第30話 行行
「成程、そういうことがあったんですね」
落ち着いた俺から話を聞いた
「だから、死をもって償おうと、あんな行動をしたんですね」
「はい」
一頻り泣きじゃくった俺は、首と全身の痛み、そして、熱っぽく腫れた瞼を抱えて、大樹の根元に腰を下ろしていた。傍には折れた枝とその欠片が散らばっている。俺の横には
話し終えると、梯さんは少し考え込むように、目を閉じた。俺は続きの言葉を黙って待っていた。
「確かに。
「自分でも怖いんです。大事だったのに、何故、こんなことが出来たのか。当たり前のように、何故、それが出来ていたのか」
自分を軽んじられること、意思決定を否定されること、そして、相手の機嫌を損ねないように、自分を殺して相手の望む正解を探す作業がどんなに苦痛であるか、俺は知っていた筈だった。それは決して談話などではなく、接待でしかないのだと。俺という自我は認められず、相手の話に同意することがなくても、恭順な態度で賛同し、過ぎ去るのを待つあの時間が、どれだけ俺の心臓を突き刺してきたことか。
あれ程の苦痛を俺は忘れていたのだろうか。
逃げ出したいと何度も思った。ああはなるまいとも思った。だが、俺はそのどちらの目標も叶えることが出来なかった。
今にして思えば、もう牢獄のようなあの家を出ても良かったのだ。成人もしたし、自分で稼ぐようになったのだから、一人暮らしも充分実現可能だった。
それでも、それが出来なかったのは、幼い頃からこの脳を縛り付ける呪詛のせいだ。自分で決意して進むことを極端に怖がって、いちいち命じられなければ何も出来ない。捨てるには愛着があって、離れるには執着が強くて、結局のところ、俺は力不足だったのだ。過干渉な母親を突き放す気力も勇気も足りなかった。
それが出来ていたら、俺の精神もまともに近付いただろうか。継承した呪詛を君に注ぐことなく、どうでも良い小さな縛りで君を牽制することなく、健全に、対等に、穏やかに過ごせただろうか。
今になって、ヘドロのような後悔が胸を迫り上がる。まるで、何年も放置していた排水管の掃除をした後みたいだ。ねばねばとしていて、異臭がして、黒ずんでいて、自分から出た物だとしても、到底、触りたいとは思えない。
だが、それが俺だった。俺の一部だった。
目を閉じても消えないものだ。
俺は瞼を開け、周りを見渡す。
何処にも彼女の姿はない。
「此処は何なのか、一体誰がこんな場所を作ったのか、俺には分かりませんでした。当初の俺は罪悪感も持っていませんでしたし。でも、今は多少見当が付きます。何の為かはまだ確信を持てませんが、悔悟室での梯さんのヒントと、あの記憶を見れば、誰の作った世界かは分かりました」
次の言葉を促すように、梯さんは静かに頷いた。そのお陰か、あまり緊張せずに言葉を続けられた。
「此処は俺の世界ではない。彼女の、
「ええ、そうです」
俺の答えに、梯さんは丸を付ける。
自分の推測が当たったことに喜びを覚えるが、同時に、彼女が自分に何を望んでいるのかが分かった気がして、気が塞いだ。
「此処は日向さんの心の中です。彼女は貴方を心の中に捕らえて離しませんでした。ですが、それは大切な人と共にあるということであると同時に、それまでの苦しみも続くということです」
穏やかな声が、俺の知らない彼女を語る。
「見かねたご友人が私の元に相談に来られました。そして、彼女とお話をし、貴方を外へ出そうということで話が纏まりました。私が此処にいるのは、貴方をちゃんと外へ出す為です」
「どうして無理矢理追い出したりしなかったんですか?」
「……人の心というものは不可解なものです。論理的に正しい答えがあっても、感情がその答えを否定することもままあります。今回もそういうものです。貴方を外へ出すことが正しい答えなのに、感情として貴方を手放したくないのです。だから、一つ一つ、彼女の感情が納得する道を選ぶ必要があった」
