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それからあたしは一年ぐらい無量大数で住み込みのバイトをした。和尚はあれからあたしを抱くことはなくて、やさしくて、きづかってくれて、あの時間が嘘みたいだった。だからあたしはいつまでも和尚を許せないままだった。無量大数のとなりに和尚の住む部屋があって、夜はそこで和尚と並んで寝た。いつもひどく寝付きが悪く、悪夢を見て目覚めることが何度もあった。いつもそれはあたしが出産する夢だった。元気な子どもが産まれるだけの夢なのに、あたしはそれが怖くて仕方なかった。布団のなかで目を開けたまま天井を見つめ、いくつもの夜を過ごした。となりからは和尚の寝息とかいびきが聞こえた。殺してやるんだって考えたことは何度もあった。でも、あたしは和尚の子どもを妊娠するかもしれないから、そうなったらぜったい責任を取らせたかったから、そうしなかった。生理が来たら絶対殺してやろうって心に決めていた。でも、一年のうちにあたしに生理は来なかった。いっぽう、妊娠検査薬は陰性を表示し続けた。なんだかあたしの身体が壊れたかのようだった。幻聴とか幻覚があらわれることも増えた。和尚が薬を分けてくれて、それでどうにか日々を生き繋ぐことができた。
「ねえ、サチコちゃん。そろそろ無量大数を離れてもいいころあいじゃない?」
ライブが終わった朝、カレーの皿を洗っていると、和尚にそう声をかけられた。あたしはびっくりして皿を取り落とし、一枚を割ってしまった。
「あ、ごめんなさい」
あたしがその皿を片づけようとすると、和尚が、
「いいからいいから」
と言って、てきぱきと皿を新聞紙にくるみ、ゴミ箱へ放り込んだ。それから和尚はあたしの手を引き、椅子に座らせた。泡だらけのあたしの手が和尚のロンパースに触れてしまい恐縮した。
「ええと、無量大数追い出されたら、あたし、行くとこないんですけど」
あたしはぽつりぽつりとようやくそれだけを口にした。別に無量大数で働きたかったわけではないし、ここも、和尚も、こんなところにいるあたしも、大嫌いだった。ただほんとうに、行くところがなかっただけだ。上京してしばらくお世話になっていたAV会社はどこに行ったのか分からないし、まともな仕事ができるような精神状態でもなかった。それに、新宿の上底と下底を体感したあたしは、もう新宿でやりたいこともやれることもなかった。かといって新宿を離れることもためらわれた。高円寺にいれば、中央線にのれば、いつでも新宿にいける、そう思うだけで、あたしは日々を生き延びることができた。毎日死にたいと思っていて、毎日が戦いだった。今日のことしか考えられない、そんな日々のなかで、無量大数はたったひとつのよすがだった。ひどく屈辱的なことに。
「あたしの古い友だちでね、高円寺でカフェをやってる人がいるんだけど、その人がもうだいぶ年で、店を続けられなくなってるの。で、継いでくれる人を探してて、誰かいい人いない?って訊かれててね。すごい偏屈な人だし、人間嫌いだし、あたしも誰かを紹介するのは気が向かなかったんだけど、サチコちゃんならいいかなって、あなたの仕事ぶりを見てて、そう思うようになった。これは褒めてるのよ。あたしはあなたをすごく信頼してる。きっとカフェのオーナーの人も気に入ってくれるはずだって。いい物件よ。最近リノベーションしたばっかりで造りもしっかりしてるし、厨房でたいていのものは作れるし、お客さんは最初からついてるし、いうことなし。それに、カフェの上の階に住むこともできるの」
あたしはよく定まらない頭でそれを聞いた。カフェのことも、信頼という言葉も、あたしにはよく分からなかった。ただ、「そこに住むことができる」点だけは魅力的だった。あたしはこのままでは壊れてしまうと思った。あたしは和尚が悪いことをしたとは思っていない。この界隈にはよくあるただの流れじゃないか。そんなセックスぐらいでいまさら傷ついたりしない。あたしの心はもっとずっと前から傷ついていて、それを結局癒やす機会は与えられないまま、すこしずつたしかに軋みながら、ようやくここまでを生きてきた。それがちょっと限界を超えそうなだけだ。いったいなにがあたしを追い詰めているのか、それは分からなかったが、住む場所を変えるというのはこれまでやってきたとおり、いいアイデアだと思った。東京に来て、ネットカフェに住んでAVに出演し、高円寺のアパートに住んで一流企業の会社員として働き、無量大数に住んで料理を作り、住む場所を変えるごとにあたしは人生を変え、ゲームでコンティニューコインを入れるみたいに命を延長させてきた。逃げた、っていわれたら、そのとおりかもしれない。あたしは裏社会からも表社会からも逃げたし、たぶん、無量大数からも逃げる。でも、そのたびに必死だった。あたしはあたしの命の価値を誰よりも分かってる。だからこの人生の舵取りはあたしだけが行う。他の誰でもない。
「ええと、そのカフェで働こうと思ったら、どうしたらいいんですか?」
あたしがおずおずそう尋ねると、和尚はおかしそうに笑い、
「働くんじゃなくって、あなたのお店なのよ。あたしが話を通しといてあげるから、この住所に挨拶にいきなさい。面接というほどのものでもないと思うけど。くれぐれも自然体でね。あなたらしく。カフェのオーナーはあなたと同じで人間嫌いだから、きっと大丈夫よ。でも、お店を持っても、ときどきは会いにきてね。さびしいから」
と言って、お店のものと思われる名刺を手渡してくれた。和尚が言った「人間嫌い」という言葉がしばらく頭に残った。あたしほど「人間好き」なひとはいないと思うのだが。でも、それが和尚にとっての、あたしの印象だったのだろう。だとすれば、それはあたしが和尚を嫌いなだけだ。ごめんね、でも、ありがとう。
別れ際、和尚とハグをすると、おなかがぎゅっと痛くなった。トイレを借りると、久しぶりの生理が来ていた。まるで和尚を許すかのように。あたしは彼を殺せないままだった。
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