二個目のカルパスを食べ終わった日向さんに声を掛ける。


「そろそろ分かれよっか。あたしが隣の部屋で起きているから、もし、幽霊が出たら教えて。普通に呼んでくれても良いし、スマホで伝えてくれても良い」

「あ」

「ん?」


 短く声を上げた彼女に、私は首を傾げる。

 すると、日向さんはさっきと同じように「違うんです」と言った。


「進君のこと忘れていたなって、今、思い出したから。そのために泊めて頂いているのに、その、えっと」

「何だい?」


 少し照れたように、彼女は目線を外す。それを逃さないように、あたしは回り込む。目が合うと、すかさずウインクをした。先制攻撃である。


「ふふふ」


 日向さんが口元を手で隠しながら、上品な笑い声を上げる。

 あたしは追撃をやめて、彼女の正面へ座り直した。


「それで?」


 笑顔のまま日向さんは口を開いた。


「何でしょうね。多分、今、私は楽しいんです。ずっと苦しかったから、そういう感覚を忘れてしまっていたけど、花神はなかみさんとお話しするのが、楽しくて、楽しくて。それで、進君のことを忘れてしまっていた」


 彼女は目線を下げ、笑みを消す。


「進君の存在を軽んじてしまったような、何か裏切ってしまったかのような気がして、胸がきゅってなったんです」


 罪悪感を覚えている、ということだろうか。きっと、彼氏の存在を大事にしなければならない、という規範があるのだろう。此処に来たのだって、彼氏をどうにかするためなのだ。だから、彼のことを忘れる程に楽しんでいたことが後ろめたいのだ。まるで、どうでも良いような扱いになってしまったことが、彼を傷付けないか、或いは、非常識にならないかと怯えている。

 本人がいなくなって大分経つのに、いつまでも律儀に喪に服しているのだ。本人の望みであればそれで良いが、そうではなく、世間から見てそうであるべきという理想に縛られるのは悲惨だ。


 気持ちは分かる。悲惨な状況に置かれている時は、辛い顔をしていなくてはならないという、無言の圧力みたいなものがある。

 被害者は笑ってはいけないし、大切な人を亡くした人も笑ってはいけない。笑えば、悲しみや傷が大したことないと周囲から非難されるし、自分でも心がないのではないかと、己の薄情さに傷付く。人の心の深さなど外からは勿論、時には自分でも分からない時があるのに、悲しみの度合いは外から判断される。悲しみ方の定型に合わなければ、情のない冷たい人間だとされる。これは悲しみに限らずの話だ。

 窮屈ではあるが、感情の発露にテンプレートがある方が安心出来るという意見も分かる。共感したがりがこの世には多いからだ。同じ体験をして、同じ感情を抱く。団結力とはそのように築かれるものらしい。そして、そういった人達が手を差し伸べてくれたり、分かち合ってくれるのは、人間という感情的な生き物として助かることもある。分かり合えることは基本的にポジティブに受け入れられる事柄だ。あたしだって、あたしのことを分かってくれる人がいたら嬉しいし、お互いに分かり合えたら尚良い。


 だが、感情を強制するのはおかしなことだとは思う。自発的なものであるのに、外部からそれらしく見えるように振る舞えという方が、中身のない、心のない行動ではないだろうか。勿論、場によって相応しい振る舞い方があるのは承知の上だ。その上で、悲しみ方まで決められるのはおかしいと思っている。


 後からじわじわと来る悲しみもあるし、突発的な出来事に対して、人間はショックから逃れるために、無意識に大したことないと笑って誤魔化すこともあるそうだ。そういう時の真意は、他人には推し量れないものだろう。


 あたしは楽しかったら笑っても良いと思う。此処は葬式会場でも記者会見の会場でもない。寧ろ、辛い目に遭った人が笑えるようになれたら良かったと思う。


 多分、この子は優しい子だ。誰かを想うことの出来る子だ。面倒だからと放り投げずに、真面目に苦しみ続ける子だ。


 千佳さんがあたしを呼んだ理由が少し分かった気がする。

 助けは求められていないけれど、でも、この子が何かに困っているのならば、手を貸してあげたい。

 こんな優しい子が、いつまでも辛い環境にいるのが、我慢ならない。でも、そこまでいくと、世界に対して失望したくないだけなのか、単純に笑って過ごして欲しいのか、曖昧になってしまうから、これ以上理由を挙げるのはやめておこう。

