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日曜日は寝てすごした。そのぶん夜はあんまり眠れなくて、入眠と覚醒を何度か繰り返したのち、朝五時ぐらいに諦めて出社の用意を始めた。AV女優だったことを突きつけられた瞬間からくすぶっている何かをまぎらわすことができるなら、仕事だろうとなんだろうとどうでもよかった。
そとにでると、まだ太陽が上がりきってはおらず、高円寺は淡いひかりに包まれていた。繁華街に入るとあちこちにゴミやゲロが散らかっており、カラスがしきりに宙を舞う。あちこちに色濃く染みついている人間の匂いが忘れものみたい。朝の高円寺は忘れものの町。もうすぐ離れるだろうと思っていたこの町が、今になって無性に愛おしくなった。高円寺と新宿がつながってるなんてことみんな知ってる。中央線という生命線で。
通り道にあるコンビニで野菜ジュースとパスタサラダを買い、JRに乗って新宿へ向かった。ふだんは乗らないぐらい早い電車だったが、この時間でも椅子に座れないぐらい乗客は多く、すでに町が動いてることにおどろいた。「この町は眠らない」って言ったのは、誰だったっけ?
新宿駅構内にもひとが多かった。あたしは人混みをかき分けながら会社に向かった。東京特有の人の波も住み始めた当初は戸惑ったけれど、流れに乗るやり方を身になじませれば歩くのに苦労はしない。とくに新宿はテンポが速いけれど、いまでは目をつぶっていてすらも歩けるような気がする。いつものように早足で歩いていると、バッグのなかの携帯電話が震えた。歩きながらメールを確認する。彼氏からのメールで、「今日、仕事が終わったあと、会える?」と書いてあった。タイミング的に新居のことを話すんだろうか。いや、いまなら結婚の話が出てもおかしくない。あたしはメールを返さないまま携帯電話をたたみ、逃げるように歩く速度を早めた。どれだけ速く歩いていても、新宿という町はあたしを受け止めてくれる。受け止めてしまう。新宿から逃げられるのは中央線だけ。山手線は何度でも新宿に巡り会ってしまう。
オフィスに着くと、あたしの働く技術部門のエリアの照明はすでに点いていた。パーティションのおくには部長の姿がみえた。あたしは技術に配属されて間もないし、いちばん下っ端なので、部長と話したことは飲み会含めてもほとんどない。とにかく優秀な人物だという噂は漏れ聞こえていて、彼氏も部長のことを話すたび惜しみない賛辞を与えた。あたしの知るかぎり、部長の口数は少なくて朴訥とした人物のようにも見えるが、会議中なんかでたまに口を開くと誰も気づかなかった切り口で要点を捉える。そして真面目で実直で、誰よりも早く会社に来て、誰よりも遅く帰るという。たしか奥さんと子どもがいたと何かの折に聞いたが、彼が家族のことを口にしたことはないし、あんまり顧みることもなさそうな、いまどき珍しい仕事人間だった。
「おはようございまーす!」
あたしは広いフロアの奥にいる部長に届くよう声を張り上げ、自分の席に向かった。パーティションの向こうで部長の頭が揺れた。若くして部長になった彼にまだ白髪はなく、いつもワックスできれいに固めている。ダンディな人だと思う。
ノートパソコンを開くと、すぐにオフィス用の管理ソフトが立ち上がった。パソコンはコンパイルとかCADにも使用するので、高性能なものを与えてもらっており、起動は速い。あたしは片手でメーラを立ち上げながら、もう片手でバッグから野菜ジュースを取り出した。いつも朝食は紙パックの野菜ジュースだけ。この習慣は就職してから始めた。まわりには万事において意識の高い先輩が多かったので、あたしも影響されたわけだ。いまではビジネス雑誌も読んだりする。
メールは十数件ぐらい届いていた。土日でも在宅で仕事をしたがる同僚は多いので、こうして月曜の朝にはそれなりの数のメールが溜まっている。だいたいあたしはCCで入ってるだけで、仕事に関わる重要な用件はないので、流し読みしながら野菜ジュースを飲もうとしていると、見慣れないメールが目についた。タイトルは「打ち合わせ」と一言だけ。本文はない。たったいま届いたメールで、送り主は部長で、送り先はあたしだけだった。あたしがいま出社してきたタイミングで送られたメールなのだと分かった。
「ちょっといいか?」
すこしハスキーに嗄れた低い声がして、あたしが顔をあげると、そこに部長が立っていた。部長はなにかを促すようにうなずき、スーツのポケットに両手を突っ込んだまま、奥にあるミーティングルームに向かって歩いた。着いてこい、という合図なのだと分かった。あたしは昼ご飯用に買っておいたパスタサラダを冷蔵庫に入れておきたかったのだけれど、なにかを思い詰めたような部長の表情が懸念されて、仕方なく手帳とボールペンだけを携えてミーティングルームに急いだ。
