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「あのー、すいません!」

 彼女は歩くのがずいぶん早く、自動販売機の並ぶ角を曲がっていくところだったので、あたしは走って追いかけ、ギターの背負われた背中にむかって大声で呼びかけた。東京で声をかけられることはあっても、自分から声をかけたのはこれが初めてだったかもしれない。彼女は自分が話しかけられるとは思ってないのか、どんどん先に歩いていく。走ってるのにぜんぜん追いつけなくて、それにどうやって彼女を止めたらいいのか分からなくて、あたしは必死で彼女の背中をとらえようとした。

 あたしの伸ばした手が彼女に触れる寸前、音楽が流れ始めた。その音楽を聴いて彼女はようやく足を止めた。あたしの手のなかで携帯電話のLEDが点滅しており、そこから流れはじめた音なんだと分かった。一昔まえの携帯電話であったようなちゃちい単音だったので、彼女が打ち込みで作った音だったんだろうか。ストラップとおなじく、それも「モーニング娘。」の曲だった。

「……なんで、あんたが私のケータイもってんの?」

 彼女はあたしに向きなおり、そう言った。怒っているような声ではなかったけれど、変わらない威圧感が宿っていた。あたしは彼女の顔を初めて正面から見た。決して美人だとか可愛いとか形容される顔ではなかったと思う。ただ、そこしれない凄みと、艶っぽさが宿っていて、それはもっとも瞳のなかに現われた。あたしは彼女ほどふかい色の瞳を見たことはなかった。

「あの……ルノアールにケータイ忘れてて……」

 あたしが息を整えながらようやくそれだけを伝えると、彼女は、

「ふーん、ありがとう」

 と素っ気なく答え、あたしの手のひらから携帯電話を受け取ると、開いてメールかなにかを確認したあと、そのまま去っていこうとした。

「あの!!!」

 あたしはせいいっぱいの声を張り上げ、彼女を呼び止めた。それはあたしが東京に来て出した、最大の勇気だったかもしれない。バイトを始めたときだって、処女を捨てたときだって、勇気なんていらなかった。一年間過ごしてみて思う。東京はあるがまま過ごそうとする人間にやさしくて、あるがまま過ごそうとするかぎり住みやすい町だ。あたしは初めて東京という町が宿している、東京らしさというべきかもしれないもの、おぞましいぐらい大きな慣性力に逆らおうとしていた。

「……なに?」

 そしてそう答えた彼女はたぶん、あたしに初めての勇気を与えるに足る存在だった。彼女はあたしが東京で会ったどんな人間とも違った。たぶんどんな人間よりも揺るぎなく、たぶんどんな人間よりも怒っていて、たぶんどんな人間よりも優しく、たぶんどんな人間よりも人間に興味がなく、きっとどんな人間よりも人間が好きなんだって、あたしは彼女のことを知りもしないのに、そう思った。それは信じることとも近かった。彼女は初めて会ったその瞬間から、あたしにとって神さまのような存在であり続けた。瞳のいろと声のふかみと、それだけで。

「えと、すみません。これからライブなんですよね? あの、さっきの電話、聞こえてて。盗み聞きしたみたいで、申し訳ないんですけど。お客さんがもし必要だったら、もしあたしでよかったら、あの、お姉さんの歌、聴きにいっていいですか?」

 あたしが何度もつっかえながらようやくそれだけを伝えると、彼女はにっこりと微笑み、

「うわ、めっちゃ助かる!」

 と言った。初めてみた彼女の笑顔は人間らしい汚さのようなものをまるで含んでいなかった。どんなふうに生きてきたらこんなイノセントに笑えるんだろう? 彼女のこれまでの人生に興味を持ったし、それ以上、彼女がこれからの人生をどんなふうに生きていくのか、知りたいと思った。なにを見てなにを食べなにを歌いなにを愛するのか、そのすべてを見たいと思った。そしてできれば、彼女が汚れて堕ちていくさまを見たかった。ましてやもしそれをするのがあたしであるならば。きっと神さまのいない東京という町であたしが初めて見つけた神さまは、否定することもふくめてあたしに宗教のことを教えてくれた。

「私、セイコっていうの。十九歳で、今のところはミュージシャン。あなたは?」

 彼女は、セイコは、そう名乗るときどうしてか照れくさそうに左手で前髪をかきあげながら、もう片方の右手をあたしに差し出してきた。セイコのちいさな額はつるんとしていてかわいかった。あたしはあわててセイコの手を握り、またつっかえながらこう答えた。

「あの、あたしは、サチコっていいます。おなじ十九歳で、ええと、今のところは、素人AV女優です」

 ひさしぶりに自分の名前を名乗ったし、ひさしぶりに自分がなにものであるかを主張した。言ってみて思った。そうだ、あたしは、素人AV女優なのだ。今のところは。あたしはセイコのまえで、初めて東京に自分の居場所を見つけられた気がした。そしてたぶんセイコと同じように、「今のところは」と言えてしまうこれからの人生に、きっと希望を見つけられるだろうと思った。

「素人AV女優って。なにそれ、初めて聞いた、超ウケる」

 セイコは肩を揺らしながら、心からおかしそうに笑った。あたしのことで彼女が笑うのはうれしかった。そんなことで、あたしはなんの愛着もなかったバイトにちょっとだけ誇りを見つけることができた。

「でも私も、似たようなもんかな。まだぜんぜん素人だし。それに女性ミュージシャンなんて、だいたいAV女優みたいなとこあるからね。客はだいたい男だし。ていうか童貞だし。抜かせてなんぼ、というか」

 セイコは皮肉みたいに言ったけれど、あたしはやっぱりうれしかった。あたしのバイトが音楽みたいって言われた気がして、うれしかった。あたしのバイトに、身体に、仕事に、存在に、価値を見つけてくれたのは、たぶんセイコが初めてだった。

「でもミュージシャンだし、もっともっと、超ミュージシャンになりたいから。いつか、サチコのことも、歌にするね」

 セイコは今日いちばんの無垢な笑顔でそう言ってくれた。「歌にする」っていい言葉だな。でもそれよりあたしのほうが、セイコをなにかにしてみたい。あたしはAV女優じゃないし、超AV女優になんてなれるわけもないけれど、もしあたしにできることがあるならば、セイコのことをセックスにしてみたい。男にも女にも童貞にもヤリマンにも、等しく抜いてもらえる、いやらしく愛されるセックスシンボルに。それはあたしが初めて見つけた夢だった。

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