終わりのない回廊、闇に飲まれる道、隠喩の大樹、思い出の映画館、罪を問う施設、懐かしき家。
きっと、それらは彼女の葛藤が生み出したものだったのだろう。手放したくない。でも、手放さなければならない。先が見えなくなる程に葛藤する、そういう時に縋る先はいつだって思い出だ。だから、納得のために、その思い出を秤に乗せ、罪の重さを量り、一つ一つ清算して、手放したくない気持ちを弱らせたのだろう。そうすれば、手放すことにも納得出来る筈だから。
通りで、彼女のことばかり思い出していた訳だ。何故なら、此処は彼女の中なのだから、何処を見ても、彼女の面影を見るのだ。
映画のように目眩く世界を巡って、俺は漸く、自分の中で納得と決意が出来たように思えた。
「此処を彷徨っていた俺は、何者なんでしょう。俺って、今、どうなってるんですか」
俺の質問に、梯さんは答えづらそうに唇を噛んだ。一瞬、逡巡したように見えたが、次の瞬間には、えらく真面目な顔で答えていた。
「
「……」
嘘を吐くような人ではない。だから、これは事実なのだろう。
ショックは多少受けたが、それ以上に実感がないので、致命的なダメージにはならなかった。死んでいるなら致命傷も何もあったものではないが。
でも、それで良かったとも思えた。今回のことがなければ、俺はいつまでも自らの罪に気付くこともなく、彼女を殺し続けていただろう。彼女の中に多少、思い出は残ってしまうが、元凶が消えてしまえば、これから先、新しい苦痛を受けずには済むだろう。
「じゃあ、これからどうしたらいいですか」
「……どうされたいですか? 私はお二人の納得が大事だと考えています」
彼女の心の中から脱出しなければならない。
だが、先程のような死んで脱出というのは使えないとのことだった。死体が残る以上、彼女の中に俺が残り続けることになるのだ。
ならば、また、扉を探すことになろうか。
そこまで、考えて、一つ思い当たる話を聞いたことを思い出した。梯さんと初めて会った時だ。あの時、闇の道への扉は俺の意思によって作られたのだ。入口があると思い込んだために、先へ続く入口が出来たのだ。
ならば、俺が出口が此処にあると強く思い込めば、出口も出来上がるのだ。
此処は檻だが、鍵は掛かっていない。
そうだ、いつだって、俺は此処から立ち去ることが出来る。彼女は、もう、その準備を終えている。
もしかしたら、あの終わりのない回廊は、彼女の決心が固まるまでの待ち時間だったのかもしれない。
俺の背後で空気が動いた気配がした。
だが、直ぐには振り向くことが出来ない。視線を思い出したからだ。俺を見張り、縛る、その眼差しを、俺はまだ切り離せないでいる。
小指一歩動かすのさえ、緊張してきて、呼吸音が小さくなるようにゆっくりと少しずつ息をした。
だが、此処が彼女の心の中だと言うのなら、あの人がいる筈がない。二人に面識はない筈だ。なら、後ろで俺を見ている人物など、きっと俺の勘違いで、実際は誰もいないのだろう。
俺は溜まった唾を飲み込んだ。
意を決して振り向くと、見覚えのある古いアパートの扉があった。其処には誰もいない。
梯さんの方を見ると、黙って頷いてくれた。
そうだ、もう、俺は自由だ。きっと、随分と前から直ぐ手元にあったのに気付かなかった自由が、漸く、俺の手の中にある。
俺はドアノブに手を掛ける。
「さあ、行きましょう」
震うは先の闇。何処とも知れず、道もなく、況してや、道標などある筈もなく、唯、徒に彷徨い歩き回ることが道なのだと思い込んだ。重い足を引き摺って、変わらぬ視界に途方に暮れて、路傍の石に気付きもせず、肯ぜられんと知れば、黙して去るばかり。何を得たか。何を見逃して、何を見捨てたか。
