5
名刺とあちこちに貼られた住所を見比べながら高円寺の町を歩いた。あたしが新宿に来たときもポケットティッシュ片手にこうして町を歩いたと思うと、なつかしかった。あのとき、あたしが入ったのはAVの撮影所で、あたしはそのままやられちゃったわけだった。今日もおなじようにカフェのオーナーに犯されるかもしれない。べつにそれでいい。和尚に抱かれて思い出した。セックスになんか、性病と妊娠以外の意味はない。ゴムをつけてさえいれば、それはとても退屈な日常的行為だ。セックスしたってなにも減らないし、なにも変わらない。あたしのプライドも、自尊心も。だからあたしはセックスをすることなんてぜんぜん平気だけれど、でも、嫌という気持ちはけっして消えない。あたしは最初からこれまでにしたすべてのセックスが嫌いだった。一流企業に勤めていた彼氏とセックスをしたときは、変われるかと思っていた。実際に、たぶん変わった。でも、和尚に抱かれた瞬間、あたしはかんたんに戻ってしまった。変わるのにはすごい長い時間を要したのに、戻るのはたった一夜、あるいはほんの一時間か三十分か三分だった。いまはあの彼氏としたセックスすら、思い出すと吐き気をもよおすぐらい嫌いになった。愛したかもしれないことを馬鹿だと思ったし、恥じた。
高円寺の繁華街の中心あたり、大きな交差点の一角にその店はあった。あたしは最初、高円寺の町外れを探していたので、ずいぶん時間がかかってしまった。めちゃくちゃいい立地じゃないか。とくに夜は人通りが絶えない、高円寺での一等地だ。
店構えは意外ときれいだった。そういえばリフォーム仕立てだって和尚が言ってたのを思い出した。たしかにこのお店を手放すのは忍びないかもしれない。ただ、店全体がどぎつい紫色に塗られていたので、センスがないなあ、と感じてしまった。もしこのお店を引き継ぐなら、まずは色を塗り替えないといけない。あたしは店を持つ覚悟も度胸もなにもなかったにも関わらず、いやなにもなかったからこそ、かるい調子でそう思った。お店を持つということがどういうことなのか、あたしにはかいもく見当がつかない。ただ住む場所が欲しかっただけだ。だからもしこのお店を継ぐことができても、カフェ営業はそこそこに、コンビニかなにかのバイトをメインにして暮らすかもしれない。そのぐらいのいいかげんな気持ちで、あたしはそのお店、「汚点紫」の扉をあけた。
「ごめんくださあい」
ガラガラと引き戸を開けてあたしは声をかけた。部屋のなかは薄暗い。オーナーの体調は悪いと聞いていたので、たぶんお休み中なんだろう。ひろい土間にはうっすらと埃が溜まっており、ガスとか水道の請求書だか領収書だかも散らかっている。セメントが紫色に色づけされた土間には古い三輪の自転車が止まっていた。自転車の後部には意味もなく練馬のナンバープレートがかたむいて接着されている。ほか、灯油のストーブとダイソンの扇風機が並んでいたり、壁と天井一面に畳が貼ってあったり、大量に並んだ空き瓶のうえに「高円寺ビンビン商社」と汚い手書きでかかれていたり、高円寺らしい異様さとはまた違う、なんだかおかしな空間だった。でも、なんとなくだけれど、このお店があんまり嫌いではないかもしれないと思った。なんとなくだけれど、センスが似ている。このお店は紫で、あたしはピンクが好きだけれど、それ以外の多くがあたしと似てる。おくのほうから気持ちのいいお香のにおいが漂ってきた。あたしは玄関に腰をおろし、しばらくそのにおいを楽しんだ。奥には長細い畳の間があって、ぽつぽつと古びたちゃぶ台が置かれている。そこがお客さんのくつろぐ場所だろうと思われた。
みし、と上の階から音がひびいた。和尚に聞いた話では、たしかカフェの二階は住居だったはずだ。オーナーが住んでるのだろうか。あたしがしばらく天井を見上げていると、断続的に、みし、という音が移動し、やがて階段を降りているような足音に変わった。ここからは死角になっている壁の向こうがどうやら階段らしい。
