第29話 藹藹
一つの扉の前に立ち、突き出た鈍色のドアノブを捻る。がちゃりと引っ掛かる音を立てて、ノブはそれ以上回らない。
次に隣の扉で同じことを繰り返す。更に、次にも、そのまた次にも。
そうして残った最後の扉は、俺が此処へ来る時にはなかった扉だった。最初は突き当たりとなっていて、何もなかったが、今、其処には扉が新たに出来ていた。恐らく、何かの条件をクリアしたか、或いは、新しい試練として出現したのか。見た目は変哲もない、その他の多くと同じ金属の扉である。鍵が掛かれば、蹴破って出て来ることも出来ないくらいには分厚い。
恐らく、この中に入ったら、俺はいつかのワンシーンを追体験するのだろう。そして、何も出来ないまま、悲劇を見送るのだ。
そうすることで、次への扉が開くヒントが得られるなら、望むところだ。
俺は恐る恐る手を伸ばし、ひんやりと冷えたドアノブに手を掛けた。妙な緊張感に生唾を飲み込む。
静かに右へ捻ると、軽い音と共に扉が開いた。
大きく開くと、見慣れないフローリングの廊下があった。足元には靴が綺麗に並べられており、恐らく、今開いた扉はこの家においては玄関の位置にあるらしい。
廊下の先には簾に隠された部屋があり、そこからは子供の甲高い笑い声と落ち着いた女性の声が聞こえて来た。
靴も大人用のスニーカーと、可愛い子供用のマジックテープで着脱出来る靴とがあった。子供のいる家庭なのだろう。
この場所に覚えはない。また映画とは違う展開だ。そう思っても、他に道はないのだから、進むしかない。
俺はスニーカーを脱いで、框を踏む。小さく軋む音に、やけに敏感になる。
何処となく後ろめたくて、忍び足になった。
玄関から奥の簾の部屋、恐らくリビングまでの廊下には、二階へ続く階段と風呂場などの水回りが配置されていた。全体的に清潔感があり、電気がついていなくても、何となく明るい。窓が大きいのだろうか。俺の実家にあるような薄暗さや陰気さがなかった。
壁には子供の描いた絵が飾られている。
両親と自分を描いたのだろうか、三人組の絵が多い。クレヨンで力一杯描いたせいか、色とりどりの欠片が紙に塗り込まれている。
それを見ていると、自分の子の絵でもないのに、俺は何だか穏やかな気分になった。この家の雰囲気のお陰だろうか。此処にいると、穏やかで優しい懐かしさを思い出す。
昔、子供の時分、描いた絵を母に贈ったことがある。
どういう絵だったか、俺はもう覚えていないが、母がとても喜んでくれたことだけは覚えている。上手だねと、嬉しいよと、沢山の溢れた言葉を与えてくれた。それが嬉しくて、誇らしくて、得意になったのだ。
絵はリビングに飾られ、母は時折それを眺めていた。俺にはいつからか一瞥もしないような景色の一部となってしまっていて、壁のどの位置にあったかも覚えていない。
まだ、何も壊れていなかった頃の思い出だ。俺はまだ、幼く、素直でいられた。だから、この思い出は何にも汚されずに心の柔い所に仕舞われていた。
ずっと忘れていた。
母も父もまだ平和だった。狂気の欠片もなく、穏やかで退屈だった日々だ。過敏過ぎず、度が過ぎず、憎しみも恨みもなく、何気ない喜びが溢れていた。
ずっと忘れていた癖に、それが自分がずっと求めていたもののような気がした。
また、歩みを進める。穏やかな日常の香りが鼻腔を擽って、力んだ肩を緩めた。
枝垂れのような玉の簾を手で避けて、中を覗き見る。
中はやはり、リビングのようだった。開けた部屋には食卓と四人分の椅子、それと子供用の椅子もある。傍にはソファとテレビ、そして、子供用だと思われる、可愛らしい雲の模様の入ったクッションマットが敷かれたスペースがあった。
そこでは幼い女の子がお絵描きをしていて、その傍らには若い母親がいて、その子のことを見守っていた。
女の子は愛らしい水色のワンピースを着て、夢中で何かを描いている。母親は笑い掛けながら、時折、子供を褒めたり、質問をしたりしている。
二人が俺の存在に気付く様子はない。
掃き出し窓は半分程開けられて、穏やかな風がレースカーテンをはためかせながら、室内へと流れて来る。差し込む日差しもまた柔らかく、平和なこのリビングを優しく明るくしていた。
