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 ちょっとした面倒があった。まあ高円寺で店をやっていれば面倒なんて絶えないし、そのうちのひとつぐらいの感覚なのだけれど。あたしが新宿で働いていたときに付き合っていた、いわゆる元カレがうちのお店にやってきたのだ。どうやってうちのお店を知ったんだろう。いわく「ヨリを戻そう」ということで、だいぶびっくりした。彼はいまや役職がついて、年収も一千万を越えたそうだ。四年間、君も全力でがんばったんだね。偉いじゃん。ただあたしは役職とかお金なんかには興味がなかったので、あっさり断った。彼はなかなか引き下がろうとしないので、警察を呼ぼうとすると、ようやく帰ってくれた。まああたしは警察なんて嫌いだし、そんなもの呼ぶはずもないんだけどね。ほんとうにどうにかしたいときは近所にいるヤクザに声をかけるし。彼のような堅い人間には警察がいちばん効くはずで、そのフリで想定どおり帰ってくれたわけだ。でもあの様子だと、また来るかもなあ。それは面倒で、でもちょっとだけうれしかった。彼とは最初から最後までひとときの付き合いだと割り切っていた。新居を買おうとしていた一件を加えてすらそうだ。それなのに、彼がいまでもあたしを必要としてくれていたのは、うれしかった。それは、たんに承認欲求を満足させたにすぎないのだけれど。いわゆるアラサーになってそんなことでよろこぶのはだいぶ恥ずかしいな。なんて思いつつ、あたしはセイコの曲を口ずさみながら開店作業を続けた。

 がらがら、と音をたてて引き戸が開いた。

「あー、すいません、まだお店、開けてないんですけど」

 そう声を投げかけると同時に顔を上げ、間口に立っている男の姿を見てびっくりした。だいぶ日焼けしてはいるけれど、いかにも堅物といった誠実な面持ちは昔から変わらない。新宿で働いていたときの、あたしの部長だった。元カレといい、部長といい、どうして今日は新宿キャリアウーマン時代の知り合いが続々と訪れるのか。あたしはお店を始めてから忙しすぎて新宿には行っていない。部長がやどしているいかにも新宿らしい洗練された雰囲気がなつかしかった。それは新宿の一面であり上澄み。あたしがかつて暮らしていた、新宿の上底。

「……今日は、お休みですか?」

 土間にはだしのまま飛び降りてあたしが尋ねると、部長は彼らしくもなくにこりと微笑んで、

「君はもう忘れたのか? 今日は会社の創立記念日だろう?」

 と言った。朝のあわい陽光が磨りガラスをすかし、彼の表情にふかみのある陰影をもたらした。

 創立記念日なんて忘れたけど、会社のことや、ログインのパスワード、工数表の出し方、稟議を通す冴えた裏技なんて忘れたけれど、部長のことだけは忘れてないよ。そして部長も、いまでもあたしのことを覚えてくれてるんだね。なんでこのお店のことを知ったの? なんであたしに会おうと思ったの? なんで休日なのにスーツなの? なんでそんなに日焼けしてるの? なんでネクタイの色がピンクなの? 仕事はうまくいってる? 奥さんとか子どもとはうまくやってる? あたしの件で責任を取らされて、あれからどうなったの? いまでもあなたは部長なの? あなたを部長と呼んでもいいの? あたしを許してくれてる? あたしのことは好き寄りの嫌い? それとも、嫌い寄りの好き? いろんなことを訊きたかったけれど、あたしに訊いていい言葉なんてひとつもないと思ったから、せめて笑顔で、

「カレーごちそうしますよ。上がってってください!」

 と声を張り上げた。

 お店の扉をいそいで閉め、「本日休業。ごめんチャイ」と赤マジックででかでかと書いた紙を扉に貼り、カレーを作り始めた。まだ開店作業中だったので、お米は炊いてないし、カレーの仕込みもまだこれからというところで、部長をだいぶ待たせてしまった。部長はしっかりと正座を整えて待ってくれていた。別にあぐらを組んでも、なんなら横になってもいいんだし、そのへんに並んでる漫画とか(サブカルのえろいやつばっかだけど)読んでてくれてもいいのに、部長はじっと座ったまま、壁の一点を凝視していた。音楽はもちろんセイコ。ピンク色の店内に立派なスーツを着た男が正座している様はちょっと面白かった。外から見たらなにかのインスタレーションかと思われそう。タイトルは「反省」かな、やっぱり。と、あたしは趣味のわるい冗談を頭に浮かべながら、にまにまと微笑んで、カレーを煮込んだ。部長が来てくれたのは、自分でもびっくりするぐらい、うれしかった。

