二十四歳、高円寺、キャリア

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 新宿という町は、そこにいるひとによって表情を変えると思う。あるいは、そこに立っている人間に問いかける。あなたは何者なのか、と。ホストが、キャバ嬢が、ホームレスが、若手の有能投資家が、徹夜明けのプログラマーが、手首に切り傷だらけの少女が、一代で財を成した社長が、不渡りの手形を出して飛び降りる場所を探している社長が、高層ビルを見上げたときに見える景色はきっと違う。ただ、同じように思うはずだ。自分はどこにいるんだろうと。だから新宿に立っているひとは、みんなさびしい人なんだ。セイコと出会って五年が経ち、あたしは新宿らしいよくできたキャリアウーマンになっていた。

 紀伊國屋書店の裏手にあるカフェに急ぐ。彼氏とは同じ会社なのだし一緒に向かってもよかったのだけれど、「会社には隠したい」と彼が言い出し、そのゲーム感覚がおもしろくてあたしも承諾した。五歳年上の彼は若手のホープなので、あんまりへんに騒がれたくないというのも分かる。技術職の彼とはあたしが入社して以来の付き合いだ。あたしは当時テレオペをしていて、トラブル対応で彼にいろいろ質問しているうち、仲良くなって退社後に軽くお茶をすることが増え、やがてこっそり飲みにいく日もできた。あたしが正社員に昇格したぐらいから付き合い始めた。付き合ってだいたい二年ぐらい。彼の年齢的にも、そろそろ次のステップを検討しそうな頃合いだと思っていた。

 路地裏にあるそのカフェはあたしたちのお気に入りで、行きつけで、思い出の場所でもある。このカフェであたしは彼に告白されたのだった。それなりに彼と仲が良かった自覚なのか、自信なのかはあったけれど、やっぱり社内の二十代では一番か二番ぐらいに人気のある彼に告白されたのは、それなりに誇らしかった。彼いわく、あたしといるときが「いちばん自然に話せる」らしい。都内でも有数の進学校を出て、東大に現役で入って、誰もが名前を知る一流企業の花形部署に配属された彼にとって、「相手に気を遣われる」のがすごくいやだったらしい。あたしはたしかに彼に対して気を遣ってはいなかったけれど、その分ずけずけとモノを言うことが多かったから、どちらかというと嫌われているかもしれないと思っていたし、そんなことで褒めてもらえるのは意外だった。

 古い木製の扉を開け、カフェに吸い込まれる。入ってすぐのところがテイクアウトのコーナーで、らせん階段を降りた地下一階と地下二階がカフェだ。ずいぶん昔からある店なのか、店内の壁を覆うロッジのような木々には年季が入っている。地下一階と地下二階は吹き抜けでつながっていて、天井では青銅色のシーリングファンがぎこちなく回転する。地下一階から階下を見下ろすと、長方形をした部屋のいちばん奥、いつものボックス席にスーツ姿の彼を見つけた。

「お待たせー」

 あたしはそう言いながら彼の正面にある椅子を引いて、平べったいビジネスバッグを片側に置き、もう片方に腰をかけた。彼はコーヒーを片手にテーブル上の書類とにらめっこしていたが、やがて顔をあげ、

「遅かったね」

 と整ったしろい歯をみせた。あいかわらずきれいな顔だなあ、と、見慣れているのにどきんとする。もっとも、顔だけならもっと格好いいひとは同じ会社の同じ世代にも何人かいる。ただあたしは、彼ほど賢くて彼ほど優しい男には会ったことがない。

「そうなの、係長に捕まっちゃって」

 あたしはそう応え、にこやかに笑いかけた。彼は、あたしといるとき自然にいられるって言ってくれたけれど、あたしは彼といるときあんまり自然ではなくて、彼に似合うしっかりした自分を演出する。

 彼がよく通る、しかし嫌味のない声を張り上げて店員さんを呼んでくれた。あたしはいちおう彼が手渡してくれたメニューを開き、いつもどおりアイスのチャイティーラテを注文する。立派なひげをたくわえた店員さんが一礼したあと去っていった。ここの店員さんはみんな上品で、内装も上品で、いつも落ち着いたクラシックがちょうどいい大きさで流れており過ごしやすい。そのうえ、いつもひとがあんまりいない。食事の量がごく少ないうえ、飲み物の値段は相場の倍ぐらいするけれど、申し訳ないがあたしはいつも彼に奢ってもらっているので、その点を気にしたことはない。

