第32話 克克
それは耳元で彼女を否定する言葉を吐くが、それ以外の被害はないのだと言う。現れるのは、主に彼女が一人の時で、誰かと会話をしている時に現れることはなく、その姿は見えず、唯、声だけが聞こえて来る。
霊の被害の規模としては、比較的小さいものだろう。だが、それは悪霊の被害全体と比べたもので、本人にとっては、自分の生活を圧迫させる重大な問題であることに変わりない。例え、他人と比べて矮小化に成功しても、其処にあるものがなくなる訳ではない。
それに、呪いの言葉は馬鹿に出来ない。一つ一つが小さくても、積もり重なれば、心を押し潰すに足る重さとなる。だから、日がなそんな環境に置かれれば、精神的に参ってしまうのも当然だ。
日向さんには元々、精神に不調があり、改善の傾向が出て来た頃に、突如として恋人が亡くなり、そして、間もなくして幽霊が現れ、このような状況になったので、負荷が掛かり過ぎて、外出することも一人では難しい状態に陥ったようだ。そのため、一人暮らしの部屋を出て、ご両親の元に戻って療養をし、徐々に体調は良くなっているとのことだ。
回復が見られる最近になって、薬や療養ではどうにもならない心霊現象に対して対処すべきだと考えたのだそうだ。そして、解決の糸口を模索していた最中に、偶々、
晝間は彼女が昔、バイトをしていた本屋の常連だったのだそうで、その時に連絡先を渡したのだそうだ。彼曰く、ナンパ目的ではなく、自分のお客さんになるかもしれないと見込んでのやり取りだったそうだが、其方の方の実りはなく、代わりに相談の連絡が来たという訳だ。
晝間の職業は人形師だ。
観賞用のドール職人ではなく、魔術的要素を持った人形の作成をしている。例えば、代わりに簡単な家事をしてくれる自立人形、例えば、生贄の代わりになってくれる身代わり人形などだ。
私も偶に行く、
人形は人を模ったものという要素から、人間の代わりになるという使い方がよくされているのだそうだ。だが、中には、死んだ人を人形という形で蘇らせたいという依頼も来るのだそうだ。
蘇らせるのは無理だが、それでも、まるで生きた人間のような精巧な人形を彼は作ってみせる。それを見て、空いた心の慰めとなることもあるのではないかと思わせる技術を彼は持つ。
私もアトリエを見たことがあるが、まるで、今にも動き出してしまいそうな、生々しさがその人形達にはあった。あまりに精巧なものには魂が宿ると言う。その言葉を信じてしまいそうな程、それは生きている人間に限りなく近い存在だった。
彼がかつて語った夢は、「いつか完全な人形を作りたい」だった。
生きた人間と変わらず活動し、心を持ち、魂を宿し、そして、何より美しいものを作りたいと。
私は彼の目指す先が如何様かは分からない。人間を作りたいとは違うとのことだが、人形とは物言わぬものではないかと思うので、彼の言う所の完全な人形というものが分からない。分かるのは、それはある種の狂気に近いものであるということ、そして、その類い稀なる才を発揮する場が、彼には整っているということだ。
恐らく、日向さんに連絡先を渡したのは、言葉通りの未来のお客さんとしてではなく、勿論、ナンパ目的でもなく、彼は、彼女がいつか人形の素材になってくれるのを期待して、繋がりを持ち続けようとしたのだろう。より人に近い人形を作ろうとするのならば、人間を素材に作る方が近付ける。しかし、そんなものは易々とは手に入らない。だから、臓器提供のように、死後、その死体を提供してくれないかと呼び掛けるのだ。日向さんは可憐で、ほっそりとしている。私には判断基準が分からないが、素材として良い、という評価が彼の中でおりているのだろう。正直、犯罪ではないかと思うが、不思議なことに、今の所は前科は一つも付いていないのだそうだ。
そういった繋がりで、日向さんは晝間に相談し、特に幽霊に対する知識も技術も持ち合わせていない晝間は、私の元へと訪れた、という訳だった。
「聞こえるようになったのは、一年前です。彼が亡くなって、一ヶ月くらいだったかな。リビングにいたら、台所の方から声がしたんです」
ハーブティーを口に運び、日向さんは乾いた唇を湿らせる。
「何と言っていたのですか?」
「いえ、その時は聞き取れなくて。声が聞こえ始めた頃は、とても声が小さくて、聞こえても何を言っているのか分からなかったんです。でも、
そう言って、日向さんは頬を緩めた。
どうやら、仲の良い恋人だったようだ。そんな人が突然帰らぬ人となったことは、彼女にどれだけの痛みを与えたのか。想像するしかないが、彼女の出立ちからで多少見えて来る。
きっと、此処に来るのも、決意が必要だったことだろう。同伴者がいるにしても、晝間は其処まで仲が良い訳ではない男性だろうし、連れて行かれる先も知らない場所だ。そもそも、何気なく行っているが、外に出るというのはとてもエネルギーと勇気が必要な行動だ。暫く、外出していないとなれば、尚更ハードルも上がっていたことだろう。
「言葉として聞き取れるようになってきたのは、それから半年が経ったくらいかな。自分は駄目だとか、自分を苛む言葉が多かった。その、彼は元々否定的な言葉が多い人だったから、聞こえて来る言葉が少しネガティブでも懐かしさとか嬉しさが優っちゃって、聞いてて全然問題なかったんです。いつかみたいに、そうじゃないよって返してあげたりして。でも」
日向さんの顔に影が掛かる。陽の傾きが進んでいるようだ。
「でも、いつからか、言葉の矛先が私へと移って行ったんです。それからは、私の行動の一つ一つを否定するようになりました。箸を手に取るだけのことでも、行儀が悪いとか、音を立てるなとか、ちくちくと刺して来る」
「だから、今はもう、何をするのも間違えているように思えて、何も出来なくなったと」
「はい」
私は彼女の背後へと目を向ける。当然、其処には誰もいない。
「あのさ、元々彼はネガティブだって言ってたけど、そのネガティブ度合いは大丈夫なやつだったの?