「お待たせしましたー!」

 あたしは明るい声をあげて、チキンカレーとマサラチャイをお盆に載せて部長に駆け寄り、手際よくちゃぶ台のうえに並べた。部長は、くんくん、と匂いをかいで、

「ネパールか」

 と呟いた。みんなうちのカレーはインドカレーだと思い込んでいて、言い当てられるのは初めてだったので、びっくりした。

「……部長、カレー、詳しいんすか?」

 あたしが目を丸くして尋ねると、部長は両手を合わせいただきますをして、

「一年ぐらい、インドに赴任してたんだ」

 と答えた。部長の左手首には腕時計があったが、右手首には琥珀色の数珠がぶら下がっていた。

 そうか、それがあなたの、責任の取り方だったんだ。あたしがいた新宿の会社では、中国にいちばん太いお客さん(いわゆるロイヤルカスタマー)が多く、そのうえいちばん大きな生産拠点があるので、中国に赴任するのはゆくゆく役員に昇格することも見込まれた、いわば栄転だった。インドはその真逆だった。成長著しい国ではあるのだが、会社が主力とする高品質・高価格の製品と折り合いが悪く、なかなか市場に入り込むことができず、毎年ひどい赤字の数字をたたき出していた。そして決まって赴任した者が責任を取らされる。降格や減給は当たり前だし、少なくとも出世コースは外れる。工場に回されることもよくある。それがインド赴任の、お決まりの流れだった。

「どうした、座りなさい」

 部長は顔をあげ、怪訝そうにあたしを見た。

「……あたしがいたら、カレー、不味くならないっすか?」

 あたしは気まずくて、部長の前にあまりいたくなくて、不器用な笑みをつくり、不器用な冗談を言った。

 部長はふっと笑った。いまはこんなふうに笑うんだ。あたしのつまらない冗談で、こんなふうに笑ってくれるんだ。

「君がいたらカレーの味が変わるのかい? それならなおさらだ。君が作ったカレーだ。ちゃんとそこに座って、僕が食べ終わるまで待ってなさい。それが責任というものだ」

 部長らしい、真面目な言葉だと思った。そしてあいかわらず、厳しいくせにちゃんと優しい言葉だと思った。そんなことで、あたしの責任が取れるとは思えないけれど、あたしは部長の向かいに正座をした。しっかりと背筋を伸ばした。誰かのまえでこんなふうに座るのは久しぶりだった。今をもっても、部長はそんな存在であり続けた。

 部長はスプーンを手に取り、ごはんをそっとよそい、黄土色のルーに浸したあと、ゆっくりと口に含んだ。彼よりも、あたしののどの奥が、く、と鳴った。

「うまい」

 たった三文字のその言葉を聞いた瞬間、あたしの全身から力が抜けて崩れ落ちそうになった。いつもその三文字のためだけにカレーやチャイを作ってきた。その三文字を与えられるたびにうれしかった。そして部長がいま口にしたその言葉は、それだけではなく、あたしがカフェで築いた三年間を、いや新宿で働いた期間を含めた七年間を、東京に来てからの九年間を、あるいは二十七年間を、汲み取り、認め、許してくれる、そんな言葉であるかのように感じられた。

「まじすか、まじすか、インドのカレーより美味いすか?」

 あたしは身を乗り出し、冗談めかしてそう尋ねた。黙っていると、泣いてしまいそうだったからだ。

 部長はまた、ふ、と笑って、

「インドのカレーとネパールのカレーは全然違うというか、もはや別の料理だろう」

 と言った。世界一美味しいよ、と言ってくれたらよかったのに、シャイな彼はそんなことは言わないし、だから「うまい」というたったそれだけの言葉がうれしかったし、それだけでよかったと思う。

 部長はぱくぱくとカレーを食べ、ときおりチャイを飲んだ。「辛いものを食べてるときに飲み物のむともっと辛くなるよね」と彼は言って、そんなベタベタな言葉がおかしくて、あたしは腹を抱えて笑った。部長の白シャツにカレーがついて、それも笑った。部長のおなかがそろそろ太りはじめていて、それも笑ってやった。とても幸せな食卓だった。

