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 次の物件の内見まではしばらく時間があったので、中野駅近くのカフェ・ベローチェではやめの昼食を摂ることにした。駅に向かうまでのあいだも、ベローチェに向かうまでのあいだも、彼は必要最小限しかしゃべらなかった。ああ、彼はあのマンションを気に入っていたから、機嫌が悪いんだなあと分かる。あたしは他人の心の機微を捉えることに長けているけれど、相手が友だちなんかだと逆にわざとらしすぎて、うまくいかないことが多い。特に女性は分かられていることに敏感で、ともすればあたしが相手を見下しているような印象を与えてしまう。だからあたしに女友だちはほとんどいない。けれど、彼はその点においていい意味で鈍感で、付き合いやすいし、操りやすかった。このときも、彼は食事を終えておなかがいっぱいになれば機嫌を直してくれるだろうと分かっていた。仕事で関わる以外の他人に鈍感ではあるけれど、セルフコントロールには長けているし、ちゃんと時間をかければ自分の機嫌は自分で取ってくれる子だと信じている。

「……さっきの物件、あんまりだったかな?」

 サンドイッチを食べ終えると、彼はコーヒーを飲みながらぽつりと言った。ほうら、ぴたりと機嫌を直す頃合いだった。

「あたしは嫌いじゃないけど、もうお部屋は埋まりそうだったしさ。焦って決めないほうがいいよ」

 あたしは余裕のある笑みを浮かべ、諭すように、やさしい声を作っていった。半分は嘘で、半分は本当。前半が嘘で、後半が本当。あんな部屋に住みたくないし、別に急いで決めなくたっていい。

「なんか、ごめんね。でもありがとうね。一緒に部屋を探してくれて、いろいろ考えてくれて」

 彼はちいさい声でそう言った。やっぱりやさしくていい子だなあと思う。仕事中はキレ者で有名だし、他人にたいして厳しい一面も多々みせるけれど、プライベートでは温厚で、ほんとうにいい子。

「ううん、あたしこそごめんね。さっきの物件、気に入ってたんでしょ?」

 あたしはそう言い、テーブルのうえの彼の手をそっと包む。彼は図星をつかれたかのごとく、てれくさそうに笑った。よし、これでもうあの物件について話すことはないだろう。彼はやっぱり、やさしくて、いい子で、ちょろい。

 コーヒーのおかわりをし、雑談をして時間をつぶしたあと、次の物件に向かった。そちらの物件はあんまりだった。駅から遠いし、飲み屋街が近くて治安が悪そうだし、価格も高い。都内有数の戸数を誇る巨大なマンションとのことだったが、意味もなく共用施設が充実していて、川の流れる立派なビオトープなんかは維持費がかかりそうだ。販売員の男性もいかにも新人ってかんじで、よく噛むし、説明は下手だし、なにもいいところがなかった。とはいえあんまり早く出ると次の物件に向かうまでの時間を持て余すだけなので、あたしと彼はちょっと意地悪な質問をして時間を潰した。それほど高層階ではないのだけれど、ベランダから見える景色だけはなかなかよかった。東京の郊外に広がる住宅地が夕闇に染まりつつある頃、あたしと彼はその物件を出て、電車に乗り、東中野にある最後の物件に向かった。

 外観を見るかぎり、その物件は今日これまでに見たふたつよりずっと劣って見えた。駐車場はないし、駐輪場も少ないし、共用施設もなければ、管理人さんもいない。いまどきゴミ出しは二十四時間OKじゃない。その物件は築二年以上経つけれど、まだ埋まっていない部屋があるところからして、お察しといったかんじだ。駅のすぐ近くにあるところが最大の長所だろうけれど、あんまりに近すぎて電車の音がうるさそう。エントランスのインターフォンを押して販売員さんを呼ぶ。受け答えをしてくれた女性の声もやる気がなく、面倒くさそうで、自分らで最上階まであがってくるように言われた。あたしと彼は顔を見合わせて苦笑する。この物件もないな、あたしたちは何も言わないまま、その認識を共有した。今日はこれで終わりだと思うと、思いのほか緊張していたのか、肩の荷が一気におりた。エレベーターのなかで彼とくだらない冗談をかわしながら最上階に向かった。今日いちばん自然体で内見に向き合ってるかもしれなかった。

