5

 目が覚めると、あたしはどこにいるのか分からなかった。ただ身体がひどく気怠くて、腕も足も感覚がなく、うまく動かせなかった。首だけをぎこちなく動かして横をみやると、点滴が規則ただしく落下している。どこからともなく薬品の匂いが漂っている。どうやらここは病院らしい。

 上半身を起こすことはできなかったため、あたしはしばらくましろい天井を見つめた。次第にここに来るまでの記憶が蘇ってきた。最初に思ったのは、あたしは助かってしまったのか、ということだった。赤ちゃんはどうなっただろうか。おなかに触れてみようと思ったけれど、やはり両手ともうまく動かない。

「姉ちゃん、目が覚めたの!?」

 耳馴染みのある声がして、目線を病室の入り口に向けると、そこに立っている男性を見つけてびっくりした。あたしの覚えている風貌より背がずっと伸びて、凜々しくなっているが、あたしが実家にいるとき、たったひとりあたしを認めてくれた彼の姿を忘れるはずもない。弟だった。

「なんで、あんたが、ここにいるの?」

 ずいぶん久しぶりに声を出したのか、のどがいがいがして、おばあちゃんみたいなひどい声がでた。

 弟は隣のテーブルに置かれたペットボトルを開けると、コップのなかにそれを注ぎ、あたしの口にそっと含ませた。ただの水がすごく美味しかった。口のはしから流れおちたそれも舌でなめとった。

「いるに決まってるじゃん。僕はずっと、姉ちゃんに会いたかったんだから」

 弟は昔から変わらないやさしい口調で言い、ベッドの脇にあるパイプ椅子に腰かけ、ここにいたるまでの彼の物語を教えてくれた。

 あたしが弟と連絡を取っていたのは、あたしがまだ十九歳のとき。もう八年もまえだ。あのころ弟はまだ高校生で、あたしはネットカフェでSkypeを使用し、弟とテキストベースのチャットでよくおしゃべりをしていた。あたしがAVに出ていることが弟にバレてすぐ、あたしはSkypeから弟を削除した。そのころ、あたしはまだ携帯電話を持っていなかったし、連絡の取れるメールアドレスはなかったし、弟があたしと連絡を取れる手段は絶たれた、はずだった。

 そうではなかった。弟は、あたしがAVに出演していた会社に直接連絡を取り、あたしのことを問い合わせたのだという。ちょっと信じられないのだけれど、AV会社は弟の事情を聞くと、丁寧にあたしの近況を教えてあげていたのだという。AV会社であたしはハードなプレイをやらされてばかりで、まともな扱いをされた記憶はあまりなかったので、彼らにそんな人情味があったということに驚いた。まあAVに出演する素人はあたしも含めいろんな事情を抱えた子が多く、AV会社はそこにつけ込んでいる側面があるので、最低限の誠意を見せた、というところか。AV会社を通じ、あたしが高円寺に住んでいた家の住所も、就職した会社も、弟にはすべて筒抜けだったという。あたしは住所も会社もとうぜんAV会社には教えてなかったが、あえて隠そうともしてなかったので、まあ情報が漏れる隙があったのだろう。情報化社会のおそろしいところだ。ここからが弟のすごいところで、東京の大学に合格して東京に住み始めた弟は、インターンとしてうちの会社にも来ていたという。そのさい、あたしのことを会社にも問い合わせたそうだ。弟の応対をしてくれた担当者の名前を聞いて、あたしはまたびっくりした。まさしくあの部長が弟の話を聞いてくれていたのだ。部長は全てを知っていたのだろうか。全てを知ったうえで、あたしに責任を取るよう促したのだろうか。また彼に言われた責任の意味が揺らぎ、あるいは重くなった気がした。

 ただし、あたしが無量大数で働いていたこと、ピンクセトラという店を持ったことまでは調べきれなかったようだ。そうこうしているうち、弟は大学を卒業し、地元に帰ることになった。弟が在学していたのは教育学部で、教員にとってはとりわけ就職難のこの時代、就職できたのは地元の高校だけだったという。それでも諦めきれなかった弟は、インターネットの匿名掲示板の、素人AVを扱ったスレにあたしの写真を貼り、あたしの居場所を熱心に探していたそうだ。数年経ち、「このひとに似てる女性が高円寺に店を開いてる」という情報が掲示板に書き込まれた。ちょうどピンクセトラが軌道に乗り、音楽系やサブカル系の雑誌とかニュースサイトでピンクセトラの露出が増えた時期だった。弟はすぐにインターネットで検索をした。ピンクセトラの情報はインターネット上にはあふれていたし、そのなかには店長をしている女性、つまりあたしの画像もたくさんあった。見た瞬間それがあたしだと弟は確信した。高校に理由を説明し、急な休みを取り、ただちに東京へ飛んだ。彼がピンクセトラを訪れたのは、あたしがオーバードーズして昏睡状態に陥った直後だったそうだ。ほんとうに運がよかった、と、弟は心からうれしそうな笑みをほころばせた。

「どうして、そこまで、してくれるの?」

 あたしはうれしいより、かなしいより、ただただびっくりして弟にそう尋ねた。そこまで真剣に弟があたしを探してくれていたなんて、思ってもみなかった。たぶん両親はもうあたしのことを諦めているだろう。弟だけだ。弟だけが、あたしの八年間を、誰よりも必死に追いかけてくれていた。

