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「新宿」のオケが流れ始めた。とても女の子らしい、かわいらしいイントロ。最近出たアルバムに入っていたバージョンで、うちの本屋でも扱っており、店で流すこともあるから、そのメロディラインは知っている。知っているけど、やっぱり違う、と思った。あのころの「新宿」は、歌から入った。そして追ってギターの音が現われた。しかしいまの「新宿」は音が先にある。それから歌が追いかけてくる。ギターの音は、いつまでも聞こえない。
新宿という町は、そこに立つひとによって色合いを変える。いまのセイコに見えている新宿は、あのころとは違うんだろう。それはあたしだっておなじだ。あたしも新宿という町を、素人AV女優だったときのあのころのようには見れない。にも関わらずあたしは、セイコには変わらないでいてほしいと思った。ひどく勝手にも。いつまでも新宿という町を、あのころのように見ていてほしいと思った。
セイコのライブを初めて観た帰り道、あたしは新宿を歩きながら「新宿」を歌った。まだ誰もその歌を知らなくて、まだ誰もその歌を聴いてなかった。あのころみたいに、あたしは「新宿」を歌ってほしいと思った。
しかし、セイコの歌声はいつまでも聞こえてこなかった。オケの歌があるべきメロディが流れても、セイコは歌い出さなかった。場内がざわついて、誰もがその異変に気づいているのだと察せられた。ステージの真ん中、スタンドマイクのまえに立つセイコの身体は強張っていて、口元は震えていた。声が出ないんだと分かった。セイコはアイドルみたいな歌い方をはじめたぐらいから、喉を壊し、手術も受けたことを知っていた。それがこのようにして時々再発することも。どうしてアイドルみたいな歌い方をするんだろう。ずっと思っていた。ずっとそれが不満だった。でも声が出なくなったときの彼女の表情を見て、アイドルの真似はただの遊びじゃなかったことを知った。思い出されるひとつのシーンがあった。
セイコの自伝に書かれていたワンシーンだった。セイコは小六のとき、レイプされたのだという。そのとき、車のなかでかかっていた音楽が「モーニング娘。」だったそうだ。そのシーンが知ってもいないのにあたしのなかで再生された。彼女はずっと、あのときの音楽を追い求めていたんじゃないか。だからアイドルになりたくて、音楽になりたくて、でもほんとうは、音楽を捨てたかったんじゃないか。
セイコの声が出なくなったことを察したのか、PAさんも音を止めてしまった。せめてフェイドアウトしてくれたらよかったのに、音はぷっつりと途切れ、場内のざわめきだけがあらわになった。客席からはぱらぱらと拍手が鳴った。呆然とステージに立ち尽くしたセイコは、まちがいなく世界でひとりだった。あたしはそれを望んでもいたのに、そのことがひどく許せなかった。
「きゃーりぃ、ぱみゅーぱみゅー」
その歌声が自分の口から出たということに、一瞬気づかなかった。その声は思ったより大きく、場内に響いて、あたりは一気に静まり返った。あたしはいきなりなにを歌ってるんだろう。この歌詞は昔の「新宿」の歌い出しじゃないか。今の「新宿」にはこんな歌詞ないのに、ぜんぜん意味がないのに、なにを歌ってるんだろう。
「みんなのうたはーだれのうたー」
しかし、あたしよりももっと大きな歌声がふたたび場内を支配した。あたしのとなりでキャシーが歌ったのだった。
「びーえるてぃーみたいな」
「きゃんきゃんみたいな」
「じゃんぷ」
「すぷりんぐ」
「すまーとなうた」
ぽつぽつと、しかしたしかに、後ろのほうから観客のうたう歌が聞こえてきた。その歌い方をあたしは知っていた。そのうたは昔の「新宿」だ。昔の、あのころのファンが、この高円寺にはいて、きっとセイコを覚えていて、あたしと同じように、セイコをいまでも好きで、応援してくれてるんだ。
「おーんなのこーだけー、もらえるポケットティーッシュー!」
やがて狭いハコの底が抜けるような大合唱が響いた。あのころの「ピンクセトラ」には壁一面に畳が張ってあって、それが防音の役割を果たしていた。いまはそれはないから、きっと近所中にこの歌声が響いて、きっとすごく怒られるだろうな、と思った。それでいいんだ。だってセイコのうたは、いつだって怒らせるためにあるんだから。あたしたちはうたを歌っている。どういうことか分かるだろう?
セイコはステージ脇のギターを拾いあげ、あたしたちの歌に合わせて「新宿」を奏ではじめた。ぜんぜんチューニングできてないし、そもそも指使いがめちゃくちゃだし、ものすごく下手くそなギターだった。あのころのセイコのギターだ。ものすごく怒っているような、力のかぎり叩きつけるような、あのギタープレイだ。「新宿」を奏でているとき、セイコは無表情で、でも瞳だけはしっかりあたしたちを捉えていた。その瞳もめちゃくちゃ怒っていて、あたしはそのなかに、地平を駈ける獅子を見た。怒っているセイコはものすごくかっこよかった。あたしたちはいつまでもあのころの「新宿」を歌った。何度もなんども繰り返しうたった。セイコのギターはいつまでも止まなかった。怒っているように、世界中を敵に回しているように、奏でつづけた。
やがてセイコの声が出るようになった。セイコはスタンドマイクを蹴飛ばし、あのころのようなものすごいえろい絶叫を生出しでほとばしらせた。
「わたし、新宿がすき! よごれても、いいの!」
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