二十五歳、無量大数、バイト

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 あたしはオフィスビルを出た。これまで早退したことや遅刻したことは一度もなかったので、こうして早朝の新宿をゆっくり歩くのは久しぶりだった。ビル街を反射するやわらかい太陽のひかりをひとしきり楽しんだあと、あたしが最初にしたのは、彼氏の電話番号とメールアドレスを着信拒否に設定したことだった。家はそうそうに引き払うつもりだし、もう会うことはないだろう。彼はたしかにすばらしくいい子だったし、同棲とか結婚を考えたこともあったけれど、あたしの人生にいないひと、というかんじはずっとしていた。新宿で出会った彼氏なんか、往々にしてそんなもんだろうと思う。

 あたしはひさしぶりに思う存分新宿をたのしみたくて、しばらくぶらつこうかと思ったけれど、これといって行きたい場所は思いつかず、コンビニでスイーツの新作を物色したあと、ネットカフェに向かった。あたしが新宿に来てすぐ、住み処に決めたあのネットカフェだ。雑居ビルのいちばんうえにあるそのネットカフェは、時間が止まったかのようにまるで様変わりしておらず、あいかわらず狭くて、汚くて、臭かった。いまのふところ具合なら、いちばんいいブースを選ぶこともできるのだが、当時の気分を味わいたくなり、いちばん安いビジネスブースを借りた。あのころのようにジュースサーバーから入れたカルピスを三杯並べたのち、漫画を物色することにした。ちゃんと新作を入れていないのか、漫画もあまり変わっておらず、古い漫画が目立ち、どの背表紙もモノクロームに色あせていた。わずか入っている新作のなかでは「闇金ウシジマくん」という漫画を立ち読みしたら面白くて、五冊ずつブースに持ち込んで次々と読んでいった。いわゆる裏社会を扱った昔からよくある青年漫画で、ふだんならそこまで惹かれないと思うのだが、ネットカフェで読むのはなかなかにエモい。とくに新宿歌舞伎町のネットカフェで読む「闇金ウシジマくん」にはちょっとしたカタルシスを覚える。ネットカフェにある巻までを読み終えるとだいぶ満足し(とはいえ続きは読まないと思う。そんな類いの漫画だった)、カルピスを飲み足すと、トイレに行ってから、精算をしてネットカフェを出た。あたしの足はしぜんと明治通りを歩き、かつてのように大久保へ向かっていた。

 新宿は店の入れ替わりが激しいのだけど、大久保はあまり変わってなかった。ただ、外国人は増えていたし、それに、あたしがバイトしていたAVの撮影所もなくなっていた。雑居ビルの入り口の暗証キーは変わっていて、人が行きかう隙に乗じてなかに入ったのだけれど、あの部屋はもぬけの空となっていた。三階の片隅にあった、狭くて、汚くて、臭い部屋。扉の鍵はかかっておらず、あたしはその部屋に入り、なにもないことに気づき、しばらく呆然とした。壁紙のしみにそっと手を触れる。あのころもこんなしみがあった気がする。あたしはたしかにこの部屋にいて、たしかにたくさんセックスをしたんだ。人生でいちばんセックスをしたのがこの部屋だし、これからもそうであっていてほしい。あたしはもうあんまりセックスをしたくない。

 ふいにあたしはあたしの価値を確認したくなり、ネットカフェに戻って、自分の動画を探した。あらゆるキーワードで検索したが、あたしの動画はどこにも見つからなかった。「forced」で検索しても、「creampie」検索しても、「blowjob」でも、「titsfuck」でも見つからなかった。まああたしのフェラは「痛い」って不評だったし、胸はそんなに大きくないし。あたしの下手くそなセックスはどこへ行ってしまったのだろう。あのころ何度も付いていた「Who is she?」というコメントすら、どこにも見つけることができない。誰もあたしが誰なのか、尋ねてはくれない。あたし以外には。

「きゃーりぃ、ぱみゅーぱみゅー」

 新宿を歩いていると、いきなりそんな歌が聞こえ、ふりむいた。新宿らしい、どこにでもいそうな女の子が歩きながらそんな歌をうたっていた。あたしは思い出した。この歌、「新宿」だ。あたしが新宿に来て間もないころ、高円寺にいた女の子がうたってくれた歌だ。あの女の子の名前を思い出した。そうだ、「セイコ」だ。どうしてそんなことを忘れていたんだろう。

 五年前、あたしも同じように「新宿」を口ずさみながら新宿を歩いたはずだ。あのころ、「新宿」といううたを知ってるひとは誰もいなくて、そんな歌をうたえることが誇らしかった。いまはどこにでもいそうな女の子すらあの「新宿」といううたを歌う。セイコはそのくらい売れてるんだろうか。セイコは今どこにいるんだろう。彼女はいったい、誰なんだろうか。あたしはいま、何よりもそのことを知りたくなった。

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