第23話 眩眩

 眩眩くらくらと眩む部屋の中、落ちたのは目線が絡んで剥離した欠片だ。

 滑り込んで来た手の内の指を握れば、伝う体温に跳ねた脈が、気を遠のかせる。湿った夜は口を閉ざして、渇いた心根だけが伸ばす先にある不毛な優しさが燃え上がった。


 俺に何が出来たろう。分かって欲しかっただなんて言葉では誤魔化せない夜が更けて、月は薄れ、朝が空を焼く。焼けた香りには脂の匂いが混じっていた。

 陽が高くなるにつれ、窓の外が俄か賑やかになっていく。甲高い小鳥の囀りと髪を乱した彼女とのコントラストは、あからさまに合わないものであるのに、並ぶと不思議とそれらしく見えた。


 優しさが燃えていた。恭順は卒なく、浮かべた微笑みは無償のビジネスか、それとも、鎧だったのか。本心とは、その薄い身の何処に格納されているのか。仮面は剥離していく。俺のばかりがだ。俺は何も知らないままだった。知ったのは終わった後になってからだった。


 君が欲しかった。君の中にあるものを。

 何処にあるかも分からないから、君の全てを手に入れたかった。


 だが、君は燃えた。


 不意に事切れるように。不意に火の手が忍び寄るように。だが、そう見えたのは俺だけだったのだろう。きっと、随分と前からその予兆はあった筈なのだ。


 死体のような体と、消し炭のような心だけが残った。


 その細く薄い身体は絞り出すように燃えていた。俺の知らぬ間に、君はすっかり自分を燃やし切っていた。燃え尽きて、くたりと横たわるその身は、触れれば途端にほろほろと崩れそうで、それでも、生存を確認したくて、俺は手を伸ばした。


 震えながら伸ばして、漸く、腕を掴んだ。

 細いその腕に触れれば、掌が真っ黒に汚れた。温もりはまだある。手を離せば、力なく腕は落ちていく。物言わぬ君は、抵抗すらも出来なくなって、俺はおろおろと泣きながら戸惑うばかりで、結局、それが全てだった。

 俺達の関係とはつまりこのようなもので、幼くて、拙くて、救いがなかった。

 君は起き上がれなくなるくらいに無理をして、俺はそうなるまでそれに気付かない。馬鹿馬鹿しい。


「夜になるよ」


 そう言って、腕を引いた。そう言う時だけ、君は起き上がって、俺と目を合わせてくれる。大学一年生の頃の俺が夢見た状況だ。手を繋いで歩く。俺の手の内には、君のひんやりとした小さな手がある。ずっとその手を掴みたかった。

 なのに、どうして満たされないのだろう。


 剥がれた鎧と仮面、その奥にもまた仮面がある。何処までも君が見えない。その顔が何を訴えているのかが、俺には見えない。


 嫌なことを全部投げ出してしまえば、楽しいことだけが残るのだろうか。君を投げ出してしまえば、俺は楽しげにしていけるのだろうか。重くて、重くて、今にも潰れて死にそうなんだ。

 こんな日にくたばっちまったら、怒られちまうよ。どんなメロディだったろう。いつかの歌詞が言い聞かせて来る。そうだ、くたばるにはまだ早い。やりたいこと、やらなければならないこと、山積みで何処から手を付ければ良いかも分からない程だ。

 だが、生きるも死ぬも、君がそうなるより前から、俺は選び取ることが出来なくなっていて、オーダーが来るのを今かと待っている。情けないことに、一から十までマイロードのご命令で出来上がってんだ。我儘で傲慢で親切でお節介な女王は、自分の知らない出来事がお嫌いだから、出会ってからずっと、君の存在をひた隠した。二人きりになるために、目を盗む日々だった。


 毎日、食事すら一人で満足に取れなくなった君に会いに行く。こっそりと。けれど、確実に。そして、漸く訪れる、檻から抜け出せる千載一遇の機を逃さず、閉じ籠る君の腕を引いて夜の夢を行く。