「いい物件見つかった?」

 彼がふたたび手元の書類に目を移したので、あたしはちょっと緊張した心持ちで話しかけた。彼の家はいま下北沢にあって、学生時代からずっと暮らしているらしいちゃちなアパートだ。あたしの家は高円寺で、まあ当時はお金がなかったから彼よりもよっぽどひどい築五十年来のアパート。家賃はすごく安く、たしかに節約にはなるけれど、お金のあるいい社会人が暮らすような物件ではない。それに休日会おうと思っても、高円寺と下北沢はだいぶアクセスが悪い。そこで、ふたりで暮らせる物件に引っ越そうという話が持ち上がった。最初は賃貸マンションにするつもりだったし、あたしはそれでもぜんぜんよかった。持ち家にこだわったのは彼のほうだ。うちの会社は支店や工場が日本中にあって、転勤になることを考えればあんまりよくないんじゃないかとあたしは主張した。家を買ったとたんに遠くへ飛ばされる、なんて都市伝説もよく聞くし。しかし彼は「俺もサチコも技術部門だし、海外赴任の希望さえ出さなければ転勤させられることはない」と訴え、持ち家のメリットを並べてあたしを説得しようとした。それでも、あたしはあんまり乗り気じゃなかった。たしかに彼は技術部門のホープだけれど、あたしはどちらかというと派遣に近い雑用だし、営業とか生産に回される話もありえるだろう。もし転勤になったら、あたしは正直、彼よりも会社を取ろうと思っていた。彼が「持ち家を買おう」と言い出したのは、あたしとの結婚を見据えてるんだってことは、わりと恥ずかしがりの彼ははっきりとは言わなかったけれど、とうぜん推察はできた。それも含めて、あたしは気が乗らなかった。あたしは実家と離縁状態にある。そんなあたしが結婚するのは、彼の両親に面目が立たない。あたしは率直にそのことを伝えた。なんか面倒くさくなったというか、どうせいつか別れはくるものだろうと思っていたし、それが今だろうと先だろうとどちらでもいいと思ったのだ。あたしは人生において結婚するつもりはなかったし、結婚するべきだとも思っていなかった。あたしのつっけんどんな言い口を聞いて、彼はあたしから離れるものだと思っていた。彼ならば、こんな面倒くさい女より立派な彼女ができるだろうから。

 でも、彼の選択は違った。彼はあたしの実家に来て、あたしと一緒に謝ってくれると言ってくれた。あたしは嬉しいよりも、呆れてしまった。いったいこのひとはどうしてあたしをここまで必要としてくれるのだろうと。それであの日、あたしは彼にこう訊いたのだ。「あたしのどこが好きなの?」と。どんな答えが返ってきたとしても、あたしはぜったいに心を開かない自信があったから、それは事実上の最後通告のようなものだった。はたして、彼は即答だった。「顔」と。あたしは笑ってしまった。これだけ一緒にいて、自然体でいられるとかすごしやすいとか散々言ってきて、ここで別れるかもしれない最後の場面で言うのがそれかよと。でもあたしは、その言葉がすごくうれしかったんだ。そんなふうに、軽々しくあたしを必要としてくれたことが。それにあたしはとりたてて可愛くも美人でもない地味な顔立ちがコンプレックスだったから、彼の答えはまさかだったし、それも含めてうれしかった。たぶん誰だって顔はコンプレックスだろう。だからあたしは思った。結婚は、顔を愛してくれる人とするべきだ、と。性格とか優しさとか財力とか賢さとかじゃなくて、もっとも軽々しく自分を愛してくれるひとと結婚するべきだ、と。

「サチコはどの物件がいいと思う?」

 彼がそう言って住宅雑誌をいくつか私のほうに差し出した。本屋で買ったものもあれば、コンビニとか駅とかで彼が集めてくれたものもある。几帳面に貼られたカラフルなふせんがはみ出していた。ふとした瞬間にあたしが口にした新居の希望を彼は細かに覚えておいてくれて、メモやふせんなんかにどんどん反映された。仕事でもそうだけれど、まめな人だなあと思う。そして大らかなところはほんとうに大らかで、周りからの信望も厚い。あたしにはもったいないぐらいよくできたひとだ。