「だって、家族じゃんか」

 弟らしい、まるで毒気をふくまない言葉が、いまのあたしには痛かった。それはあたしがずっと捨てようと思っていたもので、あたしが死のうとした理由でもあったから。

「……おなかの子は、どうなったかな」

 弟の言葉で、そんな言葉であたしの涙腺はゆるんでしまい、声をにじませて言った。弟はあたしの手をぎゅっとにぎり、

「大丈夫だったよ。すごいね、奇跡みたい」

 と言った。あたしは死のうとするぐらい、子どもを産むことが怖かったのに、弟に手を握られていると、ぜんぜん怖くなかった。

「姉ちゃん、帰っておいでよ」

 弟はにぎった手に力を入れ、変わらずやさしい、しかし昔よりずっと雄々しい声で言った。

「ふたりで暮らそうよ。僕、あいかわらずあの地元に住んでるけど、実家からはだいぶ遠いし、お父さんともお母さんとも会わなくていいと思う。いまね、僕、高校教師してて、だいぶお金もあるんだ。古いけど立派な一軒家に住んでてね。部屋も四部屋あるし。子どもが大きくなってもぜんぜんいけるよ。仕事は忙しいけど、僕もがんばって子どもの世話するし、少なくともお金の面ではぜったい苦労させない。ねえ、だから、帰っておいでよ」

 その言葉は正直、うれしかった。あたしはずっと、誰かに必要とされたかったし、誰かにそんな言葉をかけてほしかったし、それが弟だというのは、すごくすごくうれしかった。だからあたしは、帰れないと思った。

「……子ども堕ろすから、無理だよ」

 あたしは言った。初めてそのことをちゃんと口にした。ほんとうはまだ、産むのが正しいのか、堕ろすのが正しいのか、分からない。ただあたしは、セイコは子どもを産んでない、それだけの理由で、子どもを産みたくないと思った。

 あたしの手を握る弟の手が強張った。あたしにはなんとなく、弟がなにを言うのか察せられてしまう。なぜなら彼の言うとおり、あたしたちは、家族だから。

「もう、堕ろせないよ。妊娠して、二十二週を越えてるんだって」

 弟の申し訳なさそうな声は、ちっとも申し訳なさそうじゃなくて、作ってるのが分かったから、あたしも申し訳なくならなくて済んだ。それに、ちょっとうれしかった。たぶん、弟がうれしく思ってくれているのと同じように。

 あたしはもう、子どもを産んで、子どもよりもかわいいものを見つけるしかないんだ。

「でも、あたしは、帰らないよ。だってあたしには、ピンクセトラっていうお店があるんだから」

 あたしは言った。そのかわいいものは、ピンクセトラにきっとある。今はなくても、きっとできる。そしてそのかわいいもので、あたしはセイコを迎え、ライブをするんだ。

 弟はなにも言わなかった。あたしはぎょっとして目線を動かし、彼の顔を見た。それは弟があたしを守ろうとしてくれるとき、他のすべてを顧みなくなるスイッチが入ったとき、必ず見せる冷たい表情だった。小学生のころ、あたしのために喧嘩をして友だちに三針縫う怪我を喰らわせたとき、中学生のころ、成績を叱責されたあたしを庇おうとして家中の皿を割ったとき、いつも彼はその表情を見せたんだ。

「もしかして……お店……もうないの?」

 あたしが尋ねると、弟はわずかに首を横にふった。

「嘘つかないで。分かるよ、あなたが嘘をついてたら、あたしには絶対。教えて。ねえ、お店、もうないの?」

 あたしがすがるように言うと、弟は、

「……姉ちゃん、もう三ヶ月ぐらい寝てたんだよ。お店を続けるなんて無理だよ。解約して、荷物はぜんぶトランクルームに預けてあるから」

「そんな、ひどい!」

 あたしは身体を持ち上げようとしたが、全身に痛みが走っただけだった。あたしはいま、身体中で怒っていた。今までにした、どんなセックスよりもずっと。

「姉ちゃん。頼むよ。帰ってきて。こんな姉ちゃんがボロボロになって、もう僕、見てられないよ。ずっと姉ちゃんのことが心配だった。ずっと姉ちゃんを連れ戻したかった。姉ちゃんのAV、僕、何度見たか分からないよ。どれだけ泣いたか分からないよ。僕が姉ちゃんのAVを見てるときの気持ち、姉ちゃんにはぜったい分からないだろう?」

 弟の言葉を聴きながら、あたしは無表情のまま、あるべき感情を身体の底へだけ貯めていた。いつかそれを発動させるために。AVを見てるときの気持ちが分からない? そりゃそうだよ、だってあなたにだって、あたしの気持ち、分からないじゃん。あたしがこの町でどんなふうに生きてきたか、あなたに分かる? あたしがどんなふうに新宿に来て、どんなふうにAVに出て、どんなふうに一流企業に就職して、どんなふうに働いて、どんなふうに首になって、どんなふうに無量大数で苦しんで、どんなふうにお店を持って、どんなふうにピンクセトラを繁盛させて、どんなふうに妊娠したか、あなたには分かる? あたしがセイコのライブを観て、なにを感じたのか、あなたに分かる? 分からないよね、だってあなたは、あたしとセックスしたことがないもんね。

 分からせてやるよ。

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