 食べ終えると、部長はようやく足を崩して、一息をついた。会話がふと途切れたタイミングで、部長はすっかりおなかいっぱいになってしまったのか、ぼんやり目線を迷わせたまま、

「この音楽、セイコか」

 と呟いた。部長ぐらいの年齢の、しかも絵に描いたような堅物の彼が、セイコのことを知っていてびっくりした。セイコはもうそのぐらい有名になってるのか。

「え、部長、知ってるんすか?」

 あたしがまた身を乗り出して言うと、部長は紙ナプキンでていねいに口元をぬぐいながら、

「娘がよく聴いてるんだ。ドライブしてるときも、音楽はセイコにしろってせがまれてね。僕は最近の音楽はよく分からないけど、若い子にすごく人気なんだろう? 今度、メジャーデビューするって聴いたよ」

 と教えてくれた。そうか、いよいよ、セイコはデビューするんだ。初めて彼女のうたを聴いた瞬間から、彼女のギターを聴いたときから、彼女はぜったいいつか全てのふつうの女の子を救ってくれる存在になるって、ずっと思ってた。ついにそのときが来たんだね。あたしはもう女の子っていえる年ではないし、あんまりふつうではないから、救ってもらえるとは思ってないし、もう自分でいろんなことができるけれど、きっとそうじゃない女の子はたくさんいるから、セイコがデビューするのはうれしかった。あたしが東京に来てすぐ、まだ自分ではなにもできなかったころ、セイコの音楽に救われたように。セイコは歌った。「音楽は魔法ではない」と。でもセイコはこのあと、セイコはこう歌うんだ。「でも」と。この「でも」のあとにセイコがうたいたいたぶん全てがある。

「あたしにとって、セイコはセックスだったんです」

 あたしは部長にそう伝えた。この話をする相手として部長がふさわしいのかは分からないけれど、誰かに言いたいと思った。それに、部長はあたしのAVを観たわけだから、理解はできないまでも、きっと受け止めてくれるだろうと思った。

「十八歳のときに東京に出てきて、右も左も分からなくて、そのなかでAVに出演した。いま思えばということだけど、あたしには絶望しかなかった。あのころあたしにとって、セックスは絶望だった。そんななか、あたしはセイコに出会ったんです」

 いったいあたしは部長に何を伝えたいのか、伝わると思っているのか。こんなことで、あたしはAVに出演した言い訳をしたいだけなのか。部長をインドに飛ばしたことを謝りたいだけなのか。分からない。あたしはただ、知っていてほしいだけ。

「セイコの歌をきいて、ギターをきいて、あたしはびっくりした。こんなふうに、セックスするひとがいるんだって。こんなふうにセックスしてもいいんだって。セイコはあのとき、全身で怒ってた。あたしもこんなふうに怒っていいんだって、そう思った。セイコはあのとき、あたしのセックスを救ってくれた。だからあたしは……」

 だからあたしは、なんなんだろう? AV女優を辞めた? 新宿の会社に就職した? お店を始めた? おいしいカレーとチャイを作れるようになった? 六百万を貯めた? ちがう、そうじゃない。だからあたしは、の先は、未来にしかない。あたしがセイコに会えた理由を、その価値を、あたしは未来に求め続ける。そのなかに、セイコがこの「ピンクセトラ」で歌ってくれるその舞台がある。でもそれは、通過点でしかないんだって分かった。

「……じゃあ僕は、君のセックスに救われたわけだ」

 部長がそう言って、あたしはいつのまにか伏せていた顔をあげた。一瞬、なにを言われたのか分からなかった。

「僕も君と同じだよ。君のAVを観て、こんなふうにセックスをするひとがいるんだって思った。こんなふうにセックスをしてもいいんだって思った。君とまったく同じだよ。そして君はたぶんあのとき、全身で怒っていた。君は気づいてなかったかもしれないけどね。それで、僕のセックス観は変わった。あのころ、僕は君も知ってのとおりひどい仕事人間で、家族のことを顧りみることはなかった。妻との夜の生活は数年なかった。それが、君のセックスを観て、変わった」

 部長の告白を聴いて、あたしは、ちゃんと受け止めてもらえたと思った。あたしのAVが誰かにちゃんと受け止めてもらえていた。あたしのセックスにもちゃんと価値があった。こんなこというと怒られるかもしれないけど、たぶん、セイコの音楽と同じように。