「うーん、あたしは、新宿に近ければどこでもいいよ」

 あたしは何度か口にしたその台詞を確かめるように言い、形だけ住宅雑誌をぱらぱらとめくった。職場が新宿なので、そこにアクセスしやすければどこでもいい。十代のころ、あたしが新宿に来たとき、新宿には夢があった。あれから五年たち、いまのあたしにとって、新宿には現実があると思う。あたしが新宿にいるとき、地にぺたりと足がついている。好きでも愛してもいない。仕事も、彼も、そうだ。そんなふうに新宿にあふれているありふれた会社員があたしだった。

「じゃあさあ、中野とか東中野とかどうかな? やっぱり中央線沿いがいいよね? このへんわりと穴場で、お店も多いし、駅近でもわりとお手頃なんだよ。DINKSに人気なんだって」

 彼はそう言って、中野エリアを特集しているページを開いた。彼もそのへんが気に入ってるのか、とくにふせんが多く、蛍光ペンで彩色されたりメモ書きが目立つ。彼がおそらく無意識に口にした「DINKS」という言葉にどきんとした。「Double Income No KidS」の略で、共働きで子どものいない世帯を指すらしく、少子化とともにとりわけ都市圏では増えつつあるそうだ。あたしは彼に「子どもはいらない」と主張したことはあっただろうか。いや、あたしはあたしたちのあるべき将来像について彼に語ったことは一度もないはずで、子どもの話もぜったいにしてない。ああ、だからそのことに気づいたのか。彼がふせんをつけている物件はせいぜい2LDKぐらいの広さのものばかりで、ふたりの年収からすればもっとずっと広い物件も手が届くだろうに、彼が子どものいない生活を見据えていることは明らかだった。彼はよく子どもに好かれていたし、きっと彼も子どもが好きだった。男としても、人間としてもよくできている彼は、きっといいお父さんになれるはずだし、なるべきだ。にも関わらず、彼はきっとあたしに気を遣って、子どもを持たない人生設計を選ぼうとしている。あたしはそのことを、申し訳ないと思えないことをなにより申し訳ないと思っている。彼のことは間違いなく好きだ。でも、彼があたしを好きな気持ちが100とすれば、あたしが彼を好きな気持ちは1か、0ですらあるかもしれない。つまり、「好き」のニュアンスが違う。

「聞いてる、サチコ?」

 彼は物件の説明をしてくれていたようで、ひとさしゆびで立派なモデルルームの写真を指さしながら、ちょっと怒ったかのように頬をふくらませてみせた。こんなふうに、子どもっぽいところも、そういうふうに好きだ。

「うん、あたしは、中央線沿いがいいな」

 あたしは笑って髪の毛をかきわけ、そう応えた。新宿にアクセスがいい物件なら、山手線沿いでもいいし、直接つながってる地下鉄は無数にあるし、いまのあたしたちなら徒歩圏内にマンションを買うこともできる。それでもあたしは中央線がいい。中央線のすぐ近くのやかましいマンションでいい。いつも中央線の電車の音を聴いていたい。あたしが初めて東京に来て、新宿に向かうとき、乗ったあのぎゅうぎゅうの中央線。汗と香水とタバコと酒の混じったようなにおい。窓のむこうを流れていくきらびやかなひかり。東京でたぶんいちばん自殺者の多い路線。中央線はあたしの生命線だ。東京にいるとき、その生命線があたしを生かしてくれるし、また死なせてもくれる。東京にいる誰にとってもそうだろう。東京は死と生のさかいがあいまいな町だ。この町で暮らすDINKSたちは、ピルとコンドームで命を合コンのサラダよろしく丁寧により分けながら、死なないようより添って生きる。たった0.01㎜のたしかなさかい。中央線の駅になぜかよく落ちている使用済みのコンドーム。