 偶には遠出をして、天国のようなハイウェイで。逃避行気分に耽って、世界には君と俺だけがいるだなんて説いた。花咲き乱れるSAにはトラックばかりが停まっている。アスファルトには足跡が残らないから、着いて来られる心配もなかった。

 普段よりも空が広いから、何となく空を見上げてしまう。薄い夜空に皓々と照る遠い異界は、雲に紛れながら顔を出す。天国でも、月は変わらず空に浮かんでいるようだった。まるで、昔に戻ったみたいだ。

 それに目が眩んで、目を閉じることを忘れてしまっていたと気付いた。

 監視は常々、虎視眈々と、俺の真後ろに控えたまなこが口を開こうとしている。慌てて、俺はスマホの電源を切って、暗闇へと戻った。目を閉じてさえいれば、それらの監視網から免れることが出来たから、俺は連なる見覚えのある番号に目を瞑った。


 彼女を家に降ろして、俺は王国の敷地内へと戻って行く。罰は受けるかどうか。兎も角、彼女の存在だけは、知られてはならなかった。知られてはならなかったのに。


 目を開けて、上を見上げる。

 此処には月がない。薄暗い天井が空を閉ざす。

 果たして、俺は目を開けているのか、閉じているのか。


 瞬きを数回。


 背後の監視の気配は、此処にはない。此処では開いていても、閉じていても違いがないようだ。或いは、目を開けていると俺が思っているだけで、これは目を閉じて見ている夢なのかもしれない。


 開いた扉の向こうには、暗闇が広がっていた。

 先程まで薄暗くあったが、此方は完全な闇の中だ。道が何処にあるかは、背後からの頼りないライトが微弱に照らしている部分が当たって、道は左右に分たれていることが見えた。

 俺は怖気付いて、一歩足を下げた。


「先、進まないのですか?」


 いつの間にか背後に立っていたかけはしさんが、囁くように問い掛ける。


「だって、暗くて」

「では、また、此方でぐるぐるとしてみますか?」


 梯さんの言う通り、それも選択肢の一つだ。だが、体験した身としては、途方もなく徒労にも思える行為のように思えるのだ。


「進んでみます。何処に着くかは分かりませんが、壁を伝えば、元の場所には戻れる筈です」


 梯さんは本を閉じ、それを傍へと置いた。そして、落ち着いた声で訊いてきた。


「着いて行っても良いですか?」


 俺は一瞬、考えた。この状況は危なくないかと。人に会えてほっとしたのは事実ではあるが、この人がまだ何者なのか、俺にとって安全なのかまだ定かではない。

 もしかしたら、俺をこの空間に閉じ込めたのはこの人かもしれない。この先で、俺はデスゲームをやらされて、殺し合いをさせられるかもしれないし、怪物に襲われて、延々と逃げ惑うかもしれないし、改造人間にされて、世界を救わされるかもしれない。そして、ここぞという場面で梯さんが裏切って、恐ろしい危機に瀕するかもしれない。更に言えば、それらは梯さんが主催の催しで、殿上人のような人々が、参加者の無様さを笑うのが目的かもしれない。

 流石にそれは映画の見過ぎだが、とは言え、心細いのは事実だ。お供してくれるのは正直、有り難い。

 しかし、先程の会話では、多少打ち解けたとは言え、警戒は怠らない方が良いだろう。何かするならしてみろと、底意地の悪い思惑を腹の中に抱えながら、俺は「是非」と答えて、扉の中へと足を踏み入れた。