 あたしならきっとそう思うって、きっと分かっていたんでしょう。それには少しだけ腹が立つけど、頼りにされていること自体は悪い気はしない。


「貴女は何も悪いことはしていないよ」


 泣き出しそうな顔が、あたしに向けられる。


「楽しければ笑う、悲しければ落ち込む。それは普通のことです。他人に強制されてすることではないし、あたしは貴女が笑ってくれて嬉しかった」


 嘘は吐きたくない。だから、本当に思ったことしか言わない。

 フローリングに片手をついて、前のめりの姿勢になると、軋んだ床板が僅かに鳴いた。張り付くような冷たさが掌に伝う。緊張で喉が締まるような気がした。

 努めて責めるような言い方にならないように、あたしは脳をフル回転させる。眼差しは真っ直ぐと、彼女へ向ける。不安げな表情になんてさせたくない。肩の力を抜けるように、出来れば、彼女の心が落ち着くように努める。


「TPOってものはあるけど、この場は笑っちゃいけない場所じゃないよ。楽しくて良いの。楽しくて悲しいこと、辛いことを忘れても良いの。貴女の心なのだから、貴女の好きにして良いの。忘れたくないなら忘れない。それも良いよ」


 忘れたくても、忘れられないものもあるけれど、それは置いておく。


「でもね、それで自分を縛り付けては駄目だからね。過去は過去、今は今。貴女が生きているのは今だから、これからずっと過去の方を向いて進むの、きっと大変だよ」

「嗚呼」


 彼女が瞼を閉じる。思い出を見るには、光は不要だ。立ち止まっているなら、道の先を見通す必要はないからだ。

 顰めた眉はどんな感情の表れだろう。胸の中で何が蘇っているのだろう。


 きっと、今でも大切なのだろう。どんな目に遭っても、どんなことを言われても、過去の束の間の夢のような日々の喜びが未練の糸となる。一度愛したものを、愛し続けていたいと思うのも、愛せなくなっても手放してしまうのは無責任だと思うのも、どちらも理解出来る。真面目であることは美徳だ。

 とても、楽しかったんでしょう。とても、苦しかったのでしょう。それは良い経験だったと、一言で言える程、単純な出来事ではないかもしれないけれど、手放すのを惜しむ程には彼女にとっては価値があるもの。でも、今は彼女を苛む元凶となっている。真面目過ぎるがために、自身を苛むものを、その手から離すことが出来ないでいる。


「どれくらい持って行くかを決めよう」

「どれくらい?」

「そう。どの思い出は持って行こうか。感情をどうしようかってね。持ち続けて辛くなる感情は、解決する兆しもないなら置いていこう。うん、罪悪感は取り敢えず、置いていこう。だって、悪いことはしてないんだから」

「でも、進君はまだいるから。そんな整理するのは」

「でも、もう、貴女の中に存在するだけになるの。お別れしなきゃいけないことは、分かっているでしょう?」


 やや厳しい言い方になったかと思いながらそう伝えると、日向さんは困ったような笑顔を浮かべた。だが、それは笑顔というには、込められた感情が明らかにポジティブなものではない。胸の内より迫り出す何かを隠すための笑顔だ。


「ごめんなさい、どうしたら、どうしたら良いの。進君を手放したくないの。ごめんなさい」

「良いの。そう思っても良いの。謝らないで。何も悪いことしてない」


 ぽろりと日向さんの目元から、涙が頬へ伝う。

 それを見ると、胸の奥がぎゅっと握られるようで苦しくなる。


「ごめんなさい。私は矛盾していますね。進君を排除しようとしているのに、進君を手放したくないと言っているんですから」


 彼女は顔を伏せ、胸の前で祈るように拳を揃えた。ぽつりと雫が白い肌に落ちた。それは肌の上を滑って、下へと流れていく。

 日向さんは幼児のように丸くなっていた。心理的な防御が身体に表れているのだろうと、なんとなく思った。これは彼女が自分の心を守るための体勢なのだ。


 あたしは少しだけ近付いた。そして、彼女の硬い拳の上から自分の手を被せた。


「それはね、何もおかしなことじゃないから、謝らなくて良いの。大丈夫。貴女は何も悪くないよ」


 顔は伏せられたままだ。


「手放さなければならないけど、大切だから手放したくないと思うのは、変なことじゃないよ。でもね、一つ伝えておきたいのはね、千佳さんやあたしがやろうとしていることは、最終的には進君にとってきっと良いことだよ。放置され続けた幽霊は悪霊になりやすいから、そうなる前に送ってあげる必要があるの」