重役会議でも使われるミーティングルームにはゼロの字の形をしたテーブルが中央に場所を取っていて、そのまわりをしっかりしたオフィスチェアに囲まれている。海外とのテレビ会議でも使われる巨大なディスプレイの手前に部長が座っていた。部屋は暗く、ディスプレイはあおく光っている。なにか映すのかと思ったらそうではないらしい。ひかりが影になり、部長の表情は見えなかった。
「……失礼します」
あたしはちいさい声でそう言い、部長からすこし離れた椅子に座り、手帳を開いた。その手帳はちょうど入社したときに買ったもので、会議のメモが細かに記されている。世界に名を知られたこの一流企業に就職が決まったとき、あたしはかなり前のめりだったし、それは今も変わらない。手帳は五年間のあたしのがんばりで埋まっている。そろそろ買い換えようと思っていた時期で、新宿の百貨店に寄る機会があれば、文具コーナーでどんな手帳がいいか品定めしているところだった。
部長はうなだれたまま、ふー、とながい溜息を吐いた。正面にくんだ手のゆびを遊ばせる。左手の薬指に指輪がひかる。聡明な彼らしくもなく、言うべき言葉が定まっていないような、そんな仕草だった。いったいなにを言われるのだろう。あんまりいい話ではなさそうだった。異動だろうか。いや、そんな時期ではないし、会社の業績も右肩上がりだ。彼氏との付き合いがバレたのか。いや、うちの会社のしっかりしたコンプライアンスからして、また真面目な部長の性格からして、そんなプライベートに無作法な手を入れるような真似はしないはずだ。じゃあ、いったいなんだ? なにかを予期したあたしの背中につめたい汗が流れていった。
「……うちの会社の社訓、言える?」
部長はほそい、しかし芯のしっかりした声でそう呟いた。あたしを試しているふうではなさそうだった。たぶんその答え方によって彼の結論が決まったりしない。部長としての、そしておそらく会社としての、結論はもう出ているのだ。
「『すべての技術は社会のために』ですよね。英語でいえば『Technology for their society』。中国語でいえば『全技术为了丰富的社会』です」
あたしは姿勢をととのえ、そう応えた。ああ、クビなんだな。あたしの無駄に優れた観察眼は、部長の堅い表情と、わずか打ち解けた口調にふれ、きっとそうなんだろうと教えてくれた。その理由までは分からないけれど。とにかくあたしは最後までこの会社にいられたことに胸を張っていようと思った。ろくに学歴のないあたしがこの会社の正社員になれただけでもすごいことだ。でも、もうちょっとだけ働いていたかった、かな。うちの会社は中国での生産に力を入れており、現場監督として毎年交代で何人かの若手社員を送り込んでいる。あたしは中国で働いてみたかったから、がんばって中国語を勉強していた。ほかにも海外にたくさん支店があったから、どこかに異動して働きたいと思い、毎年のキャリアプランでは決まって希望を出していた。いまではあたしは英語の映画を字幕なしで観れる。英語は、どこかへ行くための魔法の言葉だ。あたしはそうやって、どこかへ行きたかった。田舎にいたころは、そのどこかとは新宿だった。そしてあたしは新宿に来て、また別のどこかを探していた。新宿はいつもそうやって通過することを許容してくれる町だった。あたしの嫌いなあたしの田舎は、海沿いにある港町で、町の中心部には単線のひなびた鉄道の終着駅があった。あたしはその駅がきらいだった。新宿駅はそうではない。新宿はあたしの人生の終着駅じゃない。
「立派だ。僕は、君にはそう遠くなく中国に行ってほしかったよ。専務に話したこともある。悪くない反応だった」
部長はあたしを見ないまま、しきりに頷きながらつよい口調で言った。どうして過去形なんだろう、とは思ったけれど、部長の言葉はうれしかった。その言葉は、嘘じゃないって間違いなく分かったから。
「じゃあ君には分かるだろう。技術と、社会と、どちらが先にあるべきだと思う?」
部長は顔をあげ、今日はじめてあたしを正面から見据え、そう言った。おなじ質問を採用面接のときにもされたような記憶がある。あたしはあのとき、なんて答えたんだろう。それは会社の存在意義をかたるうえで、究極的な質問だったし、あのときは、あたしの行方を左右するかもしれない重大な質問だった。いまはそうではない。だってあたしは、その答えを明確に分かってる。あたしはこの会社にあたしが存在したことの意義を、明確に分かってる。あたしはあれからあたしであることを迷ったことが一度たりともない。
「社会です」
あたしは寸分の間も置かず、即答した。部長はふたたび頷き、しかし椅子をぎいと回して身体ごとあたしから顔をそらした。部長の目のまえには何も書かれていないホワイトボードがある。部長は黙ったまま、しばらくそれを見つめた。そうしていれば、彼の言いたい、あるいは言いたくない、言葉がしぜんと浮かび上がるかのように。
「インターンシップの担当をしてくれたよね。あれは助かった、ご苦労様」
部長は感情のふくまない声で、ぎこちなく呟くように言った。いきなりインターンシップの話がでて戸惑った。それはあたしがクビになることとなにか関係があるのだろうか?