静かな部屋に響くのは、落ち着いた女性の声と、燥いだ様子の子供の声だけだった。時折、窓の外から車が過ぎる音が聞こえるくらいだ。
此処には何も荒いものがない。恐怖すら覚える威圧感も、何も間違えてはいけないという緊張感も、俺にとって忌避すべきことが何もなくて、唯、自然に在るが儘にあることが許されている気がした。
気が付くと、俺は涙を一筋流していた。
「あれ」
自分の手で拭うと、確かに指が濡れた。
だが、当の本人は戸惑いの方が大きかった。
何かに感動した覚えも、悲しんだ覚えもない。勿論、目に塵が入った訳でもない。
「るりちゃん、これはわんわんかなあ」
「うん。わんわんだよ」
「そっかあ。るりちゃんは、絵が上手だねえ。あ、わんわんは水色なんだね」
「おみずのんでるの」
母親の言葉で俺はハッとする。
俺などは子供の頃とあまり顔が変わらないと言われるが、彼女の場合は言われなければ分からない程の変化があった。思えば、子供の頃の彼女を見るのは初めてだ。
酷く、酷く穏やかだ。
母と娘のやり取りも、この部屋に満ちる空気も、溢れる光も風も、暖かく抱き締められているみたいだ。俺だけが場違いだった。そうと分かっているのに、此処から離れ難く思う。
そうか、俺は許されたいんだ。愛されたいんだ。在りの儘を受け入れて欲しいんだ。
此処にはその全てが揃っているから、俺は嬉しくて、羨ましくて、まるで、自分まで許された気がして、勝手に安心感を覚えたのだ。
「うっ」
俺は自分の意思に関わらず強張る喉を、無理矢理押さえ付ける。そうでもしなければ、嗚咽が溢れてしまいそうだった。
目を閉じても、彼女の笑い声が聞こえた。それに応える優しい声も聞こえた。
廊下の先、玄関の方で物音がした。
「あ、パパが帰って来たかな」
母親の言葉に答えず、子供は玄関へと駆け出す。
突如として、頭にいつかの声が蘇る。「否定しないで」暗く沈んだ声と表情。横たわる四肢。虚ろな目。痩せた身体。その言葉に俺は自覚する。子供の声が聞こえる。燥ぐ声が聞こえる。恐らく、その子供を抱っこしたであろう、父親の嬉しそうな声が聞こえる。母親がゆったりと立ち上がり、廊下の方へ「おかえりなさい」と声を掛ける。
俺は漸く、自らが犯した罪の在処を、その重さを思い知る。
立ち去った方が良い。
彼等に俺の姿は見えていないようだ。だが、此処にいてはならない。此処は彼女にとって大事な思い出なのだ。暖かく優しく愛されていた記憶だ。
そうだ、彼女は愛されて育ったんだ。大切に、大事にされて来たのだ。
それを、俺は軽んじて扱った。
分かって欲しかっただなんて言葉では誤魔化せない夜が過ぎて、大事なんだって言葉では誤魔化せない約束は度が過ぎて、その鎖は鎧は、君の柔らかな肌をどれだけ傷付けて来たのか。
知らなかったとは言えない。君へ我儘を言っていることも、君が心を痛めていることも知っていた。知っていながら、大したことないとたかをくくって、止めることをしなかった。自分の楽さや望みを優先したんだ。
自分の痛みには敏感で、他人の痛みには鈍感で、だから、容易く他人をぞんざいに扱える。
俺は止まらない涙を放って、玄関へと向かう。穏やかに笑う人々が、透明な俺を通り過ぎて行く。
羨ましい。羨ましいなあ。
でも、尊いその時間を奪う権利なんて誰にもない。おこぼれを頂こうだなんて、それすら厚かましい。況してや、それを汚し、壊すことなど、何人であっても許されることではない。
玄関扉を開け放って、その先も確認せずに飛び出す。
むわっと噎せ返るような草の香りが俺を包んだ。視界には暗い空、一面の草原、遠くに見える大樹。先程辿り着いた場所へ、もう一度出たようだ。
俺は衝動的なままに駆け出す。
目的地はあの大樹だ。根元には脚立があった。その枝には縄が垂れていた。
何の為に、誰の為に、そんなのはもう分かっている。俺のためだ。
俺が罪を償うためにあるのだ。だって、この奇妙な世界は、きっと、きっと俺の罪を苛む為に生まれたものなのだから。冤罪だって、何を馬鹿なことを言っていたのだろう。罪があったじゃないか。言い逃れの出来ない大罪がこの身には刻まれているじゃないか。
全部、俺のせいだ。俺が悪いんだ。