 俺のやけに響く足音の後をついて、微かな足音が聞こえた。希薄な音だった。


 扉の先には直ぐ目の前に壁があり、左右のどちらかにしか進めない。中は真っ暗闇で、左右を見ても、上下を見ても、大して違いなどなかった。


「どちらの方が良いですかね?」

「うーん、分からないなら、どちらでも良いんじゃないんでしょうか」


 答えになってるような、なっていないような回答が返って来る。


「行ってみなければ、分かりませんよ」


 朗らかに言うから、それ以上は詰められなかった。


「そう言えば、クラピカが、人は迷った時には、無意識に左を選ぶって言ってましたね」

「だから、右を選んだんでしたよね。じゃあ、俺は逆に左で」


 俺は壁に手をつきながら、左の道を時計回りで歩いてみることにした。


 暫く、歩いて行くと、ふわりと足元に微弱に明かりが定間隔に灯った。道の先までは照らさないが、自分の靴くらいはうっすらと見える。それだけでも、有り難かった。


 数歩歩くと、後ろから数歩が聞こえてくる。また、数歩、そうして、また数歩。耳を澄ませば、小さな衣擦れも鼓膜が捉える。それは宛のない闇路においては、心強い追従だった。


 俺は急に申し訳なさを感じた。この人は何も悪いことをしていないし、こんなにも俺の心を支えてくれているのに、先程まで俺は疑って掛かっていた。何かするつもりというのなら、この暗闇に乗じてしまえは簡単だろう。しないということは、そういうことなのだ。


 振り返ると、俺の直感は全く使えない。優しそうな雰囲気であったし、やっぱり、良い人なのだろう。ささくれかけた心を宥めていると、急に大きな音がして、心臓が大きく跳ねた。


「貴方を待っていました」


 音は女性の声だった。驚いた俺は、思わず、身を縮こませる。


「何処かにスピーカーがあるみたいですね。大丈夫ですか? 驚きましたね」


 後ろの闇の中から梯さんが声を掛けてくる。それに少し平静を取り戻す。

 梯さんの言う通り、先程の声は何処かざらついていて、機械を通した音質の声だった。遠慮のないボリュームに驚き過ぎて、どの方向から聞こえて来たかなどの細かい所は分からなかったが、何処かにスピーカーがあるのは確実なようだった。


「待っていた、って言っていましたよね。俺達が此処に来たからでしょうか」

「そうかもしれません」

「誰かがいるってことですよね」

「そうかもしれませんね」

「……」


 俺が思考の言葉を選んでいると、背後から袖をくいっと軽く引っ張られた。振り向くが何も見えなかった。自分の手の指先すらも見えないのだ。四角く明るい、先程入った入口も、もう見えなくなっている。


「あ、えっと」

「大丈夫ですか?」

「その……」

「もし、戻っても、ぐるぐるするだけですけど。どうしましょうか」

「か、梯さんは、どうしたらいいと思いますか」


 救いを求めるような気持ちで、いそうな方向に目を向ける。

 梯さんは小さく「ふむ」と言った後、少し笑いながら、「どちらでも良いですよ」と答えた。


「私にとっては、どちらも変わりませんから。戻って、本の続きを読んで新しいことを知るのも、初めて行く道を通って新しいことを知るのも同じです」

「そ、それじゃ、困ります」

「じゃあ、伊東いとうさんはどうされたいですか? 延々と回り続けるか、何が待っているか分からないけど、前に進み続けるか。どちらが良いですか?」


 怯えた心が、逃げ出したいと叫んでいる。しかし、戻った先にあるものは、とっくに分かっている。彼処には何もない。不毛な巡回をするだけだ。

 ならば、消去法で前に進む他にない。そう頭は答えを出すが、怯懦な心が足を鉛の様に固まらせる。


 誰かに指示を出して貰いたい。でも、それはもう嫌なんだと拒絶もしたい。自分の中の何処に自分の意志があるかが分からない。心の声は怯えるばかりだ。


 俺は周りを見渡す。


 此処は何なのだろう。回廊が層になっているのだろうか。バウムクーヘンみたいなイメージだ。

 先程は外側から内側へと入っている。ならば、この層で行き着く先があるなら、それは更なる内側だ。繰り返した所で、辿り着くのは中心点だろう。外ではない。

 ならば、こうして回り続けて何の意味があろうか。


 だが、気にならないと言えば、嘘になる。この回廊そのものへの疑問、簡単に先に進めないギミック、それらを乗り越えた先にあるものは、どのようなものなのだろう。イメージで言うなら、宝箱でも置いてありそうだ。それこそが、脱出のキーアイテムという可能性だってある。