紫色のワンピースを着たやせぎすの老婆がのそりと現われた。ひとめ見てカフェのオーナーだと分かった。名刺によれば、名前は銀貨というらしい。あたしは勝手に男性だと思い込んでいたのだが、どうやらひどく年老いた女性らしい。少なくともおそわれる心配はなさそうでほっとした。
「あんたが、サチコかね」
銀貨さんの黄ばんだ三白眼があたしを睨み、はっきりしない、しかし威圧感のある声で言った。
「はい、ええと、無量大数の和尚に紹介してもらって、来ました。サチコといいます」
あたしはあわてて立ち上がり、背筋をのばし、直角におじぎをしながら言った。あたしは他人に臆することがあまりないのだが、どうしてかこの老婆は怖かった。
「奥に、座りなさい」
銀貨さんはそう言うと、ふい、とそっぽを向き、厨房とおもわれる場所へ消えた。あたしは靴を脱いで玄関に上がったあと、正座をしてきっちり靴を揃え、いちばん奥にあるちゃぶ台に向かった。ちゃぶ台を挟んで座布団がふたつあったので、下座のほうを選んで座った。あたりをみわたすと、いまどき珍しいブラウン管のテレビが場所を取っている。いっぽうオーディオコンポは新しく、iPodとかの接続もできるタイプだった。入ってきてすぐに思ったことなのだけれど、この場所は新しいものと古いものが混在している。それ以外の、対極にあるものが混在している。そのミックスがこの異様な空間を作っている。紫色はたぶん、それを象徴する色なのだ。赤と青がただしく混じり合った色。死ぬことと、生きることが混じり合った色。銀貨さんは、処女か、売女なのではないか。そんなことを思った。彼女とあたしは似ているから、よく分かる。あたしも彼女と同じように、ちがうものが混じってできている。
正座をして待っていると、銀貨さんがまるいお盆にやきもののカップをふたつ載せて現われた。ふるえる手でカップを掴み、しかし丁寧な手つきであたしの正面に置いてくれる。カップの底が立派な木でできたちゃぶ台の表面を叩く音が気持ちよく響いた。銀貨さんは自分のぶんと思われるカップを手元に置き、お盆を壁にあずけ、あたしの正面にあぐらを組んだ。
銀貨さんはなにも言わないまま、目線だけでそのカップを示す。飲め、という仕草だと思われた。
あたしは目線をカップに落とした。ちょっと茶色がかった、きれいなクリーム色の液体だった。ミルクティーだろうか? あたしはカップを両手で持ち上げ、口をはしにつけて、慎重にカップを傾けた。
「あ、すごい。おいしい」
それを飲んだしゅんかん、感想がしぜんに口から飛び出した。なにかおいしいものを食べたり飲んだりして、お世辞とか社交辞令みたいに感想を述べることはあっても、こんなふうに率直に「おいしい」という言葉を口にしたことはなかった。
「このカフェを継ぐんやったら、このチャイの秘伝のレシピを教えてやってもいい」
銀貨さんは偉そうに、ちょっとうれしそうに、うすい胸をわずかに反らしてそう言った。そうだ、この味は、チャイだ。新宿で有名な店のものも含め、おいしいチャイはこれまでに何杯も飲んだことがあるけれど、そのなかでもダントツに一番だった。チャイだけでも店を持たせることができるんじゃないか、そう思えるぐらいの香ばしさとほのかな辛さ、しみわたる芳醇な甘みだった。
「えーすごい。どうやって作ったんですか? インドで学ばれたとかですか? なにを入れてるんですか? 砂糖はかなり多めですよね。でも、温度は低めで、ぜんぜん熱くなく、抵抗なく飲めます。チャイってこのぐらいの甘さで、このぐらいの温度にすると、いちばん美味しいんですね。いろいろ教えてください」