篩うは罪の有様。この口は何を発したか。何度、君を裂いたか。居心地の良い場所を探していた。それは人に許された当然の在り方だと信じていた。だが、俺の座った椅子には、元々、誰が座っていたのか。俺は押し退けやしなかったか、本当に必要とする人から奪いやしなかったか。俺はあるべくして、其処にいたのか。幾ら遡っても、見向きもしなかった光景など記憶には残ってはいない。
奮うは己の在り方。来し方行く末、到底望むべくもないその様を、どうか、もう君の視界に入らないように。己が惨状に、暗澹たる結末に、君が巻き込まれないように。最初から、此処は俺の為の舞台ではなく、そして、地獄でもなかった。だから、もう一つの道を選ぼう。君が明日を歩んで行けるように。あの大樹を忘れられるように。
嗚呼、世界なんて簡単なものだよ。足りない頭でも、理解に足りる。唯、足を止めて、振り返れば良い。其処に扉はある。上映はとっくに終わっているのだから、早く、退場しなくては。次の人が映画を見られるように。
歩みを進める。
視界が光に埋め尽くされて、思わず目を閉じた。ちりんという、涼しげな音が耳に入った。次に目を開けた時、俺は見知らぬ喫茶店にいた。
「此処は?」
「此処は私の店です」
後から出て来た梯さんが答える。
もしかして、上手く外へ出られなかったのかと心配になったが、どうやら上手くいったようだ。
決して広い訳ではないが、開放感のある店だった。穏やかな陽の光が差し込んで、柔らかな熱が空気を暖めている。
不意に良い香りが鼻腔を擽る。芳醇で深く、嗅ぎ慣れた匂いだ。懐かしい思い出が引っ張り上げられる心地がした。
匂いの元へと視線を巡らすと、ある机の上に二つのティーカップが並んでいた。湯気はもう出ていない。
喫茶店の珈琲だ。君と語り合った、あの午後にも飲んでいた。
カップの置かれた窓際の一席には、女性が一人座っていた。
眠っているのか、此方への反応はなく、顔を伏せられている。だが、その人物が誰かは瞬時に分かった。
「琉璃」
思わず、駆け寄りそうになって、直ぐにやめる。俺には、もうそんな資格はないのだ。
背後から梯さんが声を掛けて来る。
「眠ってらっしゃるだけですから、ご安心を。終わりましたし、もう直ぐ目を覚まされます。心を露わにするには、意識が邪魔してしまうので、眠って頂くのが一番なんです」
「聞きそびれていましたが、梯さんって、一体……」
「私は死神です。私の仕事としては、回収されていない伊東さんの魂の回収ですね。なので、私について来て頂けると有り難いのですが」
そう言って、梯さんはベルトに付いていた立方体を手に取った。不思議な空気感を纏ったオブジェだ。
いきなり、死神と言われて驚いたが、元々、浮世離れしているというか、あの奇妙な世界に慣れた様子で、只者ではあるまいとは思っていたので、そのワードはすんなりと飲み込むことが出来た。
「これは回収箱と呼ばれるものです。一旦、此方に入って頂いて、その後、あの世へと届けさせて貰います」
「嗚呼、そうなんですね」
急に自分が死んでいる事実が実感として湧いて来る。飲み込めなくて黙ってしまった俺に、梯さんは微笑みながらこう言った。
「……取り敢えず、珈琲でも飲みませんか?」
その提案に俺は頷く。
奥へと消える背中を見送った後、俺は振り返って、彼女を見た。
その寝顔は穏やかだ。だが、健康状態が悪いことは目で見て分かる。痩せた身体、化粧っ気のない痩けた頬、出会った頃とは様変わりした地味で雑な服装、多少持ち直したと思っていたが、また、前のような状態に戻りつつあるように見えた。
いつかのように、その頬を撫でたかった。その手を掴んで、夜を行きたいと思った。
