第58話 あの夏から続く道
鏡の前で髭の剃り残しを確認する。問題なし。
昼間のうちに美容院に行ってきたから髪型も問題なし。
眉毛も今朝整えた。これも問題なし。
服装は、肘を覆うほどの袖の長さのシンプルな
──よし。
ショルダーバッグの中に財布と鍵、スマホを入れて、玄関の扉を開く。
「行くか」
向かう先は近所の河川敷。俺が散歩で訪れる場所から、もう少し北上したあたりに向かう。
今日は俺たちの住む近くの川で、夏祭りが行われる。
公式ホームページで見た情報だが、百を超える屋台が立ち並び、対岸から花火が打ち上げられるようだ。
夏の祭りに参加するなんていつぶりだろう。
綿岡を誘おうとしたのは高二、それ以降は苦しい過去を思い出したくなくて行かなかったから、それより前から行ってないことになる。
普段交通量の少ない道路のはずが、人の行き交いが多い。浴衣や甚平を身にまとった人々もたくさんいた。
祭りの会場に向かう人の群れから抜け出して、近くのコンビニへと向かう。そこが待ち合わせ場所だ。
約束の時刻は午後七時、今はスマホで時間を確認すると六時四十二分。早く到着しすぎてしまいそうだ。
綿岡はまだ来ていないだろう。そう思ってコンビニの前で待っていようと考えていたが、いざ到着すると既に彼女はそこにいた。
綿岡はこちらに気づくと、胸の前で小さく手を振り、澄んだ笑みを見せた。
「硲くん、早いね」
「綿岡こそ、てかそれよりも」
今日の彼女は、普段と違った。
髪を編み込んで後ろにまとめており、清涼感たっぷりな淡い水色の浴衣を薄い桃色の帯でしめて身にまとっている。
手には金魚がプリントされた
「浴衣、すごくいいな。似合ってる」
「本当? この浴衣ね、お気に入りなの。去年可愛くて衝動買いしちゃったんだけど、着る機会が無くて。硲くんが誘ってくれて初めて着れたよ、ありがとう」
ふふと微笑む綿岡。いつも手で口元を隠す彼女のしぐさが、
いや、破壊力やっば。口角が上がりそうになるのを必死に耐える。
多分顔がキモイので、代わりに俺が口元を手で隠した。
「硲くん、髪切ったの?」
「あぁ、昼に切ってきた。綿岡も?」
「うん、さっき行ってきたの。せっかくだから、髪もセットしてもらおうと思って。どうかな」
くるりと後ろを向いて髪型を見せてくる綿岡。
「すごく可愛いと思う」
諸手を挙げて拍手を送りたいところだが、だいぶ控えめな表現で我慢した。可愛すぎる。
「ありがとう、硲くんもかっこいいよ」
彼女は満足げに瞳を細めた。
#
「夏祭り?」
俺の誘いに首を傾げた綿岡は「唐突だね」と返す。
「次の土曜、すぐそこの川で開催されるだろ? 一緒に行きたくてさ。良かったらどうだ?」
「わたしと二人で?」
「あぁ、花火を見ようぜ」
なんでわたし? 他の友達と行かないの?
そんな返答が来るんじゃないかと考えた。また断られる可能性も脳裏によぎった。
この一瞬で、心拍数が跳ね上がる。
だがそんな俺の不安を振り払うかのように、綿岡は喜色溢れる顔でこう言った。
「いいの? 嬉しい。一緒に行こう? 楽しみにしてるね」
予定があると言われたら、じゃあ別の夏祭りに一緒に行こうと提案する気だった。
咄嗟に彼女の言葉の予測を立てて返事を練ったが、好意的な返事が返ってきて、良かったと心中で安堵する。
──で、そこからこの綿岡の浴衣姿に繋がっているのだが。
今、俺はあの夏から続く道を歩いている。
恋敗れた高校二年の夏に行く予定だった夏祭りとは別のイベントだけど、屋台は出て花火は上がる。
感慨深いなと思った。
あの夏、俺が誘った時点で綿岡は橋川と付き合ってしまっていた。
この誘いを受けたとき、もし彼女に恋人ができていたら拒否されたはず。
なら今彼女に恋人はいないし、橋川ともよりを戻すといった話はでなかったのだろうか。
真相はわからない。せっかくだし今訊ねようかと思ったが、鼻歌混じりに浴衣下駄を楽しむようにして歩く彼女の気分を害したくなくて、後にすることにした。
ご機嫌な時に元カレの話はしたくないだろう。俺もせっかく彼女と夏祭りに来ることができた。
まずは、今この瞬間を楽しもうかな。
人の群れに合流した俺たちは、祭りの会場に向けて歩いていく。
「花火が上がるのって何時だっけ?」
「八時十五分だったはず」
「それまで時間があるね」
「屋台を巡っていたらすぐに時間は経つだろ」
「そうだね」
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