 金曜日だったので、あたしたちは近くのイタリアンレストランで食事をとり軽くお酒を入れたあと、新宿駅近くの高層階にある見晴らしのいいバーでゆっくりワインを飲み、ほとんど終電で帰ることにした。最近の週末はいつもふたりで過ごしている。あたしは下北沢にある彼の家のほうが好きなのだけれど(彼の部屋は古くて狭いが、センスよく整理されているのでとても居心地がよい)、終電の時間が早いし、明日は中野に行って物件を見る予定だったから、アクセスのいい高円寺にあるあたしの家に向かった。高円寺駅からアパートまで歩いて十五分ぐらい。高円寺の夜はいつも小汚くて、やかましくて、無駄にエネルギッシュ。あたしと彼はいつも手を繋いで歩くのだけれど、高円寺を歩いているとき、彼の手はいつもより冷たくて堅い。彼は口に出して言ったことが一度もないけれど、きっと高円寺が苦手なのだろうなあ、と申し訳なくなる。でも、高円寺での暮らしももうすぐ終わりだ。それは、彼のためじゃない。あたしのためだ。もうあたしは高円寺を離れてもいいはずだ。高円寺はいつまでも住んでいていい町じゃない。もうあたしはサブカルを手放してもいいころあいだ。サブカルはいつまでも触れていていい文化じゃない。あたしが高円寺に住みだしたころ、ちょっとだけ身体になじませたことのあるサブカルを忘れてしまいたい。高円寺に来て最初に聴いた音楽のことも、あたしはもう忘れそうになっていた。あのギターの下手な女の子の名前は、なんだったっけ?

 アパートに着くと、あたしたちは鍵もかけず、電気もつけず、ベッドになだれ込んだ。彼が獣のようにあたしの首筋を求め、内耳に舌をはわせ、したくちびるに歯を立てる。彼は自分の家でするときよりも、あたしの家でするときのほうが乱暴だ。高円寺の町を歩いたフラストレーションがそうさせたのだろうか。はじめは彼らしくもない野性が怖いこともあった。気持ちいいよりも先に気持ちわるいがくることのほうが多かった。それにあたしにとってセックスは、バイトだったから。でも彼と一緒の夜をすごすたび、はげしい夜とやさしい夜を交互にくりかえすたび、彼のちょっと手慣れていない愛撫をあたしの身体は受け入れていった。かわいていた心がゆたかに湿度をふくみ、かたいものをちゃんと受け入れる準備をととのえていった。それはけっして簡単なことではなかった。苦しくて痛いだけだった最初の夜からおよそ二年。たった二年といえば二年だが、それはあたしたちに気の遠くなるような時間と我慢を要求した。そしてあたしたちは手を取り合って身体を寄せ合って辛抱づよくそれを乗り越えた。いまあたしは彼ととても幸せなセックスができる。それは彼があたしにくれたプレゼントのなかで、どんなものよりも価値のある、かがやかしい未来そのものだった。あたしは彼をそれほど好きではないけれど、間違いなく彼といるとき、あたしは未来の存在を信じることができる。それはまたあたしの過去をも肯定してくれる。彼が教えてくれたこと、それは、「人間は変われる」ってことだ。そんな陳腐な事実をたずさえて、あたしはちっとも陳腐じゃない高円寺という町から去っていく。

 彼はあたしの上で三回果てて、あたしは一回いった。彼は生まれ育ちのわりに女性経験が乏しいみたいで、最初はどこで覚えたのかへんな体位をやりたがったが、いまは正常位に落ち着いた。あたしは彼の顔が見られるその体位がいちばん好きだ。AVに出ていたころはいちばん嫌いな体位だったのに。彼のうつくしい顔はあたしを抱いているときほのかに歪んで、その表情がとても愛らしいと思う。いく一瞬手前の顔つきが一番好きだ。彼にその表情をさせたことをとても誇らしいと思う。

 布団のうえでまぐわっているうちにひどく暑くなってしまったので、ぐったりと横たわっている彼の胸板にキスをしたあと、あたしは立ち上がり、カーテンと窓を開けた。あたしのアパートは高円寺の繁華街からは離れているので、窓を開けてもとてもしずかで、あかりもよわく、気持ちのいい風が吹く。すう、と息をすると、夜の匂いだなあと思う。うえを見あげると雲ひとつない空にあかるい満月が浮かんでいて、星はまったく見えなかった。東京のそらに星は必要ないと思う。地上を生きているあたしたちこそが星だからだ。月のしろい光だけがあたしの裸をかがやかせる。月の光だけがあたしの裸のほんとうの価値を知っている。一晩で一万円。東京の月よ、どうかあたしに、嘘をつかせて。愛してくれるひとに愛してもらうためだけの、ささやかな嘘を。一生につける嘘がもしひとつだけだとしたら、あたしが彼に会ったとき、処女だったことにさせて。

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