だが、きっと俺が残り続ける方が悪い結果を引き寄せるのだ。
「許されないことをした。君に対して、とても、とても酷いことをした。ごめんなさい。ごめんなさい、本当に」
それ以上は言葉にならなくて、出来なくて、俺は黙る。
死人の言葉など、元より届く筈もない。それでも伝えたいと思うのは、罪悪感のせいなのだろうか。この口をついて出る言葉は、全て言い訳なのだろうか。嗚呼、愛していた。確かに、愛していたんだ。でも、とっくにそれは歪んでいて、落ちぶれていて、元の形だけが記憶の中で輝く。
「どうか、君をもっと大切にしてくれる人に出会えますように」
何も残さずに去ることが、きっと最良なのだろう。それでも、祈りを残してしまうのは、先を願ってしまうのは、きっと未練ではなくて、贖罪ではなくて、それは敬意なのかもしれない。
人の記憶が有限ならば、古い記憶は新しい記憶に押し出されて、いつかは思い出せなくなるだろう。その日が早く来ることを願う。俺のことなど、どうか忘れておくれ。痛みも悲しみも存在も全て忘れておくれよ。頼むから、何も残して行きたくないんだ。
俺が全部持って行けたら良いのに。最初から何もなかったかのように、真っ新な状態に戻せたなら。悔いることばかりで、俺の人生なんて何の価値もない。
それでも、煌めく瞬間があった。
一番の始まりの思い出。大学の授業でこそこそ話したあのひと時は、とても楽しかった。その後、映画見たことも、喫茶店で感想を言い合うことも、その一つ一つがとても大切な思い出だ。そうだ、俺は楽しかった。君との日々は楽しかった。でも、その日々を歪め、壊したのは俺だった。
穏やかな寝息を立てる彼女は、魘されている様子はない。
今になって、唯、其処にいてくれるだけで安心するだなんて、生きて其処にいてくれることが嬉しいと思うだなんて、俺はきっと、何処まで行っても自分本位な生き物なのだろう。呪われた、そして、他人を呪いながら、本当に大切なものに気付かない。そんな滑稽で傍迷惑な救いようのない人間なのだ。
上映はお終いだ。
幻のような夢を見た。いつかの幻想に触れた。目の前の現実を目の当たりにした。もう、これの感想を言い合うことは出来ない。
だが、それで良い。俺だけが分かってれば、これは良いんだ。
塵は片付けなくては。忘れ物もないように。次に映画を観る人が気持ち良く見られるように、細やかで当然のマナーを行使して、明るくなりつつある廊下を抜けて、ロビーへと向かう。パンフレットは売ってない。剰え、グッズなんてある筈もない。
映画の後は喫茶店がいつものルートだけど、今日は違う道を行く。同行人はいないからだ。
物語の外へと。
老いた来るべき日を迎えに行く。
加害者の俺に安住の地はないことは知っている。
かたんと微かな音がして、思い出と類似した香りが身を包む。梯さんが珈琲を持って戻って来たのだ。途端に、もっとと、まだと、強請る自分が出て来て、俺は慌てて口を塞いだ。
そして、机に置かれたままの奇妙な箱へと視線を落とした。
「行くためにはどうしたら良いですか?」
「この箱に触れるだけです」
灰色がかった瞳が真っ直ぐに俺を見た。何処までも見透かされるような、何処までも受け止めてくれるような、不思議な瞳だ。
「貴方がこれに入った後で、私が行くべき場所へと連れて行きます」
俺は梯さんの持つ、回収箱に触れる。
途端に自分の体が粒子のように解れて、光り出した。そして、するりと中へと収まった。
鼻に残るのは懐かしい香りだ。
全てが収まる直前、もう一度、未練がましく振り返った。
眠っていた彼女が、瞼を開けたような気がした。
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