俺にさえ出会わなければ、俺が執着なんかしなければ、そうしたなら、きっと君は今も健やかに生きていけた筈だ。
過去を変えることが出来ないならば、せめて、未来だけは傷付けずに済むようにしたいんだ。本当に今更で、取り返しがもうつかないことだけど、何もしないでいるべきではないから。
草花を踏み付けて、土を蹴り飛ばして、俺は駆けた。玄関で脱いだスニーカーを履き忘れたから、土の中の小石が足裏を刺した。それでも、足を止められなくて、俺は泣きながら走っていた。
漸く、大樹が目前に来た辺りで、足を緩めた。
唾を飲み込むのも辛い程に息が上がっていた。肩を動かさないと息も出来なかった。道中、痛んだ足にはもう感覚がなくて、脳はまるで酸欠で視界も狭まるようだった。
「伊東さん?」
いつもは落ち着いた声が、驚いた調子で俺の名前を呼んだ。
俺はそれを無視して、傍らに倒れた脚立を立て、段を上がった。最上段を登ると、それは丁度良く首に掛かった。
俺が何をしようとしているのかが分かったのだろう。
喉に全ての体重が掛かって痛い。ざらついた縄も皮膚に食い込んで痛い。耳からどくどくと血の音が聞こえて五月蝿い。
死ぬのって、こんなにも痛くて苦しいものなのか。なのに、俺は君の心を何度殺して来たのだろう。
なかなか意識が飛ばなくて、腹の底から無性に恐怖心が興って、
その時、誰かが俺の足に抱き付いた。そして、俺の体を持ち上げようとしていた。
下を見れば、脚立に乗った梯さんが俺を持ち上げていた。
「は、離してください」
「出来ません」
「こうするしか、償い方がないんです」
「償い……」
「俺は、俺は大切な人に、正しく愛されていた人に、とても酷いことをしていたんです。分かっていたのに。自分が禄でもないと分かっていたのに。だから、終わらさせてください」
「誰が来ても引き止めろと仰ったのは、そちらでしょう!」
足で退かそうとするが、梯さんは頑なで決して離れようとしない。だが、その膠着状態からは何も好転することはないと悟ったのか、一旦、足から手を離すと、立て直した脚立の一番上まで上がり、そのまま飛び上がって、ロープが結び付けられた枝の上まで軽やかに移動した。俺はまるで猫のようなその跳躍力に目を丸くする。そして、梯さんは人一人を支えられる程のその太い枝の先の方を力一杯踏み付け、思いっきりしならせた。
すると、荷重に耐え切れなくなった枝は、ばきばきと大きな音を立てながら折れ、其処に全体重を掛けていた俺は重力の理の儘に、地面へと叩き付けられた。
「くっ」
「伊東さん!」
枝の上の梯さんが身軽に地面へと飛び降り。倒れた俺の元へと駆け寄る。
痛みで丸まる俺の体を仰向けにして、顔を覗き込む。長い睫毛に囲まれた澄んだ瞳には、心配の色だけがあるように見えた。
「伊東さん、大丈夫ですか」
「大丈夫では、ないですけど」
細やかな口答えをする。どうやら、それが出来るくらいの余裕はあるらしい。我ながら呆れたことだ。
決死の覚悟を踏み躙られたと怒りが芽生えるような場面なのだろう。なのに、俺の心には今、安心がある。助けて貰えて良かったと思っている。
それが酷く悔しくて、情けなくて、また、涙が溜まって、目尻へと流れていく。
「何処か痛みますか」
「……違います。違うんです」
擦れた首、落ちた時の全身の衝撃、それらは痛むが、同時にどうでも良かった。それよりも、この後に及んで、我が身可愛さが捨て切れない己の甘さと、救われたことを喜ぶ浅はかさが恥ずかしかった。
「違うんです……」
それしか繰り返さない俺を見て、梯さんはどう思ったのだろう。幻滅されたろうか。多大な迷惑も掛けた。幾ら優しくても、此処まで来れば見限られても仕方がない。
梯さんは俺の様子を暫く観察していたようだが、呆れたのか、肩の力を抜くためか、小さく息を吐き出した。
そして、いつものように微笑みながら、俺の胸に手を置いた。他人の体温は何だか触れていると落ち着く。
「ゆっくりで大丈夫です。落ち着いたら、お話を聞かせて頂けますか?」
俺はその優しい声色に頷くことしか出来なかった。
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