第35話 怖怖
初対面で見た印象は、嗚呼、この子は女優なのかもね、だった。
しかも、無意識にその場に相応しい振る舞いをしてしまうから、自分でも演じていると気付かない。場が和やかになるように、相手が心地良くなるように、言葉を選んで、仕草を選んで、表情を選ぶ。
それは生きていくためには必要な能力だ。
簡単に言えば、空気を良く読んでいるってことだからだ。
社会の大半は人間で出来ているから、その中で生きるなら、どうしたって人との繋がりを絶やさずにいられない。
親子、親戚、恋人、伴侶、友人、知り合い、行政の人、医者、コンビニの店員。一言、二言しか話さない人間もいれば、一生話し続けるような人もいる。表面をなぞるような話も、心の奥を抉るような話もある。
そうして、共同体ってものを作り上げているのだ。
人は一人では生きられない。
サバイバルが上手かどうかということではなくて、日本で暮らす以上は、行政から逃げられないし、財源も持たないで一人が生きるのは無理だし、お金を得る仕事というものだって、大半は人とのやり取りだ。芸術家とかなら、一人の仕事が多いかもしれないけれど、それを売るなり、パトロンを得るなりするなら、やっぱり、相手が必要になる。
だから、人は一人では生きられない。
そうである以上、集団から排斥されると窮するのだ。
排除の理由は様々だけど、大概は大したことがなくて、自分達と迎合しないってくらいだろう。
不衛生だとか、攻撃的な言動が多いとか、はっきりと問題があれば、それが理由になるだろうけど、特に理由もないまま、やんわりと疎外されたり、やんわり忘れられてたりするのもある。理由が分からないから余計に不安になったり、苛々したりすることもある。
だから、人間達は仮面を被って、お互いに仲間だよと、こっそり確認し合いながら生きている。空気を読むっていうのは、その確認を取れ合えるかっていう能力なのだ。
時には同意せずに主張することも大切だけど、それだって徒に攻撃的なら、受け入れて貰うのは難しい。話し合いは敵対する前か、お互いやり尽くした後にやるものだ。これには色々意見があるだろうけれども、あたしの場合は大体そんな感じだ。
無駄なエネルギーを消費したくなければ、やっぱり、根回しと空気読みは重要なのだろう。争いを生まないために、意見を統一させておく。または、察して、踏み込まない。その加減が難しく、あたしなんかは一定のラインを超えたら、どうでもいいやって思ってしまうけれど、彼女は違うように見える。
きっとそれに長けていた。
邪魔にならない立ち位置、薬にも毒にもならない感想、いつも笑顔で、相手の話を良く聞く。気を遣っていること等、相手には微塵も感じさせない。
それは良いことだよ。場を乱さない、誰かを傷付けない。嫌な気持ちになる人がいない空間が出来上がる。きっと、皆が彼女を素敵な人だって言う。優しい人だって言う。時には印象に残らないと言う。それはね、そのままで良い。あなたは素敵な人なんだから。あなたのしていることで救われる人はきっといる筈だから。
でも、あたしは我儘で自分勝手で、尚且つ、自分の生き方を気に入っているから、少しだけ思う。
それって息苦しくないか、と。
ずっと演じていて疲れないかと。素顔を忘れてしまわないかと。辛いのなら役割を捨てたって良いし、そもそもそんな役はやりたくないと言っても良い筈だ。だって、彼女の人生は彼女のものだから。
でも、無理してるつもりはないのでしょう。だって、彼女のそれは、無意識にしていることで、彼女とっては当たり前のことで、あくまでも自然な動きで、そう振る舞うのが自分だと思っている。アイディンティの一部になってしまっている。
それはそれで良い。生きたい生き方をするのは良いことだ。あたしだって、そうしている。勿論、どうしようもなくてそう生きるしかないって可能性もあるけど、どうだろう。やっぱり、良い子であろう、女の子は控えめで優しくないとという、もしかしたら、生まれる前から何処から湧いて来ていた教えが続いているのかもしれないと思う。
親切で優しくて穏やかで気が利く人。一緒にいると、心が落ち着く、とても素敵な人。
だから、そんな風になっちゃったんじゃないの。