「それからね、僕は、ちゃんと妻を抱くようになった。最初は一ヶ月に一回ぐらい。苦労したよ。妻を説得するのもね。いまさらだって罵られて、泣かれて。ぜんぜん濡れないし、入らないし、痛いっていうし、僕もぜんぜん気持ちよくないしね。それに娘も大きくなってたから、家でセックスするのは難しくて、ホテルなんかに行く必要があったし。それでも、仕事が忙しい合間にちゃんと時間を見つけて、セックスする場を設けるようにした。おかしな話だけれど、君があんなふうにセックスしてるんだから、僕にだってできると思った。君がセックスしてるんだから、僕もしなくちゃいけないと思った。僕のセックスの悩みなんて、君のに比べたらちっぽけなものだと思った。……失礼かな?」

 彼はそう言って、あたしに笑いかけた。照れくさそうで、少年みたいな、いい笑顔だと思った。そしてこんな笑顔をさせたあたしのことを誇らしく思った。

「まあ会社なら、セクハラで減給戒告ですね。でもここは会社じゃないから、いいですよ。続けてください」

 あたしもにんまり微笑んで、そう促した。部長はチャイを一口飲んだあと、続けて言った。

「それから、少しずつ変わっていった。なんかね、少しずつ気持ちよくなっていったんだ。妻も、僕もね。それだけの、単純なことが、すべてを変えた。たぶん世の中はそういうふうにできてるんだろう。単純なことがすべてなんだ。気持ちいい、それだけで、生活が変わった。前を向いて生きられるようになった。すっかり疎遠になっていた娘とも会話することが増えた。僕はそのあとしばらくしてインドに飛ばされることになるわけだけれど、もう大丈夫だと思った。インドでも、君のセックスが僕を支えてくれたんだ」

 あたしはもはや祈るような思いで彼の告白を聴いた。涙を堪えないといけなくて、もう彼の顔は見られなくて、さげた頭に彼の言葉が降ってきた。冷たい身体にふりそそぐ暖かなひかりのように。彼の言ったとおり、怒ったようなセックスしか知らなかったあたしの身体が、それ以外の在り方を見つけようとしてる。セイコが怒ってないギターの弾き方を見つけたように。

「だからね、もう、そんなふうなセックスはしなくていいんだ。君のセックスには価値がある。だから、それ以外の自分のことも、もっと認めてあげていい。君は立派な女性であり、人間だ。わずか二年間だけれど、ずっと君のことを見てきた僕が保証する。僕の部署に君が来てくれるよう手回ししたのは僕なんだ。君が昇進するよう進言したこともあるし、中国への異動を提案したこともある。君の仕事っぷりに、とりわけ人と接するやり方に、何度嫉妬したか分からない。そのやり方を覚えるため、たしかにセックスは必要だったのかもしれない。でももう、君はセックスを手放してもいいはずだ。だから、そんなふうな、胸が開いた服はやめなさい。短いスカートはやめなさい」

 部長の真面目な言い口のわりに、さいごの言葉だけはいかにもおじさんらしい陳腐な説教で、あたしは笑ってしまった。その言葉こそ部長があたしにさいごにくれるものだと思ったから、ありがたく受け取った。露出度のたかい服はわりと好きだから、それは変えないけど、そうだね、うん、もう奔放なセックスはしないよ。もういい年だしね。あたしは部長に会えてよかったと思った。

「いまでも『部長』なんですか?」

 部長の去りぎわ、あたしはいまさらそのことを尋ねた。訊けなかった、訊いてはいけないと思っていたことを訊いた。ありがとうの代わりに、部長のいまを知っておきたいと思った。あたしが犯した罪がもしあるとすれば、彼はその半分を持ってくれた。それの行方を知っておきたいと思った。

「もうすぐ、常務に昇格する」

 部長はそう言い残し、背広を整えると、指を二本、ぴっと立て、背中を向けて去っていった。その姿がすごくかっこいいと思った。部長はあのころ、すごくかっこよかったし、いまをもってもかっこいいんだ。彼はきっと、インドに赴任して、素晴らしい業績を残したのだろう。あたしはそのことを誇らしいと思った。彼の持っている、あたしの半分を、すごく誇らしいと思った。誰かと何かを共有する、それがもし彼の言うように、セックス以外でできるのだとしたら、彼はあたしにそれを示してくれた、最初のひとだった。

 あたしはあたたかい気持ちで彼の背中を見送った。彼が高円寺の雑踏のなかに消えても、見送りつづけた。

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