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 セイコがライブするというハコはJR高円寺駅から歩いて五分ぐらいのところにあった。総武線か中央線のガード下。小汚いビルの入口にバンドのチラシがベタベタ貼ってあって、狭い階段をあがっていくと、あんまり防音性が高そうにない扉が待ち構えている。

 あたしはライブに行ったことがほとんどない。田舎町に暮らしていれば、ライブを観れる機会なんてそうそうないし。高校の文化祭でいかにも素人くさいコピーバンドを観たのと、友だちの誘いで地元では売れてるらしいアマチュアミュージシャンの演奏を観たぐらいだろうか。どちらもそれほど好きにはなれなかったし、それほど上手いとも思えなかった。一度、押しも押されぬメジャーミュージシャンが地元に来たことがあって、弟に誘われたけれど、「あんな人たちがこんな町に来るわけないでしょ!」と弟を説教し、泣かせてしまった。けど噂によればそのメジャーミュージシャンは本当に来てくれたらしいので、弟には悪いことをした。まあ当時中学生だっただろうに泣く弟もどうなんだ。

 とにかくあたしは、おそらく音楽というものがたいして好きではないのだ。ヒットチャートの十位以内に入るような売れてる曲は聴くし、CDを買うこともなくはないけど。音楽で感動したことなんか一度もないし。中学のときの音楽の先生がいかにも音楽好きなひとで、あたしは彼のことも好きではなかったから、それも影響してるのだろうか。あるとき彼は満面の笑みを浮かべて言った。「嫌いな音楽、なんてものはない」。うそだ、あたしは反射的にそう思った。おとなしいあたしは全く反発しなかったけれど、それはちがう、と強く思った。嫌いな音楽は、ある。当時のあたしには思いつかなかったし、いまもこれといって思いつかないけれど、きっとある。まるで疑いのない彼の百パーセントの笑顔に、あたしはあたしの嫌いな音楽を突きつけてやりたいと思った。

 だからセイコのライブも、あんまり期待はしてなかった。どれだけ歌がうまかったとしても知れてるだろうと。それに、ほんとうに歌がうまいならもっと売れてるだろうし、こんな高円寺の端っこの、廃れたハコで演ることはないだろうから、まあふつうに考えてナメてた。あたしは彼女に興味があったけど、彼女の歌に興味があったわけじゃない。このときあたしにとって、歌は手段でしかなかった。そもそも、歌なんて手段でしかないだろうと思っていた。歌なんてこの消費社会で消費されるさいたるもので、形がなく役に立たなくて、新しいものが現われれば古いものはすぐに捨てられる。そういう意味では、あたしがつくってるAVにも似てるかもしれない。無人島にひとつ持っていくならば、というよくある、しかし究極的な問いがある。歌をえらぶ人なんていないだろう。AVをえらぶ人がいないように。ポルノという名前を持つバンドが歌った「イージーカム、イージーラブ、イージーゴー」はそのまんな自己矛盾だった。

 ライブハウスは「無量大数」という仰々しい名前だった。セイコが扉を開けると、タバコと酒のすっぱい匂いがまじって鼻孔の奥を刺激する。無量大数はぎゅうぎゅうに詰めても三十人ぐらいしか入らないような狭いハコだった。赤いセロファンを巻いたうすぐらい白熱灯が壁を照らす。外にもバンドのチラシがたくさん貼ってあったけれど、ハコの壁一面にもところ狭しとバンドのチラシがお札みたいに貼られていて、そのどれも売れない、売れなかったバンドなのだろうと思うと、彼らの怨念みたいなものに感応し、気分が悪くなった。

