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「こんにちは、初めましての方も、そうでない方も、名前だけでも覚えて帰ってください。セイコです!」

 その声がしてはっと顔をあげると、セイコがステージに立っていた。やっぱりギターは大きく見えて、肩から吊している紐みたいなのがぴんと張っていて、重そうだった。ライブハウス「無量大数」のスポットライトはちゃちな白熱灯で、セイコの表情はよく見えなかった。うすぐらいなかにピンク色の衣装はよく映えた。それよりも声に存在感があった。あたしが素敵だと思った、セイコの艶っぽい声は、ステージに上がったときわずかにその強度を増したように感じられた。

 客席からぱらぱらと拍手があがる。酔っ払ったおじさんの「パンツ見えてんぞー!」というヤジがあがると、セイコは短いスカートを、ぴら、とめくって応えた。ぜんぜん飾り気のないましろい下着で、あたしは彼女の性生活をちらりと窺い知った気がして、戸惑った。歌声は、セックスの嬌声に似ていると思う。あたしはこれから彼女のセックスを知ることになる。見た目と年齢からして、彼女はきっと処女ではないんだろう。はじめてセックスをしたのはいつだったのか。どんなふうだったのだろうか。あたしは、彼女が初めてうたった歌を聴きたいと思った。

「それじゃあ、さっそく歌いますね。最初は椎名林檎の『歌舞伎町の女王』」

 セイコはギターを持ち直し、ちょっと照れくさそうに曲名を言った。やはり他の出演者同様、コピー曲を歌うらしい。他の出演者もたいがいだったけど、ずいぶんベタな曲を歌うんだなと思った。椎名林檎もベタだし、歌舞伎町の女王なんてベタベタだ。椎名林檎の出身地はちょっと忘れたけれど、たしか東京ではなかったように思う。あの曲は歌舞伎町を知らずに書いた、とどこかで聞いた覚えがある(ミュージシャンにはたまにそういうことがあるみたい。るろうに剣心には「そばかす」なんて出てこないしね)。あたしは東京に来て、新宿のネットカフェで暮らし始めて、歌舞伎町を出歩くことも増えた。朝の歌舞伎町も昼の歌舞伎町も夜の歌舞伎町も、時間や明るさの変化につれ少しずつ顔を変えていくあの町の表情を実体験として知っている。そのうえで、「歌舞伎町の女王」はきっとあの町を知らずに書かれた歌なんだろうなって思う。思うだけだ。それで別に嫌いになったりはしない。好きでもないけど。たぶん、みんなが「好きでも嫌いでもない歌」のほうがよく売れると思う。そういう意味で、歌舞伎町を知らずに書かれた「歌舞伎町の女王」はみんなにとってマストバイだった。

 セイコはギターの弦をすべて弾くようにジャーンと鳴らし、指を当ててぴた、と音を止めた。やはりあまりいい音ではなかった。ただその音が消えた瞬間、ハコのなかが静まりかえった。あんなにおしゃべりしていた観客たちも黙り込み、ステージ上のセイコに集中した。どうしてか頭上を頻繁に通り過ぎていた総武線だか中央線だかも往来を止めた。いま、世界中のすべての音はセイコのためにだけあった。あたしは唾を飲み込む音すらも惜しみ、抱えたままの膝を強く抱きしめ、セイコを見つめた。

 前奏はなかった。いきなりセイコの歌がはじまった。それが初めて観たセイコのやり方だった。

 セイコの歌をきいた瞬間、あたしは、ああ、と思った、セイコのことが分かったと思った。この歌は、分かってるひとの歌だ。新宿を、歌舞伎町を、分かってるひとの歌だ。セイコの声はしゃべってるときとあまり変わらない。セイコはしゃべるように歌う。セイコはステージに立っているとき、ふだんとぜんぜん変わらない。それはもう、びっくりするぐらい。そのままなのに、歌われるたびセイコという人間が帰納法的に細分化されていく。セイコという人間の解像度がぐんと上がる。なんだ、これは。あたしは、歌というものは、もっと特別なものだと思っていた。特別なひとが歌う、特別なうたが、名曲なんだって。セイコの歌は、ぜんぜん特別じゃなくて、セイコはステージに立っているときどこにでもいるふつうの女の子で、それなのに、これまでに聴いたどんな歌よりも圧があった。

 おってギターの音が現われた。あたしにも分かるぐらい、ぜんぜん上手くなかった。はっきり言って、めちゃくちゃだった。怒ってるみたいなギターの音だった。あたしは分かった。セイコはきっと、この「歌舞伎町の女王」といううたが嫌いなんだって。セイコは指をたたき付けるみたいにギターをかき鳴らした。世界に怒ってるみたいな演奏だった。ふつうの女の子が怒ることの威力をあたしは知った。ふつうの女の子はこんなにすごい。それはあたしがセイコの歌を、演奏を、聴いたときの最初の感動だった。セイコはいつか日本にとどまらない世界中のふつうの女の子を救うことになるだろう。あたしはそう確信した。

 セイコの曲はつづいた。どれも有名な曲ばかりで、セイコはそのどれも怒ったようなギタープレイでぶった切っていった。音楽にまつわるもっとも有名なキャッチコピー「No music, No Life」を裏切りつづけた。「音楽がなくたって生きていけるよ」と体現しつづけた。誰もが彼女のめちゃくちゃなギターとそれほど上手くもない歌にだけ耳を傾けた。音楽が消える特別な瞬間を待ち続けた。

 果たして、その瞬間は唐突に訪れた。セイコは、ふう、と息をすることを思い出したかのような溜息を吐いて、演奏を止めた。あまりに突然だったので、拍手は起こらなかった。セイコの息が止まったあとのハコは、世界は、そうあるべきかのように静かだった。

「ひとつだけ、オリジナル曲を作ってきたので、それを今からやりますね」

 セイコは歌のあいまにしゃべらなかったので、セイコのふつうの声をひさしぶりに聴いた。それはすごくひさしぶりな感覚だった。歌を終えたあとのセイコの声はやっぱりふつうで、セイコの歌がしゃべりを宿しているのとおなじように、セイコのしゃべりもまた歌を宿していた。この子はきっと歌を宿している、歌とセックスをして、歌の子を妊娠している、そう感じた。

「……聴いてください。新宿」

 その「新宿」が曲のタイトルだとはじめ分からなかった。セイコはやっぱり歌からはじめて、それを追ってギターの音が現われた。ギターとともに歌われた「女の子だけもらえるポケットティッシュがあたしのお守り」というくだりで、やっとこの曲のタイトルが「新宿」だったんだって分かった。そうだ、あのポケットティッシュは、あたしのお守りだった。この曲は新宿を分かってるひとの歌だ。たぶん、新宿を愛してる人の歌だ。そう思った。あたしと同じだ。ギターの音はもう怒っているような音ではなかった。聴いたことのないような、ひどくやさしい音だった。「いつか子どもが産まれてもギターのほうがかわいい」というくだりで、あたしはボロボロ泣いた。歌を聴いて泣いたのは初めてだった。なのに、どうして泣いているのか分からなかった。あたしはいつか子どもを産むだろうか。そのときに、もっとかわいいと思えるものはあるだろうか。あたしはこれからの人生でそれを見つけたいと思った。それを示してくれたセイコは、あたしにとって信じるべき神さまだった。

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