あたしは店を継ぐ気なんてぜんぜんなかったのに、前のめりになって質問をあびせた。あたしはお店にも、銀貨さんにも、がぜん興味をもった。あんまり他人に興味を持つことはない人生だったのに。銀貨さんがあたしに似ていたこともあるし、チャイのやさしい味がそうさせた。そのチャイは味もすばらしかったけれど、それ以上に、他人を打ち解けさせることができるような、そんな不思議な作用を持っていた。あたしはあたしの手でこんな素敵なチャイを作ってみたいと思った。
「インド、じゃない。ネパールだ。なにを入れてるのかは、おいおい話す。とにかくコツは、砂糖を入れすぎじゃないかというぐらい、たくさん盛る、ということと、煮込みすぎないこと、だ。煮込むと、チャイの香ばしさが逃げてしまう。人肌ぐらいの温度、それがいちばん、うまい」
銀貨さんはとつとつと言い、それから手元のチャイを口に含んだ。チャイを入れることに長けている老婆は、その飲みっぷりも見事だった。こくこくと音を立てながらゆっくりとチャイをのどに流し込む。
銀貨さんはあたしに店を譲ってくれるつもりなのだろうか。前のめりになってたわりに、彼女がチャイを飲むうつくしい様子を見つめていると、ふいに冷静になった。あたしはこんなふうに、ちゃんとチャイを作れるんだろうか。お店を取り回すことの難しさよりも、いまはそんなことが気がかりだった。つまりあたしは、チャイのおいしいこのお店を継ぐことについて、知らずうちにずいぶん前向きになっていた。
「お前の、サチコのことは、無量大数の和尚に、聞いた。ずいぶん、気にいってるようだったな、あの風変わりな和尚が。え?」
銀貨さんがあたしを品定めするように言う。彼女の目があたしの身体やふとした所作のひとつひとつを仔細にたしかめる。まるで、目で犯すみたいに。
「お前は、和尚と、したのか?」
はたして銀貨さんはあたしにそう尋ねた。訊かれるような気がしていた。嘘をついても仕方ないと思ったから、あたしはわずかに頷いてみせた。照れるようなことでもないし、恥じるようなことでもない。それは今となっては、ただの結果だ。その前後でなにも変わってはいない、空虚な結果だ。だからあたしはなんら臆することなくそう答えることができた。
「じゃあ、私と、サチコは、竿姉妹なわけだ」
銀貨さんはあたしと同じように、なんでもなさそうに言った。そうか、銀貨さんもあたしと同じように、和尚に抱かれたのか。あたしたちは同じものを共有していたし、これからも共有していく。それで十分ではないのか。それ上にあたしが求められなければならないものが、いまこの場所にあるのか。和尚に抱かれた、それだけで、あたしは未来に夢をみてはいけないのか。
あたしは知らずうちに、このお店に、あるべき未来をあずけようとしていた。
「お前の、夢は、なんだ?」
そして銀貨さんは、あたしにそれを尋ねた。あたかもその答えによって、店を譲るのかどうかを決めるかのごとく。
例えばあたしがお店を引き継いだら、おいしいチャイを作りたかった。高円寺に住み始めておおよそ六年。高円寺がどういう町なのか、どういう人が暮らしているのか、肌で分かっているつもりだ。町が、人が、いったいどれほどのものを抱えているのかも。あたしはそんな人や、町が、ほっと一息をついてくれるような、そんな気の安らぐチャイを作りたかった。そんな素朴な夢は、しかしいまこの店に来て初めて生まれた夢であり、あるいは具体的な目標であり、おそらく銀貨さんが尋ねているのはそんなことじゃない。銀貨さんが知りたいのは、あたしが生涯をつうじて追い求めている、そんな究極的な夢だ。その夢の途上で彼女から受け継ぐカフェがどんな存在たりえるのか、きっとそれを確かめたいんだ。