「セイコちゃん、いらっしゃ~い」

 ハコの奥のほうから甲高い、しかし男性の声がセイコを呼んだ。

「あ、和尚。お世話になります」

 セイコは明るい口調で彼に応えた。その「和尚」というのがハコのオーナーなのだろうか。あたしはセイコが向き直った方角を振り返り、そこに立っている彼の姿にぎょっとした。高円寺を歩くようになって一ヶ月。高円寺にあふれているイカれた人間には慣れたつもりだった。今までならありえないと思うような服装の人間を観てもなんとも思わないようになったし、ときにはそんな彼や彼女と打ち解けた会話をすることもできた。しかし、和尚はあたしが高円寺で会った、いや人生で会ったどんな人間よりもヤバかった。まず、頭が坊主なのだ。それは和尚という呼び名のそのとおりだし、それはいい。坊主頭には派手な龍の紋様の入れ墨が入ってるけれど、それもまあいい。彼は赤ちゃんが着るようなフリフリのロンパースを着ていたのだ。彼は男性にしてもずいぶん背が高く、そんなサイズのロンパースを売ってるわけがないので、自前でこしらえたものなのだろうか。よく観ると背中に赤ん坊の人形を背負っていて、ときおりあやすようにおんぶ紐を揺らす。右手にはアンパンマンのガラガラを携えている。首からはおしゃぶりをぶら下げていた。あたしは「真性にヤバい」と直感できる人物を人生で初めてみた。

「あら、その子、セイコちゃんのお友達?」

 和尚の目があたしに向けられて、あたしは扉を開けて一目散に逃げたくなった。一瞬、和尚の顔を直視してしまった。まったく年齢不詳だが、若くは見えない。肌はファンデーションで真っ白になっており、はみ出した真っ赤な口紅とが不気味なコントラストを描く。

「あー、この子、サチコっていうんだって。さっきそこでナンパされちゃった」

 セイコはあっけらかんとした口調で言った。あたしののどの奥から、あはは、という乾いた笑いが意識せず漏れる。

「あら~、素敵じゃない。セイコちゃん、バイだから、気をつけたほうがいいわよ」

 和尚はそう笑って、あたしにウインクをした。あたしは慌てて目をそらす。高円寺には、バイの子やレズの子はわりといた。ミュージシャンやアーティストに多いんだろうか。あたしはあんまりバイやレズが好きではない。彼女らは男性よりずっと性にたいするハードルが低いと思う。高円寺で男性からそっちの誘いをかけられたことはほぼないけれど、バイやレズの子からはよくあった。一回だけ、おっぱいを吸わせてしまったことがある。ぜんぜんよくなくて、歯は立てられるし、あざができてしばらくバイトできなくなるし、お金はもらえないしで、げんなりした。ただ、あたしがヘテロかといえば、そうとも思わないけれど。まともな彼氏ができたこともなければ、好きになった男性もいないし。そういう欠落かもしれないものは、AVに出演するたびどんどん溝が深くなっていった。深くなりすぎた溝はもはや溝ではない。あたしはあたしの性の境界線がいまどこにあるのか分からない。欠落はもはや欠落ではない。あたしは男性であっても女性であっても等しく愛せないし、愛さないし、愛させない。たぶん誰とでもセックスはできるけど、歯を立てるのと、性病と、妊娠は勘弁して。あと、お金ください。

「和尚はゲイだからさあ。サチコ、気をつけなくていーよ!」

 セイコはそう言ってがははと笑い、あたしの肩をばんばん叩いた。それであたしは和尚にたいする警戒をちょっとだけ解いた。バイやレズとは違い、ゲイの人は好感が持てる。彼らは女性にたいする完全なバリアーを持っていると思う。勃たない、というバリアーが。高円寺に来て、関係がつづいてる友だちみたいなひとはひとりもできてないけれど、ちょっと会話したなかで好感を持ったひとは何人かいて、それはみんなゲイだった。

「女なんてダメよ。妊娠しちゃうでしょ。男は何しても妊娠しないから、やりたい放題よ」

 和尚はそう言い、またウインクした。あたしはそっちのウインクは、ちゃんと笑って受け止めることができた。やりたい放題、という言葉はちょっとおかしかった。あたしが男性だったら、ぜんぜんそんなふうには笑えなかっただろうけれど。

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