第 2 話 蘇る花

「少し不思議な話をしよう」


 店主が手に持ったマグカップを机へと置いた。静かな部屋にかたんという音が響く。何気ないその音も安らぎを与えてくれる。


 それは、普段なら静寂は痛い程に私を監視するものなのに、此処でなら音を鳴らすことが許されているように思えるからだ。きっと日常でも、私の立てる物音など、いちいち気に触る程の存在感もないだろうけど、強迫観念のように音は私を縛っている。


 注目されたくない。人前に出たくない。人に見られていると思うと、手が震えて、何もしてなくても自分が何か間違っていることをしているような気になる。その震えも恥ずかしくて、余計に私の頭は混乱して、結局普通ならしないような大きなミスをするのだ。


「ある男性が体験した出来事の話だよ」

「怖い話ですか?」

「どうかな。少し怖いのかもしれない」


 私はカップを手に取り、僅かに口に含んだ。砂糖の甘みが舌に纏わり付く。そして、また皿の上へとカップを戻す。

 茶器の擦れる音が耳に入る。でも、今はそれが気にならない。


「彼はごく普通の会社員だった。いや、少し大変な仕事だったかな。毎朝、満員電車に揺られて、帰りは遅く、家は眠るだけの場所だった」


 その説明に父親の姿を思い出す。

 私が起きるよりも早くに出掛け、夜遅くに帰って来て、夕食と風呂を済ませれば、後は眠るだけの生活に見えた。幼少の頃であればまだしも、今は碌に口もきいていない。

 だから、父が何を考えて、その生活を送っているかは分からない。毎日、決まったスケジュール通りに行動して、自由さも楽しみもないように見えるその日々に、何の意味があるだろうと、私は親不孝にも考えていた。

 特に意味もなく言葉を落とすと、母は呆れた顔でこう返した。「あなたが楽しみを奪ったのよ」と。


 私はその言葉の意味が分からなかった。でも、自分が知らない内に何か致命的な間違いをしたことと、それを母が責めていることは分かった。

 何も言い返せなくて、聞き返すことも出来なくて、あの時の私は黙って踵を返して自室に戻った。いつまでも落ち着かなくて、居場所がなくて、そうして、逃げるようにこっそり外へ出たのだ。


「味気ない日々をロボットのように過ごしていた彼だったけど、ある時、奇跡的に早めに帰れたんだ」


 落ち着いた声が脳に染み込みながらも、私はいつかの情景を思い出していた。


 誰もいない道を走った。名前のない衝動が私の足を動かした。

 陽が沈んだ街は、焼け焦げた後のように黒くて、カーテンの隙間から覗く街明かりや街灯は、私を排除するようにぎらぎらと此方を睨んでいる。それを振り切るように走って、そして、いつまでも続く宵闇と街灯からは逃げ切れないと悟った。

 でも、走っている間、私は自由だった。親も先生も止めに来ない。人気のない夜闇の領域には、何の線引きもなくて、私が誰であろうと構いはしない。

 それでも、それは唯の息切れのせいなのか、或いは他の何かのせいなのか、酷く胸が痛んだ。泣き出してしまいたい程なのに、一滴も涙は溢れない。

 夜闇は逃げ場にはならない。区別がない故に、居場所もないのだ。潜むことは出来ても、安らぐことは出来ない。

 堪らなくなって、足を止めて、肩で息をした。涼やかな五月の夜に汗を垂らしながら、私は街灯の下で立ち竦んでいた。

 思えば、私の生活も然程変わり映えのないものだったように思える。人のことを言える程、大層な人生を歩んではいない。

 途端に味気なくなって、帰路に着いた。


 今も思い出すと、少し胸が痛む。その理由も分からないのに、痛みが私の内側からお前は間違っていると刺して来る。


「そして、帰り道にある花屋が目に入った。思えば、花を飾るなんてしたことがない、癒しが一つ部屋にあるのも良いと彼は考えて、店員さんのお薦めだと言う、ビバーナムスノーボールだったかな。そんな花を買ったんだ。少し緑っぽい白の花でね、私は紫陽花に形が似ていると思ったよ」


 名前は聞いたことがないが、その特徴を持つ花は見たことがある。

 紫陽花のように、小さな花が集まった丸みを帯びた手毬のような形をしていて、葉の隙間にポンポンと点在しているのだ。紫陽花の場合は、花弁に見えるものはがくに当たるのだが、ビバーナムスノーボールはちゃんと一個一個が花になっている。

 切り花はその丸い花の集まりを一つか二つ、何枚かの葉を残して、枝を切ったものをよく見掛ける。

 鮮やかな色の訳ではないが、雰囲気のある花で、お洒落な写真に使われているものを何度か見た。明るい窓辺に置いて、暗い部屋から撮影すると、陰影がついてレトロちっくな雰囲気もあるし、清純さや爽やかさも感じられるのだ。


