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それから先のことはあまり覚えていない。とにかく酒を浴びるほど飲んで、酔っ払って、タバコを吸って、いろんなひととキスをかわして、ただセイコとはキスをしなかった記憶だけはたしかにある。オープンマイクといって、みんなが入れ替わり立ち替わりステージに立って自由に歌をうたう時間がはじまった。まあカラオケみたいなものだ。あたしもカラオケに行ったことぐらいあるし、歌えるうたはなくもなかったけれど、楽器演奏してくれるのはセイコだったから、ひどく気が引けてしまった。セイコのギターであたしが歌うなんか許されないと思った。
最後、あたしたちはみんなで「地平を駈ける獅子を見た」という歌を合唱することになった。ここまではみんなメジャーな曲ばかり歌っていて、どれもあたしは知っていたけれど、その歌だけは知らなかった。
「『地平を駈ける獅子を見た』っていうのはねえ、西武ライオンズの球団歌なんだ」
あたしが目をしろくろさせているのに気づいたのか、セイコがそう教えてくれた。ハコに入ってからあたしとセイコはほとんど会話してなかったし、セイコのあの歌を聴いたあとだったから、あたしは初めて彼女と話したときみたいに、いやそれ以上に、ひどく緊張してしまった。
「ええと、ライオンズって、野球のチームですよね。野球、好きなんですか?」
あたしがつっかえながら、とくに興味のないことを尋ねると、セイコはにっこりと微笑んで、
「野球っていうより、西武が大好き」
と言った。あたしは野球に興味がないし、ライオンズのこともまったく分からないけど、彼女に好かれるものはそれがなんであれ幸せだろうと思った。
「なんで西武が好きなんですか? 出身が東京だからとかですか?」
そっちの質問はちょっと興味があって、あたしがそう尋ねると、セイコは恥ずかしそうにギターを鳴らしながら、
「いやいや、西武は埼玉だし。それに、私の出身は愛媛だよ」
と答えた。セイコはたぶん、嫌いなものの話をするとき、恥ずかしそうにする。セイコはきっと、自分の産まれた町のことが嫌いだったんだろう。あたしと同じように。そしてそんなあたしたちを、新宿という町は受け止めてくれた。
「私が西武ライオンズを好きなのは……」
そして好きなものの話をするとき、びっくりするぐらいかわいい顔をする。
「岸が、めちゃくちゃかっこいいから!」
セイコは西武ライオンズのことをいろいろ教えてくれた。松坂という大エースがいたこと。西口はノーノー未遂してばかりでかわいそうなこと。中島は球界最強のショートであること。でも往年の松井稼頭央のほうがかっこよかったこと。顔は涌井がいちばんだけど、入団したばかりの岸にソッコー惚れたこと。あたしは松坂のことがかろうじて分かるぐらいで、ほかはぜんぜん分からなかったけれど、セイコが好きなものの話をするのはとてもよくて、それを聞くのはすごく楽しかった。あたしたちはいつか、岸が西武ドームに登板する日があれば、いっしょに観戦しようと約束した。あたしは笑ってうなずきながら、そういう約束ってぜったい守られないよね、とこっそり思った。セイコが社交辞令を言ってるなんて思わないけど。でもあたしは生きる目標ができたと思って、それはすごくうれしかった。
セイコのギターで、あたしたちは「地平を駈ける獅子を見た」を合唱した。とうぜんあたしには歌詞が分からないので、口パクするしかなかった。あたしに初めて訪れた、セイコのギターで歌う場面は口パクだった。それでいいと思った。あたしとセイコの目が合うと、セイコの目元がやわらかくゆるんだ。あいかわらず深い瞳のおくに、あたしは地平を駈ける獅子を見たと思った。それだけでよかった。
あたしは終電で新宿駅に戻った。深夜の駅構内はさすがに人が少なくて、あたしはセイコから買ったデモCDを片手に、セイコの「新宿」を熱唱しながら歩いた。この素晴らしい歌をまだ誰も知らないと思うと誇らしかった。
あたし、たぶん、新宿が好きだ。
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