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 部長が教えてくれたことによると、あたしの情報がインターネットの匿名掲示板に上がっているらしい。カフェ「ピンクセトラ」でかつてのAV女優サチエが働いてるという内容の書き込みが写真付きで定期的に上がるのだという。ありがたいことに部長が削除申請を出してくれて、そのたびに消されるようなのだが、また書き込みが行われるといういたちごっこの様相を呈しているようだ。だから元カレにも部長にもこの場所が分かったのか。気をつけろ、と部長は言ってくれて、もし場所を替えるなら資金援助をしてもいい、という申し出までしてくれたのだけれど、あたしはうれしかった。あたしがAVに出ていたとき、あたしを観てくれているひとなんてほとんどいないと思っていた。動画がネット上から消された今になっても、ちゃんとあたしの後を追いかけてくれて、執拗に書き込みを続けてくれる。それはストーカーかもしれないけれど、あたしにとってそれは、ファンとも等しいように思えた。それと、元カレはあたしがAV女優だったと知ったうえで、この場所に来てくれて、ヨリを戻そうと言ってくれたことになる。そのこともうれしかった。あれから元カレがカフェに来てくれることはなかったけれど、もし来てくれたら、ちゃんとカレーを食べさせてあげて、おいしいチャイを飲ませてあげたいと思った。そして、ヨリは戻せないけれど、ちゃんと振ってあげたいと思った。あたしは彼にたいしてまだ誠意を示せていない。付き合っていたとき、ずっとそうであったように。そのことが心残りだった。

 部長の懸念のとおり、それからしばらく、AV女優としてのあたしを求めてピンクセトラにやってくる人が増えた。ただ部長の懸念とは違って、危ないひとはひとりもいなかった。みんなちょっと後ろ暗そうな表情ではあったけれど、あたしを傷つけようとする人はひとりもいなくて、みんな丁寧に言葉を選びながら、あたしのAVは良かったと教えてくれた。男もいたし、女もいた。おじさんもいたし、女子高生もいたし、ホストも、青年起業家も、すごいたくさんのひとがあたしのAVを観てくれてたんだって知った。それと、元カレといっしょに東中野の物件を内見したとき、案内してくれた販売のお姉さんも来てくれた。あのとき、あたしは彼女が怖くて仕方なかったのだけれど、いまになって彼女がちゃんとあたしのAVを愛してくれていたのだと知った。彼女は当時よりずっと垢抜けていて、表情も明るく、いまは働くかたわらちょっとした写真モデルのバイトをしており、ゆくゆくはモデル一本で食べていきたいのだという。「変われたのはサチエさんのAVを観たおかげ」と言ってくれて、すごくうれしかった。あたしにはたくさんのファンがいた。彼女もそうだけれど、部長も、元カレも、和尚も、銀貨さんも、たくさんのひとがあたしを愛してくれて、それであたしはいまここにいる。そして部長が言ったように、あたしはもう、愛されるためにセックスをしなくてもいい。そのことがなによりうれしかった。

 その日もたくさんのお客さんをさばいて、夜明けに片付けをしていると、気分がひどく悪くなった。さいきん、あんまり体調がよくなかった。熱っぽいし、眠いし、頭が痛かったり、匂いのきついものが食べられなかったりする。風邪だろうな、ぐらいに思ってほっておいたのだが、この日の吐き気はひどかった。トイレに駆け込んで嘔吐したが、なかなか気分がよくならない。明日はライブが入ってるので、早く寝なくてはいけない。あたしはスマホを取り出し、電話をかけた。あたしに十字架をくれたキャシーは薬剤師をしており、なにかあればすぐに薬を回してくれる。法律上大丈夫なのか、心配にはなるけれど、近所の医者と不倫関係にあるらしく、そのへんはうまくすり抜けているようだ。いかにも高円寺らしい女の子で、あたしのいちばんの友だちでもあった。

「おっす、サチコ。どうしたー?」

 ほんの数コールでキャシーは電話に出た。彼女はいったいいつ寝ているのか、だいたいいつ電話をかけても出てくれるので、助かるといえば助かるけど、心配になる。不眠の気があるというのは聞いていた。

「あのさあ、気分わるくて、いま吐いてさ。なんか頭も痛いし、熱っぽいし、さくっと調子よくなる薬、持ってきてくんないかな。明日ライブなんだよね。今度カレーおごるからさ」

 あたしがトイレの床に座り膝を抱えたまま言うと、電話の向こうでどっと笑う声がした。

「サチコ、いつもカレーじゃん。なんか、カレーが通貨みたいだよね。インド人かよって思っちゃう。薬っていっても、ちゃんと効くやつ飲まないとダメだからさ。すぐ持っていくから、ちゃんと症状言ってみ?」

 キャシーは薬でも飲んでキマってるのか、やたらハイテンションで、でもやさしい口調で言った。彼女の薬の飲み方はだいぶ怪しいが、扱い方は信用している。体調が悪くても、彼女の薬を飲むだけでよくなったことは何度もある。彼女に会ってからあたしは病院に行ったことがない。あんまり彼女の人生のことは知らないし、訊いてはダメだと思うけれど、ちゃんと教育を受けてしっかり知識と技術を身につけた優秀な薬剤師なんだってことは分かる。

 あたしが最近の体調を説明すると、キャシーはときおりあいづちを返しながら真摯に話を聴いてくれた。ちゃんとメモを取っているのか、電話の向こうでパソコンのキーボードを叩くような音も聞こえた。彼女はアマチュアのライターでもあり、いつも小さなパソコンを持ち歩いている。いつかセイコの音楽記事を書きたいのだと、底抜けに楽観的な彼女らしい、まるで未来を疑っていない明るい口調で言った。あたしたちはセイコ好きという点でもつながっていたわけだ。セイコがメジャーデビューしたらうちの店でその音源を流す非公式リリースパーティーを開く予定で、彼女は最近、その仕切りも進めてくれている。

「それさー……」

 あたしの説明をひとしきり聞き終えると、キャシーはいやに湿っぽい、いわくありげな声で呟いたあと、しばらく押し黙った。スマホを持ち替えるような音が向こうからした。

「妊娠じゃね? 生理来てる?」

 キャシーの言った言葉がいっしゅん分からなかった。数秒か、あるいは数十秒遅れてようやく意味を理解すると、心臓がばくばく唸り始めた。血流で体中が熱くなり、心なしか、下腹部がいちばん熱いような気がした。ここにいるよ、と。

「いや、生理来てないけど、もともと生理不順だし……」

 あたしは乾いた声でようやくそれだけを言い返し、そのさきは何も言えなかった。最後にセックスをしたのはいつだったのか、そのときにゴムはしていたのか、思い出そうとしても思い出せなかった。すくなくとも最近、ピルは飲んでいなかった。そして、ここ一ヶ月でも何人かとセックスはしていたし、ゴムをしないことはあった。最初にセックスをしてから八年間。一度も妊娠しなかったのだから、大丈夫だと思っていたのだ。

「とりあえず、妊娠検査薬と、ポカリと、あとよさげな薬いくつか見繕っていくから、そこで待ってな」

 その言葉とともに電話は切れた。

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