二十八歳、ピンクセトラ、母親

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 「ピンクセトラ」はびっくりするぐらい順調だった。高円寺の一等地にあるし、元々ついてるお客さんも多く、みんな応援してくれた。カフェ開業の失敗談なんかしょっちゅう聞く、というか、体感としては失敗することのほうが多いし、高円寺でも新しいカフェがかげろうみたいに現われては消えていったので、そういうひとからすれば、ナメてる、と思われても仕方ないのかもしれない。でもあたしも、がんばってた。セイコは歌った。「全力でやって五年かかった」と。あたしも五年間は必死でやろうと思った。インディーズ音楽に詳しいお客さんによると、セイコはメジャーデビューの話が決まりつつあるらしい。たぶん相当のギャラと信頼を用意しなければ、昔とちがい、セイコはうちみたいな高円寺の小さなカフェでライブしてはくれないだろう。だから五年間で一千万円を貯めようという目標を立てた。それが多いのか少ないのか分からない。とにかく数字にはしたかったし、うんと背伸びしたぐらいの数字のがちょうどよかった。そうなると、いくらカフェが順調といってもカフェの営業だけでは心許ない。それにあたしはお金についてもともと無頓着だったというか、利益のでる価格設定が下手だったし、売れてないミュージシャンにただで食べさせることもあったので、カフェの売り上げは多くても持ち出しも相当あった。それで、ときどきはバイトすることにした。

 最初は夜のお店で働こうと思った。やっぱりお金を稼ぐには水商売がいちばんいい。とりわけてっとりばやいのはソープだ。うまくハマれば月百万も視野に入る。ただ、カフェ営業は音楽好きのお客さんがターゲットなこともあり、ライブとかもたくさん入れて、夜の時間帯がいちばんの稼ぎ時だったので、そうなると夜にバイトするのはむずかしい。あと、無量大数の和尚に「身体で稼ぐような真似はするな」と諭された。あんなことしといてそんなこと言うのかよ、とムカついた。いや、ムカついたなんてもんじゃない。彼にされたことは今もトラウマとしてあたしの心や体をむしばんでいる。でも、あたしは和尚を許すことにした。許すという言葉が正しいのか分からない。そもそも許すとはどういうことなのか分からない。それは許そうと決めて許すというよりは、しぜんとそうなる、といった感覚が近いのかもしれない。昔、無量大数でセイコのライブを聴いたとき、「このひとは絶対に許さないひとだ」と、怒ったようなギタープレイを観て思った。いま、セイコの新しい音源を聴いてみて、あいかわらず下手くそだけどもはや怒ってないギターを聴いて、「ああ、このひとは許したのだな」と思った。なにに怒っていたのか、なにを許したのか、分からないけれど。だからあたしも、許すことにしたのだ。いや、そうなったのだ。

 和尚が紹介してくれたバイトは、「借金取り」だった。「身体で稼ぐな」と言うといて紹介するバイトがそれかよ、と、怒りを通り越して呆れた。まあ和尚はちょっと、そういうところがあるのだ。あたしは和尚は嫌いだけれど、好き寄りの嫌いで、そういうところはわりと好きだ。そう、さいきんのあたしのお気に入りの言葉は、「好き寄りの嫌い」とか「嫌い寄りの好き」だった。和尚は好き寄りの嫌い。銀貨さんは嫌い寄りの好き。とにかく借金取りのバイトはある面で「身体で稼ぐ」そのものだったと思う。ヤクザみたいな元締めと付き合わないといけないし、割はよくないし、足は疲れるし、説得はめんどくさいし。でも、元締めは顔は怖いけどみんなやさしくて、まあちゃんと回収できないと怒られるんだけれど、それはどの仕事もおんなじだし、なによりもあたしは、もうセックスしなくてもよかった。借金を回収するとき、たとえばそういうふうに身体を使えば、もっとずっとお手軽だったかもしれない。でもあたしは、身体を使うのではなく、心を使うことで、人間とつながることを試みた。それはあたしがいままでしたことがない試みで、いままでにないぐらい難しかった。借金を抱えているひとに怒声で追い返されるなんてよくあったし、居留守を決め込まれることなんて日常茶飯事だし、泣きつかれたり、嗤われたり、暴力を振るわれたり、夜逃げされたり、あたしはたぶん人生でいちばん嫌われて、人生でいちばん自分のことを顧みた。それは不思議と、新宿に来てすぐのころ、ネットカフェで眺めた自分のAVを思い出させた。身体か心かのちがいはあれど。あたしはいまでも自分のことを考えていて、そういうやりかたで他人とつながろうとしている。

