追悔のナラティブ

宇津喜 十一

第 1 章 透き通る海

第 1 話 初夏の風

 風にそよいで、梢がさわさわと揺れていた。

 生い茂る豊かな緑を見上げて、その隙間から差し込む初夏の眩しい陽光に、私は思わず目を細めた。


 道の傍に植えられた街路樹の名前を私は知らない。物心つく頃には既に立派な幹を誇っていたそれに、然程興味を抱いて来なかった。春過ぎの青々とした緑や、秋にはらはらと落ちる色付く葉に、季節の移り変わりを感じることはあっても、それが私の人生に影響を齎すことはなかった。


 季節など唯、過ぎ行くもの。通り過ぎて行くのを黙って見送るだけだ。それすらも目まぐるしく思うのに、ましてや、何の変化もなくそこにあるだけのものに、どうして注意を払うだろう。私にそんな余裕はないのだ。

 気に掛けるべきなのは、己の身の回りの狭い範囲のみで、そこが平和であるならば、他人がどうであろうと大して問題はない。自分と関係のない人間は、街路樹のようにそこにあるだけのものなのだから、いちいち気に掛ける必要などないのだ。


 今となっては、その狭い範囲も街路樹と同じになってしまったのだけれど。


 視線を前に戻す。丁度良く信号の色が変わって、私は足を踏み出す。


 何となく白いラインだけを踏むように大股で渡り切ると、向こう岸へ到着する。先には北、東、西へと伸びる道がある。北に行けば商店街があり、東に行けば駅と学校がある。西には特に何もない。

 私は迷わず西へと向かう。


 また、風が吹いて制服のスカートが僅かに翻る。それを手で抑え、プリーツを直しながら、私は歩みを進める。

 切り替えたばかりの夏服は、冬服に比べると生地が薄く軽いため、簡単に捲れる。でも、その代わり、動き易い感じがして、何だか自由になれるような気がするから、私は夏服の方が好きだった。


 大通りを過ぎる車の音が轟く。

 木々の葉音がさざめく。

 履き鳴らした革靴がアスファルトを叩く音が響いて、擦れ違う誰かの話し声が、時折さんざめく。

 重なり合いながら、粒の形を残す音達は、止まることなく私の体を通り過ぎて、消えて行く。そして、絶え間なく、また音が私の体を抜けて行く。


 それはずっと聞いていたいようでもあったし、今すぐに耳を塞ぎたい気持ちも何処かあるようだった。静寂は心地良いものだけど、文字の通り寂しさもあるものだから、一人になり切れない私は、音に塗れて過ごす方が性に合っているのかもしれない。でも、張った膜の内側にいるような、くぐもった音はあまり好きではない。不快な感覚は何一つ受け入れられない。


 私は気付いている。でも、目を逸らしている。なかったことにはならないのに、自分の中でなかったことにしようとしている。

 ひっくり返った水は皿には戻らないのに、手で掬う真似さえ出来ず、私は足で溢れた水を隠そうとしている。水はいずれ蒸発しても、皿は残り続ける。

 だから、私は目を逸らしている。


 陽は高く、強い。胸の翳りが濃くなるようで、私は木陰へと逃げ込んだ。

 暗い道は安らぐ。真っ暗闇は怖いけれど、薄闇のような暗さは居心地が良い。今日のように陽が照る日は、ずっと日陰を歩いていたい。誰にも気付かれないように、隠れるように、隙間を縫って。

 それはまるで、何かから逃げているようだと気付いて、僅かに唇の端が上がった。


 人気のない道を探して歩き続け、室外機が犇く狭い路地を抜けると、漸く、目的地に辿り着く。

 古めかしい木造の古民家を店舗に改築したその店には、悔楽堂かいらくどうという看板が架けられている。周囲は普通の住宅街で、この店だけ浮いている印象がある。別世界と言おうか、奥まった場所にあるからか、或いは、庭や軒先に植えられた木々が陰を作っているからだろうか。緑溢れているのに、どうにも辛気臭さが漂う。

 開かれた門扉を抜けて、敷地内へと入る。

 道路に面した窓から、中の様子を窺う。奥には見えづらいが明かりが灯っている。この店は営業中の札を下げないから、こうして窓から営業しているかどうか確かめなくてはならない。真っ暗ならお休み、今のように明かりがついていれば営業中だ。

 誰かに教えて貰わなければ、此処が店であるすら気付かないだろう。


 私は扉を開いて、中へと体を滑り込ませる。甲高いドアベルがちりんと鳴り響いた。


「こんにちは」


 恐らく店の奥にいるであろう、店の主人に声を掛ける。すると、二人掛けの席に座っていたらしき店主が、ひょいと壁の向こうから顔を覗かせる。


「また来たの」

「また来ました」

「学校は?」

「さぼりました」

「最高だね。好きな席に座りなよ」


 そう言うと、また壁の奥へと隠れる。


 中の面積はそれ程広くはない。だが、四角い板を敷き詰められた校舎の天井に比べれば、剥き出しの梁のお陰で天井は高さがあるように見える。

 入って直ぐは土間になっており、左右に四人掛けの席が一つずつある。一段上がった左手にはレジスターと厨房があり、右手側がトイレとなっている。此処からだと壁が邪魔で見えないが、更に奥には二人掛けの席が一対と二階へ続く階段がある。


