第52話 覆水盆に返らず

「おーい、自転車直ったよ」


 庭の方から彼の声が聞こえてきた。


「あら、できたようね」


「はい」


 ここに来た目的は終わった。立ち上がると、夕飯を食べて帰らないかと訊ねられたが、丁重にお断りしておいた。


 お遣いを頼まれているし、流石に樹くんと一緒にご飯を食べるのは、精神的に疲れてしまう。


 彼女は優しい表情を作っていたが、残念そうにしていた。


 お茶とクッキーの入れ物を片付けようとしたら、「いいわよ、置いておいて」と止められる。


 リビングを後にする。玄関で靴を履き、扉を開けようとすると、樹くんのお母さんから言われた。


「優菜ちゃんは嫌かもしれないけど、また気が向いたらいつでも来てくれたら嬉しいわ」


 わたしが樹くんと一緒にいたくないのは、理解しているのだろう。そう前置いて言ってくれる。優しいなと思った。


「はい、また来ます」


 素直に、厚意を受け取る形で返す。実際来るかはわからないけど、また来たいという気持ちはあった。


 外に出ると、樹くんが直した自転車の隣に立って待っていた。


 手を黒い油で汚したまま、二の腕で汗を拭っている。


「一応これで帰れるはず、タイヤもだいぶ擦り減っているから、折を見てサイクルショップに行った方がいいよ」


「ありがとう、助かったよ」


 自転車に跨る。ちゃんとペダルを踏んでいる感触がある。大丈夫そうだ。


「あー、疲れた」とこぼす樹くんに、「そうだ」と思い出したことを口にした。


「どうして、樹くんは浮気したの?」


 彼は少し顔をしかめた。今さら追及されるとは思わなかったらしい。


「樹くんのお母さんから聞いたけど、わたしと別れたとき泣いてたんだよね。どうして泣くくらい悲しむのに、そんなことをしたのかなって」


 少し渋るような表情を見せたが、彼は答えてくれた。


「寂しかったって言ったでしょ?」


「確か、そうだね。でもそれ嘘でしょ。三人も手を出しておいて。それなら一人で十分だもん」


「うーん、嘘……ではないかな。実際寂しかったし。ただ、ぐいぐいアプローチされるから、ダメだと思ってたけど一回きりと決めて、内緒でデートしたら思いのほか楽しくて。その子が良いなと思ったわけではないんだよ。でも満たされてしまって、それでタガが外れちゃったかな。どうせバレないとも思ってたから、色んな女の子に手を出してみたっけ。本当に馬鹿だったよ」


「最低だね」


「結局、キミにフラれるまでやめられなかった。間違いなくキミが一番好きで、他の子は遊びだったんだけどね」


「……嘘くさいなぁ」


「これに関しては本当だよ。まあ、何言っても信じてもらえないとは思うけど。反省してあれ以降誰かと付き合っても一途を貫いてるよ」


「彼女いるの?」


「今はいないよ。できても続かないかな。本気で好きになれる人がなかなかいなくて。優菜以上に好きになれた人はいないかな」


「うわぁ、口説かれてる」


「否定はしない。正直、未練バリバリにあるから」


 予想だにしない返答をされて眉を上げた。


「ねえ、優菜。付き合ってくれとは言わないよ。良かったら、また一緒にご飯でも行かない? またキミと関わりたい」


 それは将来的に付き合ってくれと言っているようなもんじゃないのか。即座に首を横に振った。


「ごめんね、もうわたしは樹くんのことをそんな風に見られないよ。それに──」


「それに?」


 今誰かと付き合ったら、多分また彼と一緒にゲームをすることができなくなってしまうだろうから。


 ここで言う彼は樹くんではなく、硲くんだ。


 わたしが過去に彼と付き合って、明確に変化したことが一点ある。それは硲くんとの縁が切れてしまったこと。


 わたしが一方的に繋がりを切ってしまった。偶然が重なって、今再び遊べるようになったのに、もうこの関係を壊したくはなかった。


 でも、よくよく考えたらわたしが何もしなくたって、彼に彼女ができたら今のような心地よい関係は終わってしまう。


 彼にはすごくお世話になっている。趣味の無いわたしにそれを作るきっかけを与えてくれた。日々の楽しみをくれた。


 雛ちゃんを説得した時だって、わたし一人ではどうにもできなかった。雛ちゃんを説得したのは、ほぼほぼ彼だ。本当に頼れる人だと思う。


 彼の幸せを祈りたいけど、もし彼女ができたらと考えると素直に喜べない。


 数年ぶりに再会した彼は、かっこよくなっていたな。元々クールだったけど、年相応に落ち着いていて、一緒にいて安心感がある。


 出会いが無いと言っていたって、彼女ができる可能性はあるだろう。


 わたしだって、それを魅力的に感じたわけだし。


 魅力的に……感じた?


 胸の中がムズムズする。電車の中の不慮の事故。壁ドンされたなぁ。顔が近づいた。お日様みたいな暖かい良い匂いがした。ペアルックなんて恥ずかしいことをしても、全然嫌じゃなかった。


 雛ちゃんに付き合っているって聞かれたとき、何も思わなかった。


 実際友達だし、友達だと思っているからこそ、恋愛関係に発展する可能性も捨てていた。


 だから、彼と付き合うなんて想像できなかったのだけど。


 ちゃんと考えてみよう。


 彼と手を繋げる? もちろん。


 ハグはできる? ……嫌じゃないな。


 キスは──。


「どうしたの?」


 考え込んでしまっていた。ハッとして、首を横に振る。


「なんでもないよ」


「何でもないって。そんな意味深に間を空けて、何かあるでしょ。彼氏いるの?」


 そう訊ねてくる彼。返答に迷う。


「彼氏はいないけど──」


 なんて言えばいいのかな。でも多分そうなんだろうな。よくわからない。頭が回らない。こんな気持ちになったのは久しぶり過ぎて、自分自身についていけない。


 でも──できちゃうし、彼が望むならしてもいいとすら思ってしまったからそうなんだろうな。


「好きな人なら、いるかも」


 声に出してみて、硲くんへの気持ちを理解した。

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