あたしの夢はなんだろう。おもえば、そんなことを考えたこともなかった。分からないまま東京に来て、分からないままAVのバイトをして、分からないまま一流企業に就職して、分からないまま無量大数の和尚に抱かれて、分からないまま今ここにいる。だからあたしに答えられるはずもなかった。たしかなのは、新宿の上底と下底を足して、都庁の高さをかけて、2で割った、その面積のなかには、ぜったいその夢は見つからないということだ。いま分かった。あたしの夢は、新宿にはなかった。中央線の意味が薄れていく。あたしは生命線の行き先を、生きることの意味を、別の場所に求めないといけない。高円寺は、その場所たりえるだろうか。
「……あたしが十八歳で東京に来て、何も分からなくて、まあいまでもぜんぜん分かってないんですけど、いまよりずっと馬鹿で、世間知らずで、処女だったころ、聴いた音楽があります。あたしは今でも、あの高円寺で聴いた、最初の音楽が忘れられないんです」
あたしの口はしぜんと動き出していた。処女だった、というくだりは嘘をついた。でもあの音楽は、あたしの処女膜を再生させてくれるような、そんな音楽だった。
「高円寺の、そう、無量大数でのライブでした。彼女のうたはすごくえろくて、ギターはすごい下手で、痛々しくて、まるで、初めてのセックスみたいな音楽だったんです。あたしは彼女に憧れた。いや、憧れたなんてもんじゃない。あたしは彼女と、セックスしてみたかった。そう、あたしの夢は……」
こんなもの、求められた正解であるはずがない。でも、あたしが求めた正解ではあった。あたしはちゃんと正解を見つけることができた。だからたとえカフェを引き継げなかったとしても、このまま生き倒れるとしても、後悔はなかった。生きる理由、それは、正解を見つけることだと思う。それができないまま死んでいくひとのほうがずっと多い。あたしがそうじゃなかったのは、彼女に会えたから。
「あたしの夢は、いつかセイコに、うちのカフェでライブしてもらうこと。それだけなんです。セイコはふつうの、とてもかわいい女の子だから、女の子が大好きな、うつくしい世界を作って、それをセイコに見せてほしいんです。それだけです」
あたしは一気にそこまでを言い切った。のどがひどく乾いていたので、チャイを飲もうかと思ったけれど、空だった。もうあたしに言えることはなにもなかった。
「合格だ」
銀貨さんはしぼりだすような声でそう言い、カップを持ち上げるとチャイを一気に飲み干し、叩きつけるようにカップを置いた。かぁんという甲高い音がとおくなる。それが消えてしずかになると、あたしの身体が熱くなり、にえたぎったおなかの奥からなにかが溢れてきそうだった。就職が決まったときですら、彼氏ができたときですら、こんなふうにはならなかった。それはうれしいという感情とはまたちがう。しかしうれしいという感情になるまえの、もっと原始的な、衝動のようなものがほとばしりそうだった。それを堪えているうち、あたしの右目からだけほろりと涙がこぼれた。あたしはあたしに認められた。そう思った。
「忘れるなよ、サチコ。高円寺で生きていくのに、必要なのは、夢だけだ。夢を喰って現実を生きるんじゃない。現実を喰って夢を生きるのでもない。ただ、夢だけだ。それだけを忘れないでいれば、すくなくとも生きてはいられる。大事なことで、難しいことなんだよ、すくなくとも生きていく、ということは」
銀貨さんの声はやさしく、ながれるように、彼女の抱えてきたものすべてを託すように、あたしに与えられた。銀貨さんは足をふるわせながら立ち上がり、あたしの頭にぽん、と手を置いて、あたしにひとりの時間を与えてくれるかのように、去っていった。あたしはちゃぶ台につっぷして、声をだして号泣した。からっぽのカップが満たされていく。
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