インターンシップはうちに就職を希望している大学の一、二年生を集め、大学が休みとなる夏に一ヶ月の日程を組んで行われた。あたしは技術部門として参加し、ちょっとした講義とか製品説明をしたり、プログラミングの手助けをしたりした。アンケートを見る限り、学生からの評判は上々だったと思う。少なくとも5点満点の評点では、平均は4.7だ。3点以下を付けた学生はひとりもいなかった。
あたしがしばらく黙っていると、部長はつづけて言った。
「その、インターンシップに参加していた学生と話しているときに、ふと君の話になってね。まあ9割はいい話だった。すごく分かりやすかったって褒めてくれていてね。ぜったい就活では第一希望でいきますって前のめりだった。まあ、あんまり優秀な生徒じゃなかったから、彼を採用するかどうかは、これからのがんばり次第ってとこだろうけれど」
部長の含みのある言い方が気になった。9割? もう1割は? それが、あたしがクビになる理由か? だとすれば、あたしにはなんとなくそれが察せられた。おととい、同じものを突きつけられたばかりだった。これが共時性というものか。あたしの身体からみるみるうちに力が抜けていった。
「彼がね、インターネットの動画サイトで、君を見つけたって、そう言ってたんだ」
部長は、今日いちばん低い、冷たい声でそう言った。彼にそう言わせたことを申し訳ないとすら思った。きっと部長もその動画を観たんだろう。申し訳ないにもかかわらず、観てどんなふうに感じたか、訊いてみたかった。これが最後だから、迷惑のかぎりを掛け倒しておきたかった。でも、クビになるってことは、その答えは訊かなくても分かる。
もしもあたしがあのAVでもっとうまくやれていたら、あたしの人生は変わっていただろうか。たとえばいま部長を誘惑して、この会社にとどまりつづけることもできただろうか。それを糧に出世して、ずっと豊かな暮らしができただろうか。そう思えば、あのAVはあたしの原点にして終点だった。AVはバイトだと軽く考えていたし、なにもしなくていいと思っていて、すごく楽だった。でもほんとうは、なにかをするべきだったのだろう。どこかにいきたいなら、なにかをするべきだ。それはいま考えても仕方のないことだ。そのなにかは、新宿の、あたしが形作られたあの場所にしかないんだ。
「幸い、この件は僕しか知らない。学生には『きっと勘違いだろう』と伝えておいたし、インターネットに詳しい弁護士を通じ、動画サイトには削除依頼を申請しておいた。でも、社会貢献を社訓に掲げる企業として、僕と君は、責任を取らなくてはいけない」
そう言った部長の表情はさびしそうに見えた。暗闇にぼんやりうかぶ瞳はにじんでも見えた。
「いまなら会社都合の退職として君の件を処理することができる。どうするかは、君が選んでいい」
彼はそう言って、一枚の紙をあたしに差し出した。パソコンで打ち込まれた退職届にはすでにあたしの名前が入っていた。理由の欄には「部長によるセクハラ行為が改善されないことにより」と書かれていた。そうか、これが彼の責任なのか。
部長が責任を取る必要はないと思った。でも、それはあたしに言えることではなかった。あたしは部長のこれからの人生を知る権利がない。部長があたしの人生を見届けることがないように。あたしにできるのは、印鑑をつくことだけだった。ただそれだけで彼との関係は終わる。そのことだけがいまは悲しかった。部長はたぶん、あたしをちゃんと見てくれていたし、労ってくれていたし、もしかすると、愛してくれていたんだろう。もしかしたら彼氏よりもずっと。だから最後、部長になにか言いたかったし、彼のかさついた肌に触れてみたかったけれど、空しいだけだから、止めた。セックスなんかでは繋がれない関係もある。あたしのAVを見たとき、彼はもしかすると悲しかったんじゃないかと思えば、そのことがいちばん申し訳なかった。
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