世の中には色んな人がいるから、その色んな人も生きやすい社会にしていこうと言う。個性が大事、人と違ってもおかしいことじゃないと、優しく微笑むあの人達は説いた。
だけど、異物は排除される。
現実問題の話だ。あたし達は人の外へは抜け出せない。
彼女は自分が異物にならないように、努め過ぎたのではないか。規範に従い続ければ、それは起きない。
異物を異物と認識するのは、己よりも他者からの評価が大きかろう。コミニュティの中での最大勢力に、そうと判断されたら、自分の認識がどうであれ、評価対象は自分達とは同等ではないとレッテルが貼られる。
嫌悪でも憎悪でも、愉悦でも享楽でも、理由は何でもありだ。唯、神でもない癖に、人の優劣を決め、気に食わない人間を害すのは、さぞ、気分が良いのであろう。そうでもなきゃ、こんなくだらないことを古今東西繰り広げる訳がない。
その人がその人らしく自然体で生きていくにはどうしたら良いのだろう。どうしたら、雁字搦めにならないでいられるのだろう。社会の外に行かないと、落ち着く場所はないのだろうか。
唯、脅かされたくない、嘲笑されたくない、消費されたくない。そんなものは誰しもが当たり前のように持つ感情であるのに、評価する立場になった途端に、その感情を忘れてしまうのだろうか。
苛む元凶をそのままに、傷付く人だけが常に逃げる先を探し続けなければならないのは、上手に言葉に出来ないが、ずるいと思う。
言葉一つ。殺めるには足る。
そこまで考えて、話を脱線させ過ぎたと思い、一旦思考を止めて、あたしは目の前に置かれたお煎餅に手を伸ばした。此処に来る前に、コンビニで仕入れて来たものだ。新作の貝仕立て味だ。旨みと苦味のバランスが良い。あたしはラーメンも貝出汁が好きだ。
夕飯後、千佳さんはお店の方で寝ると言って、建物の外へと出た。
見送った玄関では、年季の感じる曇硝子の引き戸が閉じられて、かちゃりと鍵が掛かる音がした。ぼんやりとしたシルエットは遠ざかり、直ぐに闇に溶けて分からなくなった。
鍵、掛けなくても良いのに、と思う。直ぐ駆け付けるなら、ない方が良い筈だ。
でも、千佳さんはあたし達が遠慮しないように、配慮してくれているんだと分かっているから、何も言わない。
あの人はどうにも、気遣いの量が多くて、助かる時もあるけれど、そこまでしなくても良いんだよと思ってしまう時がある。単純に言えば、まどろっこしい。それに、千佳さんの負担が増えてしまうのは避けたい。ご飯だって、美味しいものは食べたいけれど、千佳さんに無理はして欲しくないのだ。
でも、それがあの人の美点なのだろう。誰かが余計な傷を負わないために、自分の出来ることをやる。優しく柔らかく努めている。そういう人でもなければ、喫茶店なんてやらないだろう。
あたしは人に言われて料理を作ったり、注文取りに行ったり、水を注いだりだなんて、やろうと思えば出来るけど、段々と無駄に偉そうなお客さんに敵意を向けかねない。昔、居酒屋でバイトをしていた時にトラブルを起こして、お客さんと取っ組み合いの喧嘩をして以来、接客業には近付かないようにしている。
人は学習能力があるのだ。同じヘマはしない。あたしは学べるので、接客業に就くことは一生ないだろう。だから、もう取っ組み合いの喧嘩は起こらないのだ。でも、同じ状況になったら、同じ展開を繰り返しそうな気がするけど、それは人間という生き物の可愛げみたいなものだと思い込むことにしている。
という訳で、漸く二人きりの時間となった。
ロマンスは待ってないが、幽霊があたし達を待っている可能性がある。気を引き締めて臨まなくてはならない。
「あ、もう二十一時なんですね」
時計を見た日向さんが教えてくれる。
「早いな。体感だと二十時なんだけど。マジで光陰じゃん」
そう言うと、日向さんがくすくすと笑った。口元を手で押さえながら、小さく笑う姿は、あたしから見ても可憐で守りたい気持ちになった。
笑って貰えたのが嬉しくて、あたしは日向さんに絡み始める。
「何笑ってんのぉ」
「だって、光陰をそんな使い方するの初めて聞いたから」
「光陰矢の如しって言うでしょ」
「知ってますけど」
「端折ってんの。短く小さく低コストが流行りでしょ」
