第 9 話 振り絞る通学
気が付けば家にいた。
あれから、どうやって家に帰って来たのか覚えていない。あの質問に頭が真っ白になって、走って逃げ出したのか、それとも、何かを答えてから去ったのかも定かではない。
逃げ出したのなら、きっと逃げ切れていない。私達は何からも逃げられない。逃げ場所なんてないからだ。
閉め忘れたカーテンからは、朝の眩し過ぎる光が暗い室内に落ちている。窓に飾ってある、いつかの図工の授業に作った造花の影が、私が丸まるベッドの方まで伸びていた。白いイメージを持ったその光に、何となく忌避感を覚えて、私はベッドから抜け出すと、カーテンを閉めた。
小学生の頃に強請って買って貰ったスモーキーピンクのカーテンは、遮光性が低くて、閉めても光が透けて見える。それでも、ないよりは良いと、隙間が開かないようにしっかりと閉めた。
唯の小さな抵抗だ。眩し過ぎる光が受け入れられなかった、型から溢れた落ちこぼれの何の意味もない反抗心だ。
正しい道を歩むことが、人として正しいことなのだろう。多くの人はそうやって生きていて、この社会はこうして成り立っているのだと、だから、お前もそのように生きなければならないと、暗に教師達は語る。
その道は光に溢れている。一点の汚れも認めないような、影さえも照らし、追い出すようなそんな光だ。
では、道から外れた者はどうすれば良い。影を抱いた者はどうすれば良いのか。諭されて、説かれて、励まされて、それでも、いくら頑張っても道筋通りに歩めなかったらどうすれば良い。
光に照らされて、私の胸の影は濃くなっていく。影に肺が押し潰されるようで、息苦しくなっていく。
眩い光の中はとても苦しい。
でも、ずっと輪郭の見えない暗闇の中にいるのも嫌だ。私を見て欲しい。私を見付けて、手を差し伸ばして欲しい。
それは、過ぎた望みではあるけれど。
今日も悔楽堂に行こう。
彼処なら苦しまずにいられる。あの優しい光の中でなら、私は思う存分、呼吸が出来る。
自室を出て、階段を降りる。
そのまま外に出ようとして、後ろ髪を引かれた。
こっそりと忍び足で廊下を渡り、ガラス戸越しにリビングを覗き見る。テレビもついていない部屋は静かだ。それに反して物は散らかっていて騒がしかった。
その中で人の啜り泣く声が聞こえる。鼻を啜り、痙攣からの嗚咽が混じる、不快な音だ。
声の主は分かっている。母だ。この時間では、父は既に出勤しているし、妹も学校だ。
母は泣き虫だった。何かあると直ぐに泣いた。嬉しいことも悲しいことも、怒っている時も楽しい時も、感情が昂ると涙が溢れてしまうようだった。
叱られている時もその調子であるので、私は自分がしたこと以上の罪悪感を植え付けられて、更に、大き過ぎる感情をぶつけられて疲弊した。お決まりの台詞があって、彼女は「何でお母さんを悲しませるの」といつも言った。私は彼女の言葉が分からなかった。何に悲しむのか、察してあげられなかった。
でも、母が泣いていれば、私は話を聞かなければならなかった。傍にいてあげるのも、味方になってあげるのも、全部私の役目だった。不平不満を投げつけられて、八つ当たりをされて、まるで私の心を無視する母のことが私は大嫌いだった。でも、同時に必要としていた。私に依存する彼女と同じように、私を必要としてくれる人を私は求めていたのだろう。
とは言え、八つ当たりをされるのは嫌だから、母の望む言葉を探した。母の望む行動を探した。泣き止むように、責められないように、優しく、傷付けない言葉を探していた。
そうしている内に、私は私の言葉を見失った。どう生きていけば良いのか分からなくなった。どうしようもなくて、母の望むお人形になって、彼女の望む通りの人生を歩むことになった。
でも、それも失敗したのだ。
私は母が指定した高校に入れなかった。入学出来たのは滑り止めの学校で、その時から、母は私を見捨てた。不出来な玩具を捨てるように、私は家の何処にも居場所がなくなった。
父は救ってくれない。何も言わず、此方も見ず、泣いている母も無視している。きっと、彼も私に幻滅したのだろう。高学歴な父からすれば、この程度の学校にも入学出来ないのかと、呆れているのだろう。
出来の良い妹がいて良かった。生贄にするようで可哀想だけれど、私が失敗しても、まだ彼女がいる。私はもうなかったものとされるだろうけど、両親の楽しみはまだ残っている。
じゃあ、母は何故泣いているのだろう。
ここ毎日、ずっと泣いている。私が学校をさぼっているからだろうか。それなら、お説教の一つや二つ、始まっていよう。それもなく、唯、じめじめと泣いているのは、いつもと違う気がした。
もしかしたら、妹が何かした可能性も無きにしも非ずだが、両親の期待に完璧に応える、あの優等生が問題行動をするとは思えない。
気にはなる。だが、同時にどうでも良さもある。
結局の所、私が彼女を慰める必要なんて、もうない。もう、関係ないのだ。
私は扉から離れて、玄関へと向かう。
履き慣れた革靴に足を入れながら、玄関扉を開けて、外へと出る。
今日もやけに眩しい空が、私を照らし出す。目がちかちかとして、一瞬くらりと目眩がした。
不思議とお腹は空かないもので、一瞬、ふらつきはしたが、体は元気な方だと思う。調子が悪い感じはしない。寧ろ、ふわふわとしている。
だが、脳にケースでも被せたみたいに思考は鈍く、五感も鈍感だ。難しいことが考えられない。目の前にあるものをぼーっと眺めているくらいが丁度良い。
