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カフェ「汚点紫」は設備がしっかり整っていたため、引き継ぎにあたり、あたしがしなければいけない仕事は少なかった。名義の変更なんかは銀貨さんが済ませてくれたし、経営のために必要な基礎知識をていねいに教えてくれて、おなじ内容がしっかり書き込まれたノートを手渡してくれた。あたしは無量大数で一年ほど働いていたので、かんたんな料理を作ることはできたが、それだけでは高円寺でカフェとしてやっていくのは無理だといわれ、銀貨さんにネパール風のカレーとチャイを伝授された。カレーはグリーンカレーとチキンカレーの二種類で、チャイはマサラチャイの一種類だけ。レパートリーとしては少ないのだが、最初は作りやすいほうがいいだろうし、それに、そのメニューだけでもやっていけそうなぐらいに美味しかった。ただ、カレーもチャイも作るのはすごく難しかった。作り方が細かに記載されたレシピはもらったのだけれど、そのとおりに作っても味はぜんぜん再現できなくて、言語化できないコツを掴むのにだいぶ苦労した。それでも熱心に向き合っているうち、十回に一回ぐらいはおなじぐらいの味が作れるようになり、その頻度が二回になり、三回になり、七回ぐらいは作れるようになったころ、「あとは将来の成長に期待する」と皮肉まじりに卒業を言い渡された。「じつに手離れのわるい娘だった」と苦笑されて、あたしにはもう娘と呼んでくれる相手はいなかったから、うれしかった。
引き継ぎの直前、外装も内装もピンク色にした。無量大数時代に仲良くなったひとたちがたくさん駆けつけてくれて、なかには本職のひともおり、あたしの希望通りのピンク色に染めてくれた。みんなには花束とかお祝いの品をたくさんもらった。和尚はセイコのCDをくれた。店内でセイコの曲をたくさんかけられると思うとうれしかった。セイコはそのころ、ピンクセトラというバンドを組んでいるらしかった。すごいな、どんどん進化してる。あたしは彼女の弾き語りが好きだったので、残念だけど。いつかぜったい、うちのお店にセイコを呼んで、弾き語りでライブをしてもらうんだ。そんな思いを込め、カフェの名前は「ピンクセトラ」に決めた。ウリは美味しいカレーとチャイ、そして、それよりももっとおいしいミュージック。
すっかりピンク色に変わった店をみて、銀貨さんは「色も店名もセンスがない」と不満そうだったが、顔はうれしそうに笑っていた。あたしも笑い、「前の店のほうがセンスがなかったですよ」と言い返してやった。そんなこと、ぜんぜん思ってなかったけど。
あたしの荷物をすべて二階に運び込み、カフェスペースの設営も終わった。銀貨さんは東村山市にある知り合いの家に引っ込むのだという。無量大数のツテで借りた軽トラックに銀貨さんのわずかな荷物を積み込み、助手席に銀貨さんを乗せ、あたしが運転した。無量大数で働いているときに車を運転したことはあるけれど、いつもより長距離だったし、免許を持ってないから、緊張した。
車のなかでは銀貨さんとさかんにおしゃべりをした。銀貨さんは若いころ、米兵を相手にしたいわゆるパンパンとして働いていたのだという。あたしは素人AV女優だった、と白状すると、セックスの話で盛り上がった。高円寺から東村山までのおよそ一時間、セックスの話だけをたくさんした。好きな体位はバックということで意見が一致した。バックは好きなひととしないときのための体位だということも。誰か別のひとの顔を思い浮かべれば気持ちよくなれるのだということも。銀貨さんはバックをするとき、高倉健の顔を思い浮かべるらしく、不器用そうで爆笑した。あたしは綾野剛の顔を思い浮かべるというと、センスがわるいと嗤われた。セックスの話が楽しいのは初めてで、多少なりとも、あたしがこれまでにしてきたセックスのことを肯定してくれもした。
「あなたの夢はなんでしたか?」
別れ際、あたしはずっと訊きたかったことを尋ねた。銀貨さんはなにかをかみしめるように、空を見上げた。東村山はあまり高層ビルがなく、空はひろくて、あおかった。そのふかみに言葉をとけこませるかのごとく、銀貨さんはぽつりとつぶやいた。
「幸せな家庭が作りたかった」
銀貨さんとあたしはよく似ている。彼女の年になったころ、結婚も出産も予定していないあたしは、きっと同じことを言うだろう。でもそれは、後悔だろうか。あたしは違うと思う。叶えられなかった夢は、この世への未練だ。それは死ぬまで生きることを動機付けしつづける。
『あたしはあなたを母だと思ってますよ』
だからそんなことは最後まで言えなかった。
カフェ「ピンクセトラ」オープン初日はたくさんの人が来てくれて、狭い店内がぎゅうぎゅうになって賑わった。無量大数で懇意にしていたミュージシャンも多く集まり、いきなりのライブが始まった。スピーカーもアンプもミキサーもマイクすらない。アンプラグドでの弾き語り。でもそんな時間がすごく楽しくて、カフェ「ピンクセトラ」の定番にしようと誰が言い出すともなく決まった。イベント名は店内の壁や天井に貼ってある畳になぞらえて「畳アンプラグド」にしようと勝手に決まった。いつかあたしは「畳アンプラグド」にセイコを呼びたいと思った。たくさん食材を仕入れていたカレーも、チャイも、見通しがだいぶ甘かったみたいで、日が変わるころにはなくなってしまった。無量大数の和尚が送ってくれていた大麻ビールもすぐに消えた。でも誰も帰ろうとはしなくて、まずい水道水だけをゆっくり減らしながら、時間のかぎり音を奏で、うたを歌い続けた。
外が明るくなったころ、みんな徹夜明けのふたしかな足取りで帰り始めた。片付けを手伝おうかと申し出てくれたひとはたくさんいたのだけれど、あたしは「ここはあたしの店だから」と意地を張って断った。実際、ひとりで店を片づけている時間は、このうえなく幸せだった。あたしにもこんな幸せが訪れるんだってことにびっくりした。そしてあたしがここに来られたのは、間違いなくセイコがいたから。店のミニコンポが音割れするぐらいの大きな音でセイコのCDを流しながら、彼女はあたしの神さまだと思った。
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