 ショックだったのは、何度か心中の現場にも立ち会ったことだ。すごく凄惨な現場もあったし、なにより子どもが殺されている現場がいちばん恐ろしかった。ただ、あたしはそんな現場を見てもなにも感じなかった。できるだけ何も感じないように、てきぱきと警察に連絡し、現場検証に付き合い、遺族への手配も済ませた。仕事だと思えば、余計なことは考えないでいられた。こんなときに不要になるのが感情なら、感情っていったいなんなんだろう。子どもが残されている現場もあった。まだ五歳だった彼女は「彩花ちゃん」といった。あたしは例によっててきぱきと処理を済ませ、そのなかで彩花ちゃんを預かってくれる児童養護施設も探した。その手続きは初めてだったし、なかなかに難航したので、しばらく彩花ちゃんはピンクセトラで預かった。わずか一ヶ月ぐらいだけれど、彩花ちゃんはうちのアイドルになって、みんなの前でうたを歌うこともあったし、あたしにもすごく懐いてくれた。ようやく児童養護施設が見つかって、あたしと別れるとき、彩花ちゃんはすごく泣いてくれた。目の前で両親が首を吊っててもまったく感情を見せていなかったのに。五歳は幼いけれど、いろんなことが分かり始める年だ。彼女はほんとうは、全てを分かっていて、あたしに笑顔を見せて、あたしに泣き顔を見せてくれていたのではないか。あたしはピンクセトラのお客さんにちいさな銀色の十字架をもらって、店のすみっこに飾り、祈ることを始めた。たとえば、「いつか彩花ちゃんが戻ってきて、あたしを殺してくれますように」とか、そんなことを祈った。十字架をくれた彼女は、本名なのかなんなのか、みんなにキャシーと呼ばれていた。キャシーはあたしと同じようにメンタルを病んでいた友だちで、よくない薬をたくさん教えてくれたほか、祈ることも教えてくれた。キャシーは言った。「許されるために祈るのではなく、許されないために祈るのだ」と。どうか彩花ちゃんがあたしのことを許してくれませんように。そのことが彼女の人生にわずかでもしたたかさを与えてくれますように。彩花ちゃんはたぶん、あたしのことを、嫌い寄りの好きだ。それは許さないという感情だ。好き寄りの嫌いは、許すという感情だ。どちらも正しいし、どちらも正しくない。人と人との関係はそんなものでは規定されない。許せないひとでも愛せるし、許したひとでも殺すことはできる。あたしにとってセイコは、どちらでもない。彼女はむしろ、許しを、あるいは許さないことを与える神さまだ。ちいさな十字架に背負われているその姿が、セイコに相似した。

 高円寺といえば、音楽・酒・セックス、そして、薬だ。みんなオーガニックなものが好きなので、この町では覚醒剤はまったく好まれない。みんなが好きなのはもっぱら大麻。誰のポケットにも当たり前に入ってる。ポケットを叩けばふたつに増える、ぐらいに当たり前にもらえたりする。みんなちょっと格好つけて「大麻なんか今どき流行らなくない? 犯罪だし」なんて言ってみたりもするのだけれど、そのあとに決まって「まあ俺は持ってるけど」と付け加えるのがお決まりのジョーク。それと、オーガニックだなんだと偉そうに言っておいてあれなのだが、流行っていたのは向精神病薬だった。さきの、十字架をくれたキャシーがリタリンを持ち込んで、深夜にはみんなで回し合った。有り体にいうと、やっぱりキメセクは最高だね。言葉ではいくらでも否定できるのだけれど、いったんやってしまえばあれはヤバい。ただあたしは、薬でキマってるときは女の子としかセックスをしない。そこはやっぱりオーガニックというか、女の子同士なら妊娠しないし、イッたらもう続けられない軟弱な男と違って、女の子は一晩中でもやっていられるから。

 そんな夜をいくつも越えて、三年が経ち、あたしは六百万を貯めていた。お店が雑誌に取り上げられることも増えて、お客さんはたくさん集まり、売り上げは右肩あがりだったから、このままいけば五年で一千万という目標は達成できそうだった。セイコがうちでライブしてくれる日は、たしかに手の届きそうなところまで来ていた。

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