「……」

「もしかしたら、誰かに悪いことをしてしまうこともあるかもしれない。だからね、進さんを正しいあの世への道筋に送ることは悪いことではないんだよ。もしかしたら、日向さんは、自分の苦しみを取り除くために進君を排除するんだと、だから、自分勝手なことをしていると、そう考えているかもしれないけど、違うよ。あたし達は逸れた幽霊を元の道へ戻すってだけ」


 日向さんが少し驚いたように、顔を上げて、口を軽く開いた。


「私は進君を」

「そう、見捨てる訳じゃない。助けるの。正しい道筋に戻れるように」


 赤くなった鼻をそのままに、彼女はほっとしたように脱力した。拳は解かれ、私は彼女と手を繋いだ。冷たい手だ。緊張していたのだろう。


「進君を助けるために」


 彼女が復唱する。


「そうだよ。だから、貴女が罪悪感を覚える必要はないんだ」

「私は誰に対して、ちゃんとしなきゃと思っていたのでしょう」


 日向さんが呟く。


「死後も想い続けなくてはならないと思っていた。我慢してでも、相手の望むように振る舞うのが当たり前だと思っていた。それが出来ないと、自分が悪いことをしてしまったような気がするの」

「うん」

「それを破ったからって、誰かに怒られることはないけど、ずっと、ずっと、怖くなって、これで良いのかと不安で、心がぐちゃぐちゃになるの」

「うん」

「本当はね、嫌なこと言ってくるの、やめて欲しかった。そういう人だと分かっていても辛かった。だって、痛いんだもの」

「そうだよね」


 眼には既に溢れそうな程に涙が溜まっていた。不意に震える声に、彼女の思いの重みが窺えた。

 ずっと溜め込んでいたものが、今、少しずつ出て来ているのだ。それはどれ程の量になるのか、あたし如きでどうにかなるのか、それは分からない。分からないが、彼女を内側から苛むものが取り除けるならと思う。


「でも、それでも、ちゃんと聞いてあげなきゃって。話し掛けてくれているんだから、ちゃんと聞かなきゃって思っていたの。幽霊になって、会えて嬉しかった。それは本当。でも、また、嫌なことを言われ始めた時、私ね、初めは懐かしくて嬉しかったけど、ちょっとうんざりしたの。聞かないで良くなったのに、また聞かなきゃいけないんだって」

「うん。好きな人でも嫌なことされたら嫌に決まっているもの」

「だけど、進君に対していなくなれって思うのは、酷いことだと思ったの。幽霊になってまで、何かを伝えに来てくれた、私に会いに来てくれた。そんな人を邪険になんてしてはいけない。私が弱いだけで、普通の人はこのくらい耐えられるから、ちゃんとしなきゃ、我慢しなきゃって。でも、今ね、初めて、どうしてそうしなければならなかったのか、って思ったの。こんなにちゃんとしなきゃって、いつからこんなになっちゃったんだろう」


 脱力したまま座る彼女の体は、初めて会ったよりも小さく見えた。

 恐らく、多くの傷を抱えたこの女性は、自分の行動の規範に疑問を抱いた。ちゃんとしなければならないのは、何故なのか。その規範は誰によって設けられたのか。


「難しい問題だ。でもね、ちゃんとしようとすることは偉いよ。ちゃんとするって大変だから、それが出来てたのは凄いこと。でも、苦し過ぎるものをやり続けなきゃいけない義務みたいなものはないから。「ちゃんとする」の「ちゃんと」の中身がおかしいことだってあるし、苦しかったら苦しいって言って良いの。やめたければやめて良いの。助けて欲しかったら、誰かに助けてってお願いしても良いの。でも、それって、とても難しいことなんだよ。だから、今回、晝間ひるまさんに、手伝って、助けてって言えたことは、凄く凄く偉いことなんだよ」


 彼女の肩を抱いて、隣に座る。薄い肩がぶつかるが気にしない。

 日向さんが頭をあたしの肩へと傾けた。その小さな頭にあたしの頬をゆっくりくっつけた。熱は伝わらないと思っていたが、意外と頭皮の熱が頬へと伝わっていく。


「頑張ったね。凄く頑張った。でも、もう、大丈夫だからね」


 ぽろりと、また、雫が落ちて、服に染みをつけたのが見えた。


「お願い。助けて。苦しいの」


 密やかな夜に浮かぶ言葉を聞いて、あたしは彼女の手を握った。





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