「近くの骨董屋で一目惚れした花瓶も買って、彼は家に着くと早速、花を飾ったんだ」

「凄く素敵ですね。そういえば、此処の店もお花が飾ってありますね」


 テーブルの上にはメニュー表の他に、コップに入れられた様々な一輪の花が飾られている。残念ながら、私が今いる窓際の席には置かれていない。


「友人に、ちょっとしたアクセントが癒しに繋がることがあると言われてね。嗚呼、今話してる彼と同じことをしてるね、私は」


 私と同じ花を見ながら、店主は微笑む。

 どうやら、癒しの効果は客側だけが受けるものではないようだ。


「それで、その会社員の人はどうしたんですか?」

「嗚呼、飾ってね、それで生活に彩りが出ると言うか、彼にとっても良い変化が起きた。次の日、また、疲れて帰った後も、その花を見れば気分が上向いたり、安らいだりしたんだ。そっと寄り添っていてくれると言うのかな。だから、彼はその花を見るのが楽しみになったんだよ」


 私が通学路にいる猫に会うのを楽しみにするようなものだろうか。唯、そこにいる、そこにあるだけで、自分に何も求めてこない存在は、何も身構えずに素直に接せる癒しなのかもしれない。


 店主が立ち上がって、一輪挿しのグラスを窓際へと移動させた。

 四角く分厚いその中には、色褪せたような優しいピンク色の花があり、机に置かれる時に、その軽さからゆらゆらと揺れた。


 花は持って来ただけのようで、店主はまた話の続きを話し始めた。


「でも、花って枯れるだろう?」

「枯れますね」

「彼の家の花も、懸命に世話をしてはいたんだが、多くの花々と同じく枯れてしまったんだ。彼は楽しみを失って、とても落胆していたよ」

「じゃあ、新しく買えばいいじゃないですか」

「でも、彼の生活リズムでは、花屋が開いている時間帯に買いに行けないんだ」

「そんなにブラックな感じだったんですね」

「それに彼は、自分の生活に恵みを齎したものに魅了されていたから、このビバーナムスノーボールがどうしても必要だったんだ。だが、彼の家にあるのは、朽ち掛けの花と花瓶。彼は毎日、落ちて行く花弁を掬って、花瓶へと流し込んだ。そんなことをしても、花は元には戻らないと分かっていたのに、花瓶を握り締めて祈っていた」

「残念ですけど、戻らないでしょうね」

「嗚呼、そうだよ。でも、彼は花が萎れて変色しても、ずっとそうしていた。元に戻れと願っていた」


 店主は思い出しながら話しているのか、目線を下へと動かす。

 伏し目によって、瞼の丸みが露わになり、重なりそうで重ならない睫毛が下瞼に影を落とした。それは少し悲しんでいるようにも見えた。


「でも、ある時、枯れた筈の花が蘇ったんだよ」

「蘇った?」

「そう。買った当初と同じようにとはいかないけど、そうだね、枯れる寸前に戻ったかのようだったよ」

「となると、種が出来てそれが芽吹いたって訳でもないんですよね」

「種ではないよ」


 それでは、まるで時間が巻き戻っているかのようだ。しかし、現実的にそれは有り得ない。

 枯れた花は戻らないし、覆水は盆に返らないのだ。どれ程強く望んだとしても、一度起きたものを覆す力を人は持たない。持たない筈だ。


「彼は喜んだよ。願いが通じたと、素直に信じていた。だから、いつもと同じように、落ちた花弁を拾い、もっと元気になるようにと願った」


 願いが叶った、と言うと良い話のように思えるが、理屈も分からない超常現象が起きれば、喜びよりも恐怖が勝つ。彼は何の疑問も抱かなかったのだろうか。


「その人は怖くなかったんですか」

「最初は驚いたが、最終的には喜びだけあった。彼の拠り所はそれしかなかったから」


 生きる喜びが一つだけだとしたら、それがどんなに胡乱な状態でも歓迎出来るものだろうか。

 でも、私は通学路の猫が死んで蘇ったら、嬉しく思うかもしれない。でも、それは飼い主でもない、何の責任も持たないからこそ、そう手放しに思えるのであって、今回のような自分が世話をする同じ屋根の下の存在と考えると、やはり、少し不気味さを覚える。


「花はどんどんと戻って行き、一番のピークの時期まで戻った。そして、そこからは戻ることも進むこともなく、ずっと咲き続けていた。彼はそれでも毎日祈り続けた。枯れませんように、終わりませんようにと。そして、花を買ってから一ヶ月後、彼は部屋で亡くなっているのが見付かった」

「え、亡くなった?」

「そうだよ。異様なご遺体だった。何もしなくても肋や頬骨が出ていてね。彼は少しぽっちゃりしていたのだけど、その時は病的なまでにがりがりに痩せこけていた」

「それはブラックな職場だったから?」

「それも痩せた理由の一つになり得るのだろうけど、彼はどちらかというと過食でストレス発散をしていた。肥えた人がそんなに直ぐに骨と皮だけになるものかな」


 病気の内容が分からないが、ものによっては食欲が全く湧かないこともあるだろうし、そう言った理由から痩せたとも考えられる。

 働いている内は義務感で食事をするけど、それから解放されて、全く食事を取らなくなったというパターンもあるが、店主の言う通り、元々太っていた人が半月程でそれ程までに痩せるものなのだろうか。


「君はどうして彼がこんなにも痩せこけて死んでいたと思う?」


 穏やかな声が問い掛ける。その眼差しは柔く、それでいて真っ直ぐだ。

 きっと、外れても、当てても良いのだ。突拍子のない解答だって、この人は受け止めてくれる。


「何が彼を死に至らしめたのだと思う?」


 先程とは少し違う問い掛けが重ねられる。


 私は唾を一回飲み込んでから、口を開いた。





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