 動機は何だって良いだろう。後ろには進まないと決めた。それなのに機械的に前に進めないのなら、幻想だとしてもお宝を夢見て、前に進む原動力にさせてしまった方が、個人的には精神衛生上良い。なかったらなかったで、一時、落ち込むだけで、前にも後にも行けないと、うじうじ悩むよりはましだ。


 自分の尻を叩き、俺は右足を一歩、前へと置いた。かつんと踵が鳴った。


「進みます。俺は此処から出たいし、この先にあるものに、興味が出て来たんです」

「分かりました。ついて行きましょう」


 また、俺が何歩歩くと、後ろから数歩分の足音が聞こえてくる。行程の頼りは左手の冷たく硬い感触。心の頼りは後ろの細やかで小さな足音。自然と耳を欹てながら、俺は歩き続けた。

 足元にライトがあるにしても、暗闇は圧倒的な迄に回廊を塗り潰す。漆黒ばかり見ていると、自分の身体が意識から離れて行ってしまうような気がして、時折、自分で握ったり、触れたりして、それらが未だに自分の身体と繋がっていることを確かめる。

 知らない内に身体を失ってないかと、奇妙な心配が止まらない。


 そうしながら、前に進んでいると、足音のリズムが崩れていることに気付いた。

 俺が数歩進んで、後ろも数歩進む。それは良い。だが、後ろの更に後ろから、数歩進む音が聞こえて来る気がするのだ。

 もしかしたら、梯さんの歩幅が小さく、俺の後ろにつくまでに必要な歩数が俺よりも多く必要なのかもしれない。だが、もし、そうであるとするならば、足音の音が突然、ヒールの様な硬い音になるのは、奇妙なことだ。

 単純に考えれば、三人目の存在が思い付く。

 此処で現れる三人目とは、どのようなものなのか。二人目の梯さんは平凡そうな人であるが、こうして、まるで悪戯のように後をつけて来る人物は、何が狙いだろう。態々、この暗闇は全てを覆い隠してくれるもいうのに、特徴的な音を響かせて、闊歩する理由は何だろう。此方に害意はないと見て良いのだろうか。


「今の気分はどうかしら?」


 スピーカーがまた話し出した。

 俺は無視した。それよりも、悩まなくてはならないことがある。俺は振り返った。

 暗闇にも目が慣れたのか、何となく其処に誰かいるかは分かるようになっていた。直ぐ後ろにいるのは、梯さんだろう。


「どうされました?」


 立ち止まり、振り返る俺に、気配を察して、足を止めた梯さんから当然の疑問が投げられる。


「足音が、多いような気がして」

「嗚呼、女性ですよね」


 どうやら、梯さんも気付いていたようだ。


「まだ、此処までは来ていませんが、近くにいますね。私達が歩くと、彼女も歩くようです。ほら、立ち止まっている今は、足音が聞こえないでしょう」


 梯さんの言う通り、歩くのを止めた途端に、しんと耳に刺さる程の静寂に包まれた。まるで、闇が音も食べてしまったみたいだ。


「確認しに行きますか?」

「……いや、その」

「危害が加えられる可能性もありますし、私達と同じように迷った人の可能性もあります」


 もし、迷っていたのなら、まずは声を掛けるものだろう。だが、そうしないということは、迷っていないか、俺達を警戒して観察している最中ってことなのだろう。

 なら、何もしないと分かれば、アクションがあるだろう。


「今は、無視しよう。何をするにしても、この暗闇だし、距離が離れているなら、どうしようもないでしょう。もし、もっと近付いて来たら、もう一度、話し合いましょう」


 その言葉に梯さんは了承したらしく、再び、俺の後ろへとついた。僅かな人の放つ熱気が、肌に触れた気がした。


 自分の決断に不安を覚えながら、俺はまた闇路を歩き始めた。





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