第8話 確かな記憶力

「どうしてここに」


 綿岡の問いに、「いや、それはこっちのセリフ。なんでここに」と質問で返す。


 本当になんでここにいるんだよ。幻覚か?


 近頃、彼女のことを思い返す機会は何度かあった。未だに昔の失恋を拗らせていたせいか、頭がおかしくなってしまったのかもしれない。


「だって、わたしの家。ここだし」


 彼女が指さすのは、四〇四号室。


「嘘だろ、俺の家、そこなんだけど」


 その隣の四〇五号室を指すと、


「え、どういうこと? 本当にどういうこと?」


 と同じ言葉を二度繰り返した。俺同様に困惑している様子だった。


「どういうことも何も、だから俺の家」


「え、ええ。嘘、びっくり」


 まさか隣に住んでいる人が知り合いだったなんてとぼそりと呟く綿岡。それもこっちのセリフだった。


 しかもよりにもよって相手が彼女だとは。


 俺の思い出の中で最も印象深い記憶のある人間の一人である彼女。その相手が今まで隣に住んでいたなんて。


 どうやら脳みそは正常らしい。妄想しすぎで焼きが回ったのかと勘違いした。


「あ、はい。ごめんなさい。こっちの話です。はい、それで大丈夫です。よろしくお願いします」


 そういえば、綿岡は電話の続きだった。彼女もそれを忘れていたようで、慌てた様子で応対する。


 その後、すぐ通話は終了し、耳元に当てていたスマホを離してため息を吐いた。


「どうした?」


 流石に目の前でため息を吐かれると気になる。他人の電話に聞き耳を立てるのと、これではわけが違うのでセーフ。


 訊ねると、彼女は困ったように眉尻を下げ、


「その、家の鍵を落としちゃったみたいで」と言った。


「それは災難だな」


 うちのマンションは建物に入るのにカードキーが必要で、自分の部屋には別にシリンダータイプの鍵が割り当てられている。


 彼女はシリンダータイプの方を落としてしまったらしい。


「職場まで戻ってみたんだけど見つからなくて、管理人さんに電話していたの。マスターキーで開錠してもらおうと思って」


 職場と聞くと自然と何のバイトをしているのだろうかと連想したが、彼女は社会人だった。


 俺と違って働いている。偉い。ぬるま湯に浸かりきった大学生の俺とは違う。


「でも、今留守にしてるみたい。だからしばらく外で待ってないと。……はぁ、せっかく仕事早く終わったのに。勘弁してほしいよ」


 自分がしたことだけどねと彼女は自嘲気味に愚痴をこぼした。


「管理人さん、戻ってくるんだろ? いつ頃になりそう?」


「あと一時間はかかるみたい」


「おー、それはまた」


 苦笑してしまった。早く家に帰りたいときに家の鍵が無くて入れないときの絶望感は酷い。


 肉体だけでなく精神を蝕んでくる。俺も何度か経験したからわかる。


 彼女も仕事終わりなら疲れているだろう。その状況で家に入れないのは可哀そうすぎる。


「……よかったら、俺の部屋で待ってるか?」


「いいの?」


「あぁ、一時間程度なら全然。偶然再会したんだし、よかったら思い出話でもして待ってようぜ」


「本当? それならお言葉に甘えようかな」


 断じて、下心で部屋に招くのではない。流石に放置できないから、提案しただけだ。彼女も承諾してくれた。


「鍵開けるわ」


 先導して、自分の部屋の扉の鍵を開錠する。まさか偶然再会しただけでなく、部屋に招くことになるとは。


 部屋の中、散らかしていないよな。ティッシュのゴミも捨てたよな。


 少し不安だったが、室内はそれなりに綺麗だったし、ティッシュのゴミも無かった。よかった。


「お邪魔します」


 適当に座ってくれと彼女に言って、冷蔵庫を開けて二人分の飲み物を用意する。麦茶でいいか。


 茶菓子あったっけ。戸棚を開けるとスルメと柿ピーしかなかった。以前、恭平と小寺とうちで宅飲みしたときのやつだ。これは女の子には出せない。


 諦めて麦茶だけを運んだ。卓上に置くと、「ありがとう」と言われたので、短く「あぁ」と言葉を返す。


 彼女はカーペットの上に直に座っていたので、座椅子を使ってくれと差し出す。


 二つあるんだから遠慮なく使ってくれていい。来客が来たとき用に買ってあるんだからな。


「久しぶりだね、雰囲気変わった?」


「そうか? 自分ではわからんけど。綿岡こそ、あれだな。大人っぽくなった」


「ふふ、ありがとう」


 でた”ふふ”。久しぶりに聞いたけど、正直いいな。


 彼女の癖なのか、口元を抑えて小さく微笑むのだけど、それがまたグッとくる。大人っぽくなったけど、こういったところは変わっていないようだ。


「硲くんはなんでここに住んでるの?」


 座椅子に座り直し、小さな口にゆっくりと麦茶を運んだ綿岡はそう訊ねてきた。


「大学に通うためかな。わかる? 西川工業大学なんだけど、キャンパスがすぐ近くの山の上にあるんだ」


「わかるよ、西川工業かぁ。そういえば硲くん頭良かったもんね。ということは、今三年生?」


「そんな感じ、別に頭はよくねーよ」


「いいよ、昔テスト前に勉強教えてもらったことあったよね。懐かしいな」


 うちの大学は理系の中では並みくらいの学力の大学だろう。そんなに優れているわけではないが、そういえば綿岡の頭が良かった記憶はない。


 定期テストの成績は平均以下だったはずだ。よく覚えているだろ? 拗らせているからな。我ながら気持ち悪い。


 


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