晝間の問い掛けに、日向さんは少しバツの悪い表情を浮かべる。
「それは……」
「否定されてきたの?」
声色は軽やかだが、晝間の眼差しは真剣だった。
その視線に気圧されたのか、嘘を吐きたくなかったのか、日向さんが小さく頷く。
「時々、なんですけど。自分の意見が絶対正しいって思っちゃうみたいで、私の意見を否定してくるんです」
「それが出て来ると、君はどう思うの?」
「悲しいし、やめて欲しいけど、言い返そうとすると、また、それ以上の否定の言葉が来るんだろうなと思うから、仕方なく自分の意見を引っ込めて、相手の意見が正しいって言うの」
それは一つの処世術かもしれないが、長い時間を共にする恋人に対して行い続けるのは、心理的負荷が大きそうだ。自分を知って欲しいと思っても、相手が突っぱねてしまうから、黙るしかない。
唯、唯々諾々と、別に納得もしていない相手の意見を、飲み込む。そんな日々の中で、彼女はいつ、自分でいられるのだろうか。いつ、その押し殺した心を解放させてやれるのだろう。
先程迄は仲睦まじい二人と思っていたが、どうやら問題もあったようだ。
「瑠璃ちゃんは、その彼氏さんのことを今でも好きなの?」
「……あい、していると、思っています」
「君の存在を否定するのに? 今の話を聞いただけだけど、正直、彼氏にするのはどうかなと思うよ」
「……そうですね。うん、きっと酷い人だった。私よりも自分を尊重していた……。それでも、一緒にいて楽しかった時間が沢山あったんです。手放したくない思い出があるんです」
そう言って、日向さんは俯いて、小さな手をぎゅっと握った。それはまるで大切なものを取り上げられないように、体を強張らせているようだった。
それを見て、晝間は小さく息を吐いた。
「そっか。それは大事だよね」
晝間は質問をやめて、共感の言葉を紡いだ。
「どんなに周りがやめろって言っても、辛いことばかりでも、ほんの僅かでも夢のように楽しい時間があれば耐えられたりするんだよね。限界は誰にもあるから、加減が難しいんだけど、うん、好きなら仕方ないね」
曖昧に笑う彼に、彼女はこくんと頷いた。
晝間の妻は、彼と出会う前に、既に亡くなっている。
冥婚なのだ。死者との婚姻の風習は様々な地域でも見られるが、彼の場合は台湾に旅行中に赤い封筒を拾い、好奇心から引き受けたものの、棺の中の彼女と対面し、その死体の美しさに恋をした。そして、彼は口寄せというやり方で、死後の彼女と言葉を交わした。結果、気が合い、深く愛し合うようになったのだ。
歪な出会いと恋の落ち方は、周りの人からすれば危うげで、止めなければならないと思わせたが、当の本人の彼は実に満ち足りていていた。真心は最早、彼女一人だけに捧げられていた。
それは愚か者の選択かもしれない。永遠にこの世へ戻れない存在へ心を捧げるなど、何の甲斐もないと。だが、彼にとって、初めて見た時のときめきも、初めて言葉を交わした時の愛おしさも、今でも途絶えずに続き、胸に熱を灯すものだった。
だから、彼は今でも死体の彼女と共に暮らしている。夥しいハードルを超え、壁を登ったり、回り込んだりして、楽しい思い出を作ろうとしている。
だから、日向さんの思い出があると嫌いになれないという話が理解出来るのだろう。
愛おしさがあるから、どんなに苦難と遭っても、どんなに問題があっても、守りたいと思うし、大切にしたいと思う。彼にしては稀有な酷く純な部分だ。
「それで、うん、そんで」
助けを求める視線と私の視線が絡まる。
ウインクもされた。
私は軽く咳払いをした。
「どんどん幽霊の存在が強くなっていて、日向さんが矛先になっていると。対処としては、その彼氏さんの幽霊の回収になるかと。ご本人が亡くなられているなら、再度発生することもないでしょう」
「消したら、もう声も聞こえなくなりますか」
「そうなります」
私の返答を聞いて、日向さんは眉を寄せた。
恐らく、彼女の元に訪れる幽霊は、自分を苛むものであると同時に、懐かしい思い出もくれる愛おしい存在なのだ。二度と聞けないと思っていた声だ。手放し難く思ってもおかしくはない。
更に、回収するということは、完全に自分の前からなくなるということだ。それは、まるでもう一度の死を与えるかのようで、更に言えば、それを依頼するということは、自分で相手を殺すように思えて、躊躇われるのも分かる。
とはいえ、死神の私にとって、これは回収しなければならないものだ。
申し訳ないが、彼女が拒否をしても、後からこっそりでも何でも動く必要がある。
日向さんは難しい顔のまま黙ってしまった。
どうするべきか考えているのだろう。
「決断に時間が掛かるようでしたら、先に出現の条件の探究や出現している所を観察したいのですが」
「あ、すいません。私、優柔不断で」
「構いませんよ。一番大事なのは、貴方の気持ちです。それはそれとして、私も仕事をしなければなりませんので、行動はしますが、それについては多少の融通は利くものですから」
そう伝えると、日向さんは少しほっとしたような顔をして、「それでお願いします」と小さく呟いた。
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