第51話 元カレの母親

 ──で、再会したのがそれ以来になるわけだけど。


 流石に二年も経過すれば、過去のこととして割り切ることができる。


 わたしからの彼に対する評価は地を這っているけど、力を借りられるくらいには落ち着いていた。


 これが別れたばかりであれば、家とサイクルショップの距離が二時間でも退散する。


 足が棒になってマメができるのも、甘んじて受け入れていただろう。


 かつて好きだった恋人に対して、嫌悪の感情が薄れてしまっているのは、良いことなのか悪いことなのかわからない。


 ただ時間が経ったなぁ。と、漠然と思った。


「少し待ってて。工具箱を取ってくるから」


 彼の家の前までやってくると、そう言って樹くんは一人、家の中に入っていった。


 ここで待っていたら、彼のご両親と遭遇しそうで怖い。


 彼のお父さんと面識はないが、お母さんとはある。


 付き合っていた当時、とてもよくしてもらった。綺麗で面倒見の良く優しい、理想的な母だったように思う。


 彼の家の庭は、たくさんの花が植えられ、石畳が敷かれて道が舗装されている。


 これは全て彼のお母さんがやったものだ。趣味らしい。昔、何度か家で育てたお花をもらったっけ。


 彼と酷い別れ方をして、唯一の心残りは彼のお母さんに何も言わずに別れてしまったことだ。


 わたしが悪いことをしたわけじゃないのに、申し訳なく感じる。


 樹くんが彼のお母さんにわたしのことを悪く言っているかもしれないから会いたくないけど、一言謝りたい気持ちはあった。


 突然消えてしまうのは、彼に非があるから仕方ない。でも、お母さんは関係ないから。


「──あら、あなた……優菜ちゃん? 優菜ちゃんよね!?」


 噂をすれば影が差す。


 家の前で自転車と共に樹くんが戻るのを待っていると、道路の方から彼のお母さんが歩いてきた。


「樹くんのお母さん……」


「久しぶりね。やーもう、すごく可愛くなって。大人の女性になったわねえ」


 彼女はわたしを見るや否や駆け寄ってきた。上から下までわたしを観察すると、両手を取って握ってきた。


 その手にはエコバッグが握られている。中に牛乳が見えた。買い物帰りなのだろうか。


「元気だった? どうしましょ、会えると思ってなかった。話したいことがやまほどあるわ」


「えっと……えっと……」


 どう接していいかわからない。今彼のお母さんがわたしのことをどう思っているか、息子と別れたのだから、おそらく良くは思っていないだろう。


 内心冷や汗が止まらなかった。


「とりあえず、どうしてうちの前にいるのかしら?」


 事情を説明すると、彼女は腑に落ちたように「そういうことね」と呟いた。


「あの子、そういうの得意だからやらせておけばいいわ」


 その時、家の中から工具箱を持ってきた樹くんが帰ってきた。


「……げ、母さん。今日美容院行くって言ってなかった?」


「美容院は明後日よ。今お盆で空いてないもの。それよりも、早く優菜ちゃんの自転車を直してあげなさい。こんなに暑いのに、外で待たせて」


 瞳を細めて口角を歪ませる彼。とっても嫌そうだ。


「優菜ちゃん、上がって待ってなさい。お茶とお菓子を用意するわ」


「そんな、おかまいなく」


 遠慮したが、強引な彼女に強く出ることもできず、自転車を樹くんに任せて家に上がり込んでしまった。


 リビングに通される。涼しい。内装はそこまでしっかりと覚えているわけじゃないけど、変わりない。


 大きなコーナーソファに命じられるがままに着席すると、彼女は花の香りのするお茶と、クッキーを持ってきてくれた。


「嬉しいわ。また優菜ちゃんと会えて。元気にしてたかしら? 今は大学生?」


「いえ、その……働いています」


「そっか、短大生になるって言っていたものね。もう社会人よね。偉いわ。うちの子は大学生なんだけど、最近は単位を落としがちみたいで。髪の毛も染めて……似合ってないでしょ? あの金髪」


「それは……」


 躊躇ためらいがちに首を縦に振ると、彼女は笑った。釣られてわたしも小さく頬を緩めた。


 和やかな空気。今しかない。彼女に向けて頭を下げた。


「樹くんのお母さん、ごめんなさい。何も言わずに別れてしまって。すごく良くしていただいたのに」


「どうしてあなたが謝るの? 悪いのはすべてあの子でしょう?」


 びっくりして顔を上げる。上品な手つきでコップを手に取り、お茶を口に含む彼女。


「あなたと別れた理由を聞いて、初めて息子の頬を張ったわ。こちらこそ、樹が本当にごめんなさいね。ずっと謝りたかったの。浮気なんてされて、酷く傷ついたでしょう?」


 頭を下げられたので、慌てて制止を促した。


 それよりも、驚いた。彼が本当のことをお母さんに話しているとは思わなかったから。


「樹が大学生になる少し前だったかな。あの子が泣きながら家に帰ってきたからどうしたのと心配して訊ねたら、優菜ちゃんと別れたって。最初はわたしも同情して悲しい気持ちになったけど、掘れば掘るほどそれが自身の息子に対する苛立ちに変わっていったのよね。自業自得じゃないの。あなたが悲しむ資格はないわって」


 吐き捨てるように言った樹くんのお母さんは、いつくしむような笑みをこちらに向けた。


「ずっと心配だったの、こうして元気にしている姿が見られて嬉しいわ」


 彼女のその言葉に、どこか憑き物が落ちたような気がした。


「わたしも、樹くんのお母さんがお元気そうで嬉しいです」


 その後、談笑しながらお茶とクッキーをいただいた。


 リビングは笑みに満ちていたが、会話をするさなか、ずっと頭の隅にひっかかっていることがあった。


 どうして、樹くんは──。

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