 モデルルームは十五階のいちばん端にあった。エレベーターとは逆の方向だったので、しばらく廊下を歩いた。今日みたほかの物件はホテル風の内廊下だったけれど、この物件の廊下はベランダになっていて、背の低い柵の向こうに中央線が見える。あたりはもう薄暗くなっていて、電車がきらきら駆けていく様子がきれいだった。十五階の部屋はわりと埋まってるみたいで、各戸の扉の横にはクーラーの室外機が設えてあった。どの部屋の玄関もきれいに掃除されているどころか、ほとんど人の気配を感じない。中央線の電車が去っていくとあたりは息を止めているかのように静かだった。幽霊の住み処みたいに不気味な物件だと思った。

 モデルルームのインターフォンを鳴らすと、だいぶ長く待たされたのち、ゆっくりと扉が開いた。扉の向こうからは肌の色が病的に白い女性が顔をのぞかせた。ひどく痩せて頬がこけているが、瞳だけは大きく、ぎょろんとあたしを見つめる。彼氏はそのときベランダの向こうの景色をデジカメの写真に収めていたので、彼女とあたしだけが正面から向き合うかたちとなった。妙な既視感があった。ぼんやりしているうち、彼女は扉を大きく開けてくれて、

「内見の方ですよね。どうぞ、お入りください」

 と弱々しい声で言った。あたしは部屋を間違えたのかとちょっと思っていたので、一息ついて安心し、

「おじゃまします」

 と言ってなかに入った。いちばん奥の部屋まで彼女が案内してくれた。彼女の長い髪は派手な金色にも見えるが、ひどく痛んでいるので、ブリーチしてカラーを入れたのち退色してしまったのだろう。彼女の後ろ姿を見て、あたしが感じている既視感の正体が分かった。彼女は新宿に来たばかりのころのあたしに似てるんだ。AVに出演しはじめたころのあたしみたいに、なにかに疲れていて、なにかに怯えているんだ。

 テーブルにつくと、彼女はあたしと彼のぶんのオレンジジュースを入れてくれた。あたしたちの希望は2LDKだと伝えると、彼女は実際の部屋を見せてくれようとしたが、あんまり興味がなかったし、時間もなかったので、あたしたちは体よくお断りした。その代わり、モデルルームのなかを見せてもらうことにした。彼は入ってすぐの書斎が気に入ったみたいで、立派なオフィスチェアに座って社長気分を楽しんでいるうち、書棚に置かれたビジネス書を読みはじめてしまった。彼は自己啓発本が好きなので、こうなるとちょっと長い。異様に集中するし、取り上げようとすると本気で怒りだす。面倒くさいので、飽きるまで放置することにした。

「ごめんなさいね。彼、この物件が気に入ったみたいで」

 あたしは社交辞令の一言を口にして、販売員さんにわざとらしく笑いかけた。彼女はじっとあたしを見ている。化粧が濃いのでわかりにくいけれど、顔つきからして二十代の前半ぐらいだろうか。たぶんあたしよりちょっとだけ若い。よく見ると顔立ちは悪くなく、むしろ肉をつければかなりかわいらしく化けるかもしれない。もちろん、痩せることにこだわる気持ちも分かる。AV出演に慣れたころのあたしもそうだった。ネットカフェのソフトドリンクさえ飲んでいればおなかは減らなかった。バイトをしているとき、AV男優に「あばら骨が当たって痛い」と文句を言われたこともある。それで、あたしはますますダイエットに執心した。痩せたいという気持ちは、不足から来ている。不足を不足というやり方で解決するため、もっと足りないことを求めるようになる。

「あの……すいません、言わないほうがいいことかもしれないんですけど……」

 彼女はふいにつっかえながらそう言った。さきほどまでの下手くそな営業トークとは違い、ずっと自然な言い口だった。営業の話ではなく、プライベートの話をするのだと察したが、彼女とは初対面なはずだし、彼女の顔を見てもどこかで会った記憶はなかったので、いったい何を言われるんだろうと戸惑った。

 彼女は立ち上がり、扉のむこうに目をやって、書斎にまだ彼がいることを確認すると、声をひそめて言った。

「……あなた、サチエさんですよね?」

 あたしの背中が一瞬で凍りつくのを感じた。にも関わらず、どうしてかあたしは笑っていた。サチエという名前を忘れるはずもない。それは、あたしがAVに出ていたときの名前だ。あたしの本名はサチコで、AV女優としての名前はサチエ。この芸名は、初めてAVに出たとき適当につけたものなのだけれど、変えるのが面倒くさくてそのまま定着させてしまった。あたしはそのぐらいAVに出ることに抵抗がなかったし、どうでもいいと思っていた。その反動がいまこの場所におとずれるという因果にびっくりしたし、笑うしかなかった。