 私はかつんと乾いた音の鳴る土間を抜けて、小上がりへ上がる。そこからは板間になるので、きいと木の軋む音を響かせながら、いつもの二階へと向かう。


 途中、店主へ視線を向けると、パソコンでソリティアをしていた。


「それ、楽しいですか」

「楽しいね」

「どういう所がですか?」

「やらなきゃいけない仕事をさぼって遊んでいる所が」


 束になったカードをスペードのジャックの上へ重ねると、自動的に全てのカードが回収され、クリアという文字が大きく画面に表示される。


「おめでとうございます」

「ありがとう。……飲み物はミルクティーで良いかな」

「ミルクと砂糖は」

「たっぷりね。分かっているよ」


 そう言って、店主はノートパソコンを閉じて、席を立った。それを尻目に私は階段を登る。


 階段を登り切ると、白い光が私を包んだ。


 勾配天井になっている土間の分の面積がないので、二階は一階よりも狭い空間になっている。

 二人掛けの席が一つに、窓際に面した一人席が四つある。部屋に明かりは点いておらず、光源は窓から差し込む太陽光だけである。


 陽は高く、入る光量はそこまで強くはないのに、何故だか此処はいつも光に溢れているように感じる。入口はあんなに陰鬱としていながら、その中は酷く心地が良く、光も先程とは違い、優しく、柔らかく私を迎え入れてくれる。

 此処でなら、胸の影は濃くならない。明るい場所と暗い場所の境目が曖昧で、影の境界部にある謂わば影の影が広がっているようだ。水を垂らして絵の具を滲ませるように、薄く、淡く、私の見たくないものがぼやけていく。


 私は窓際の左端の席に座る。特等席だ。

 窓の外を見遣ると、階下は伸び行く木々に隠されて見えないが、敷地外の道は見える。狭い隘路は人気がなく、家々の影で暗い。庇の上を歩く三毛猫が、塀へと地面へと軽やかに跳んで着地する。そして、足早に去って行く。目で追うと、その先にはキジトラがいて、二匹はじゃれ合い始めた。


 それを暫く見ていると、背後からかつかつと階段を登る音が聞こえて来た。微かにかちゃかちゃと茶器の擦れる音もある。

 振り向くと、一階から店主がお盆を持って上がって来た所だった。と、同時に甘いバターの匂いと珈琲と紅茶の芳醇な香りが鼻腔を擽った。


「クッキーあるから、持って来たよ。サービス、サービス」

「わあ、やった」


 店主は私の横に立つと、滑らせるようにテーブルにお盆を置く。

 上にはマグカップとティーカップ、そして、浅いお皿があった。マグカップにはブラックの珈琲らしい液体が入っている。淹れたてなのか、湯気がもやもやと昇っていく。

 珈琲は苦くてあまり得意ではないが、鼻の奥へ突き抜けるような珈琲の香りは好きだった。

 これは店主の分だ。いつもこの生成色のマグカップで珈琲を飲んでいる。大人っぽくて格好良いと思うから、いつかは私もその美味しさを知りたいものだと思う。


 金と緑で彩られた華奢なティーカップには淡い薄茶色のミルクティーで満たされており、その横にある、くすんだ薄ピンク色の磁器の平皿には、幾つかクッキーが置かれている。

 クッキーは、周りにざらめのついたサブレ、市松模様のボックスクッキー、ジャムが混ざった渦巻きクッキー、メレンゲクッキーの四種類だ。どれも素朴さがあり、甘い美味しそうな匂いがしている。

 私は思わず、唾を飲み込む。


 静かだった心の内側が波立つ。これは喜びによるものだから、不快感はない。


 お盆を置いた店主はマグカップを手に取ると、隣の席に座る。隣とは言え、一人席であるから、少し距離はある。

 一人掛け用の椅子は、ゆったりと腰を落ち着かせられるソファだ。深く座ると私は爪先がつかないが、店主はリラックスしながらでも足をしっかり地面に着けることができる。地味に悔しさを覚えながら、私は足をゆらゆらと揺らしながら、お盆に向き直る。


「それね、昨日、友人がくれたものなんだ。美味しかったから、貴方にも食べて欲しくて残しておいた。クッキー、好きかな」

「大好きです。わあ、ありがとうございます。いただきます」


 一番シンプルなサブレに口をつける。歯を通すと、柔くほろほろと崩れていくのに気を付けながら、やや息を吸い込みながら口に入れる。砂糖の甘みの後に小麦粉の甘みがある。じゃりじゃりとしたざらめも良いアクセントだ。


「美味しい?」

「美味しいです。このざらめが凄く良いです」

「なら、良かった」


 ミルクティーを啜る。要望通り、甘く仕上がっている。ミルクもたっぷりで、その甘い匂いも混ざっている。これは幸せな匂いだ。

 もう一口、サブレを齧る。そして、ミルクティーを流し込む。紅茶にサブレのバターが混ざって、口の中で広がっていく。


「ふふ」


 低い笑い声が聞こえる。

 目を向けると、上品に口元に手を寄せながら、店主が和かに私を見ていた。


「何ですか? 口についてますか?」

「口にもついてるけど。うーん、まあ、なんでもないよ」


 店主が自分の唇の右端を指差す。

 私は指で唇を拭う。指摘通り、ざらりとしたものが指に付く。


「いつもにこにこしながら、私が食べている所を見てますよね。そういう趣味の人なんですか?」

「凄い誤解を与えてしまってるな。違う、違う。美味しそうに食べてるなって嬉しくなったんだよ」

「美味しいんですもん」

「そう思って貰えることが、私にとって嬉しいんだよ」

「へえ」


 さくさくとクッキーを食べながら、店主の言う通り、それは嬉しいものだなと思った。自分の作ったものかどうかというのも関係なく、美味しそうにご飯を食べている人を見ると、何だか嬉しくなる。

 自分がそうしているとは気付かなかったけど、美味しいものは食べた人も、周りの人も幸せにするのかもしれない。と思うと、少し気恥ずかしい。


 そんなことを考えながら、私は此処に来た目的らしきものを思い出す。


「それで、今日はどんな話を聞かせてくれるんですか?」


 その言葉に、店主は微かに微笑んだ。





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