「分かってますけど。ふふ」
自然と上がる口の端をさせるがままにして、また、お煎餅を口に運ぶ。バリバリという音が頭に響く。
「食べな。美味しいよ」
「あ、でも」
「貝苦手だった?」
「違くて、その、ポテトチップスとかあまり食べたことなかったから」
「マジで? あー、でも、これはね、ポテチじゃなくてね、お煎餅よ。でも、無理して食べなくていいよ。ほら、代わりにカルパスあげる」
あたしはコンビニの袋から極小のカルパスを取り出して、二、三個を彼女の手に乗せた。
日向さんはしげしげと掌のカルパスを眺めていたが、此方に視線を向けて、困ったように笑った。
「あの、これって何ですか?」
「え、おやつカルパスをご存知でない?」
全ての人が知っていて、且つ、好んでいるという前提で渡したので、思わず、未知の文明に出会ったかのような反応をしてしまった。
しかし、その顔は嘘を言っているようには見えず、本当にカルパスを知らないようだった。駄菓子とかが禁止されていたお家とかだろうか。でも、ポテトチップスがない家ならカルパスもなさそうだ。
子供の健康を気遣う親の心を蔑ろにするのはよろしくないし、他人の家の事情にあれこれと口出すのもよろしくない。とは言え、やり過ぎもまた良くない。程良く、バランス良くが一番だ。そう言うあたしは、ポテトチップスとカルパスを買っているから、塩分過多も良い所で、他人にどうこうは言えまい。
「なんか、何だろう。サラミみたいな」
「お肉なんですか?」
「多分」
「多分?」
「何の肉かは分からない。あたしは何を食べて来たのか自分でも分からない。取り敢えず、試しに食べてみて」
パッケージの開封にやや手間取りながらも、艶々としたカルパスを取り出す。そして、
日向さんは難しい顔をした。眉を寄せ、腕を組み、「むう」と唸っている。
もしかして、口に合わなかったのかもしれない。あたしにとって、美味しいことに間違いはないが、とは言え、安っぽい味がするのもまた事実だ。それがまた良いのだが、初めてジャンキーなフードに触れた人には、唯の安っぽい粗悪な物だと認識されるかもしれない。
「美味しくなかった?」
恐る恐る窺うと、日向さんは「違います、違います」と、慌てた様子で手を左右に振った。
「何のお肉かなと考えていたんです。味は美味しいです」
「なんだ、そうだったんだ。変な肉食べさせられて、怒ってるかなとか思っちゃった」
「怒る訳がありませんよ」
残りのカルパスを口に運びながら、日向さんは笑った。
元より、人と話すことは苦手じゃなかった。
話すのは楽しい。人と接するのは好きだ。時にぶつかり合うことも、傷付け合うこともあるが、それでも、こうして話し掛けることがやめられないということは、あたしの人生はこれからも人と接し続けるってことだろう。
第一印象は変わらない。彼女は女優だ。
でも、あたしと話している時は、結構楽しそうにしてくれているように思う。何かを取り繕うとか、誤魔化すとか、そういった仕草があまりない。
あたしが見逃しているだけの可能性もあるけれど、それについては、素のままが一番という単純な話でもないから、彼女が無理しないでいられるならそれで充分だ。
千佳さんはあたしを過大評価しているようだけど、あたしは医者でもないし、カウンセラーでもない。彼女のことは全然知らないし、事前に聞いていることもあるけど、踏み込んだ事情については、訊いても訊かなくてもどっちでも良いと思っている。大人なのだから、自分で加減を決めれば良いのだ。それが難しいと言うのであれば、他人の助けが必要かもしれないけど、あたしはまだ助けを求められていない。
誰も彼もを救える程、私の手は大きくなく、また、腕は長くない。それに、そもそもそんな大層な力は持っていないし、広い心もない。
だから、誰かに手を差し伸ばすなら、覚悟と理由が必要だ。
細やかでも、大仰でも、あたし自身がそうしたいと思える理由だ。
あたしの視線に気付いた日向さんが、カルパスを咀嚼しながら、微笑み掛けてきた。
案外、理由なんて、そこらにあるものかもしれない。
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