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医者の見立てでは、まともに歩けるようになるまで半年のリハビリが必要とのことだった。でもそれでは遅すぎる。八月が終われば弟は地元に帰ってしまう。彼はいま高校の教師で、姉であるあたしが自殺未遂したことを相談したところ、夏休みのあいだの長期休暇が許されたとのことだった。休みのあいだ、彼はあたしのそばにいてくれるらしい。彼がいるうちに、あたしは身体がまともに動くぐらいまで戻したかった。別に歩けなくてもいい。それはいい。あたしがしたいのは、歩くことじゃない。
執念のリハビリが実ったのか、お盆を過ぎるころには杖があれば歩けるようになり、弟とときどき外出してはお茶をしたりした。弟はあたしのおなかのことをひどく労ってくれた。彼といっしょにいるのは不思議な感覚だった。彼氏だったひととも違う。彼氏のようだったひととも違う。少なくとも誰よりもやさしくて、誰よりもあたしのことを考えてくれる。だからあたしは彼を信じることにした。それは愛するとはちがう。愛することは信じることだが、信じることは愛することではない。信じることは生きることだが、生きることは信じることではない。あたしは愛さずに、彼を信じ、ともに生きることを決めた。
雨の夜があった。台風が来ていたらしく、激しい風が窓ガラスを叩く音がした。あたしはもう杖がなくても歩けるようになっていて、数日すれば退院する予定だった。おなじころ、弟は地元に帰る。「一緒に来てほしい」と弟はいった。あたしは「考えとく」と答えた。すなわちあたしにとって、それは「考える」ことだった。いつでも。
弟がお金と便宜をはかってくれたのか、あたしには個室が与えられていた。弟は近くにホテルを借りているようだったが、ここ数日は退院とか引っ越し(あたしはまだそれを認めていなかったが)なんかの手続きもあり、あたしのベッドの隣に簡易ベッドを用意し、並んで眠っていた。
弟の寝息が聞こえはじめたのを確認し、あたしはそっと布団を抜け出した。つわりも落ち着いて、体調はすこぶるよかった。パジャマをぬぎ、下着をぬいだ。裸になると、そろそろわずかにおなかが膨らみはじめているのが分かった。
産んでほしいというのなら、責任をとれよ。お金とか生活なんかの責任じゃなくて、あたしの身体の責任をとれよ。身体で。あたしの子宮を叩けよ、あたしの子どもを呼べよ、産まれてきてよかったと思わせてよ。子どもを愛するなら、先立つセックスがあるべきだろう?
弟のパジャマのズボンをすこし下げ、トランクスの隙間からそれを出した。舌で裏のすじをゆっくり刺激すると、かんたんに隆起した。思ったより大きかった。やっぱり君もそうなんだね。和尚がほんとうはゲイじゃなかったように、君もほんとうは弟じゃないんだね。勃起するということは、そういうことだろう?
あたしは股をおおきく広げて彼のうえに身体をおろした。ぜんぜん濡れてなかったから、びり、と裂けるような痛みが電流みたいに下腹部を走った。こんなに痛いのは初めてだった。初めてのときよりよっぽど痛かった。
「姉ちゃん!?」
弟がさすがに目を覚ましたようだった。身体を起こそうとしたけれど、馬鹿だね、あたしがまたがってるんだから無理だよ。いや、あるいは彼のほうがたぶんずっと力が強いから、むりやりあたしを跳ね飛ばそうとしたら物理的にはむずかしくなかっただろう。でもできないよね。だって怖いもんね。気持ちわるいもんね。すごくすごく嫌だもんね。分かるよ、分かれよ、別れないでよ。来いよ、この感覚のむこうが、この身体のおくが、あたしとセイコの世界。性交によってだけたどり着くことのできるあたしたちの魔法の世界。そこにはあたしたちの音楽があふれている。ねえ、セイコ。音楽は魔法じゃないってあなたはいうけど、魔法は音楽だよね。
あたしはセイコのうたを歌いながら身体を揺らした。つまり、たった三分でよかった。あたしのなかに熱いマグマがほとばしった。それは彼が怒っているあかし。あたしと彼とは、怒りによってひとつになった。
彼は身体でも心でも泣いていた。あたしはまず身体のほうをそっと舐めとってあげて、それから心のほうも舌ですくってあげた。おなじように酸っぱくて塩辛いあじがした。おなじものでできるんだから。あたしたちは、おなじものを共有したんだから。
「いいよ、帰ろうよ。一緒に。子ども、産むから」
謝らないよ。一生。でも、謝る以外のすべてのものをあげるよ。君と、産まれてくる子どもに。
「子どものなまえ。いま決めたよ。『うた』にしようよ。あたしたちぜんぶ、『うた』にしようよ。生きていくことも、生活することも、音楽みたいな家庭を作ろうよ。あなたはあたしから音楽を奪ったんだから、代わりのものをください。一生かけて、気持ちよくしてください。産まれてきてよかったと、思わせてください。子どもにも、それから、あたしにも」
あたしはそう言って、彼にくちづけをした。弟とキスをするのは初めてだった。こんなキスは誰ともしたことがなかった。セックスは十八歳のときできたのに、キスをする、ただそれだけのために、あたしには二十七年が必要だった。
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