世界と一枚壁を隔てているみたいだ。私だけが壁の向こう側にいて、誰の目にも映らない。音だけが聞こえて来る。
思い付きが頭を過ぎった。
それを試すのも悪くないと思った。
何故、そう思ったのかは分からないが、ここ数日の穏やかな時間が後押ししてくれているように思えた。
踵を返して、逆方向へ向かう。
東側にあるのは学校だ。もう何日も行っていない。それだけで、通学路に対して、随分と他人行儀な態度を取ってしまう。既に一限は始まっているから、周りに学生の姿はなく、制服姿の自分は浮いていた。
人も疎な駅へ辿り着くと、鞄の外側のポケットに入れた通学用定期で改札を通り過ぎる。
定期入れには、前に彼女と行った遊園地のチケットが差し込まれている。定期に印字された情報を隠すためだ。
小さな駅は高架にあり、私は階段を登ってホームに出ると、いつもの位置に立った。此処から乗り込むと、降車駅の階段傍に降りることが出来るのだ。どうやらこの習慣は忘れずにいられた。
間もなくやって来た列車に乗り込み、ぼーっと中吊りの下世話な広告を眺めていれば、あっという間に目的駅に辿り着く。
降りた途端に雑多な匂いがした。人と物の溢れる匂いだ。
まるで新入生のような慣れない足運びで、ホームへ降りる。そして、周囲の人の流れに合わせて歩き出す。
少し、皮膚の表面がぴりっとする。これは緊張だろうかと考えながら、いつかと同じ道を辿って、私は学校へと向かった。
近付くにつれて、足が重くなった。気も重かった。
踵を返して、悔楽堂へ逃げ込めたならどれだけ良かったろう。でも、このままで居続けることは出来ないから、いつかは前に進まなくてはならない。昨日に戻れないなら、今日を凌いで、明日に生きなければならないと、現実が突き付けてくる。
ほんの少しだけ、いつもより少しだけ勇気を振り絞れる今日なら、立ち向かえる気がした。
丁度、授業の合間の休み時間だったらしく、校舎の中はざわざわと賑やかで落ち着きがなかった。人の目を掻い潜るように、縮こまって、背中を丸めて、床を見ながら教室を目指す。
何か悪いことをしているような気分だった。
開いていた教室後ろの扉から中に入ると、彼方此方でお喋りの花が咲き乱れていた。快活に、密やかに、楽しげに、でも、その全てが私を笑っているようにも聞こえた。
私はちらりと窓際の後方の席へ視線を向けた。机には何も置かれていないし、何も掛けられていない。
見回すが探していた人影はない。彼女は休みのようだ。
諦めて窓際前方の自分の席へ向かうと、それが目に入った。
花瓶だ。
白い陶器の花瓶。其処には百合の花が生けられていた。
瞬時に意味は理解した。
ハウリングのような耳鳴りがする。自分の下手くそな呼吸音だけが、やけにクリアに煩く聞こえる。急速に脈拍はスピードを上げ、痛いくらいの振動が耳まで響いた。
視界の端から暗くなるような、ちかちかと星が瞬くような。手足から血の気が抜けて、私は立ち尽くす。
そして、声は波のように押し寄せる。
「宿題やった?」「昨日、お母さんがさ」「やってないわ、やば」「お前ん家の犬、元気?」「アイス食べたい」「元気だわ」「そういえば、あの花瓶って」「カレー味のアイスがあるらしいよ」「いつまで飾っておくの? 面倒臭いんだけど」「可哀想」「美味しくなさそう」「動かしたら委員長が怒るでしょ」「あんたのお母さん、何でいつも事件起こしてんの?」「もう学校来られないでしょ」「マジ、ないんだけど」「来られたらやばくない?」
誰かの笑い声が聞こえた。
誰かが笑いながら此方を見た。
チャイムが鳴り響く。
それは幻覚か幻聴だったろうか。私の被害妄想が見せた、都合の良いリアクションなのか。
でも、花瓶は確かに目の前にある。
「ほらー! チャイム鳴ってるよ。席着いて」
がらりと音を立てて、現文の三枝先生が前から入って来る。
だらけた返事をしながら、周囲の人達は各々の席へと帰って行く。目配せしながら此方を見て、尚も話をする者もいた。
スカートの裾を握り締める。爪が僅かに太腿に食い込んだ。それでも、締め付けられる胸の痛みは誤魔化せない。
私はどうしたらいいか分からなくて、縋るように「先生」と呟いた。心を鎮める何かを期待しながら、言葉を待った。
三枝先生は私の机の上のそれを一瞬見ると、ふいと顔を背けて、黒板に評論文と書いた。
「昨日の続きからやるよ」
「あの」
「四十五頁開いて」
返答はない。
窓から吹き込んだ風が、カーテンを翻す。其処に隠れた貴女の姿ももうない。
此処に私の居場所はもうない。
水の音が聞こえた気がした。
居た堪れなくなって、私は駆け出した。
開けっ放しの後ろの扉から教室を飛び出して、廊下を駆けて一直線に外を目指す。閉塞感のある校舎は何処か薄暗く、それでいて窓から差し込む光は眩しくて、目がちかちかとする。
誰も呼び止めない。誰も私を認識しない。そうだ、私は此処にいない。貴女がいたから、私は此処にいられた。なら、貴女がいなくなったら、此処にいられる訳もなかった。
単純な話だ。分かりきった最後だ。
現実はいつだって、私の勇気を打ち壊すためにやって来る。
そういう機械のように足は動き続け、脈を抑えるように呼吸は忍ばれる。真っ白な頭の中では、モノローグのようにふつりふつりと思考が浮かんでは掻き消えた。
吐き気だけが、私の存在を証明する。
そして、気が付いたら、私は悔楽堂の前にいた。
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