「ああ、やっぱり」

 あたしの表情を見てさっしたのか、販売員さんが初めて心の底からうれしそうな笑顔を見せた。反面、わずかに毒気のあるいやな笑顔だと思った。若い女性特有の、見下せる相手を見つけたときの。

「私、AVを見るのが好きで、よくネットの無料動画サイトを巡回してるんです。好きなタグは『forced』とか『creampie』とかですかね。英語はぜんぶ海外のAVで覚えました。でも海外のってほんとうに質が悪くて。あとやっぱり、外人ってエッチのバリエーションが少ないですよね。日本人はあんまりエッチしないっていうけど、たぶんいちばんエッチが上手いのは日本人ですよ。だから私は、日本のAV女優をすごく尊敬してるんです」

 彼女は目をらんらんに輝かせ、さきほどまでの陰鬱とした語り口が嘘のようにはきはきとしゃべった。

「私はこんな仕事をしてるくせに、人間とかぜんぜん好きじゃないし、お客さんの顔もすぐに忘れちゃうんですけど、AV女優だけは別です。私はたぶん、今までに見たAV女優を、百人か二百人か、ぜんぶ覚えてます。サチエさんもそう。すごい、実際に会えるなんて思わなかった。AV女優に会ったの初めてなんです。すごいうれしい」

 彼女は嬉々として語る。あたしは作り笑顔のパックが乾いて張り付いたかのように顔中が痛かった。とにかくまずいなと思ったし、逃げるタイミングをうかがって、ちら、と間口を見やった。しかし彼を置いて逃げるわけにはいくまい。別に彼にバレたからといって、それで別れたからといって、あたしには困ることなんてひとつもない。仕事をクビになったって構わない。最初、あたしはAV女優だったことを弱みにつけこんでマンション購入を迫られるのかと思っていた。むしろそれならわかりやすい。たとえ暴露されようと、断って終わりだった。それよりもずっとまずいことがいま起きようとしていた。いったいそれはなんなのか。つまり、あたしが人生でいちばん恐れていることは、何か、ということだ。

「そんなにあたしのAVを気に入ってくれたなら、いまやってみせましょうか?」

 あたしの口はしぜんとそう動いていた。あたしのなかの何かに突き動かされるかのように。あのころからずっと変わらないそれに煽動されるかのように。あたしはわらった。あのころはそんなふうにはわらえなかった。でもおなじ感情があのころにもあった。間違いなくあれはわらえるような日々で、あたしはそれをマグマのように心の奥底で燃やしたまま、あの町をつよく生き抜いていた。

「やれるよ、今でも、あたし。あんたとしてもいいし、彼氏を連れてきて一緒にやってみせてもいいし、ひとりでやってもいい。forcedだろうとcreampieだろうとblowjobだろうとtitsfuckだろうとやってみせるよ。好きなんでしょ。それでいい? あんた、好きなんでしょ!?」

 あたしは立ち上がり、テーブルに身を乗り出して、彼女を脅すように、叫ぶように言った。彼女は気圧されたようにうつむき、かぼそい声で、

「私は別に……」

 とだけ言い、あとは黙り込んでしまった。おそれるべきものを持っていたのは彼女じゃなかった。持っていたのはあたしだった。あたしのなかに新宿がある。いまでもまだ。それが彼女によって相対化されただけだ。思えばずっとそうだったじゃないか。そのことは、たぶん誰よりもあたしを見てきたあたしが一番よく知ってるはずだ。AVというのは人間を映し出す鏡だということを。そしてあたしがあたしのAVを見たとき、合わせ鏡の原理によって、無限にコピーされた淫乱なpussyはこわれる。

 もう潮時かな。あたしはありふれたあたしに戻り、ありふれた溜息を吐いて、そう思った。あるいは、そう決めた。

 ふいに中央線の音がした。今日も誰かが新宿に運ばれていく。

 彼とはマンションを出たところで別れた。下北沢のアパートまで来ないか誘われたのだけれど、ちょっと気分が悪いと言って断った。実際にだいぶ気分が悪かった。あたしを執拗に気遣ってくれる彼を追い出すようにして東中野駅のホームで見送り、あたしは逆向きの電車に乗った。新宿から逃げるように。あたしから逃げるように。いつか誰かが「新宿」といううたを歌っていたような気がする。でもあたしは今となってはその歌詞をひとつも思い出せない。あの子が着ていた安っぽい衣装だけが、頭痛とともに頭をよぎる。そう、ピンク色の。

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