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 キャシーを待っているあいだはすごく長く感じられた。トイレから出られなかった。一転、身体がひどく寒くなり、過呼吸を起こして汚物入れから取り出したビニル袋で口を抑え、ようやく息を整えた。左手にはスマホを握りしめていた。最近契約したばかりのそれは、たくさんアプリを入れ、お店のSNSを飾り立て、楽しく使っていた。どこへでもつながるはずのそれが、いまは「助けて」と言える相手がどこにもいなかった。右手は知らずうちにおなかをさわっていて、それがあまりに自然すぎて、貧血のあまり意識を失いそうになった。こわかった。あたしは子どもを持たないつもりだった。あの田舎を飛び出して東京にやってきたとき、そう決めた。子どもを持つということは、あたしが逃げてきたルーツにつながっている。AVで中出しされたときも、和尚に中出しされたときも、子どもができるかもしれないとは思ったけれど、こんなにこわくはなかった。だって妊娠しなかったから。あたしの身体が、女性だけが持つ特殊なシグナルで、妊娠検査薬なんか使わなくても妊娠してるのだと教えていた。妊娠してみてあたしは初めてその意味と、あたしが何をずっと恐れていたのかを教えてくれた。

「サチコ! だいじょうぶ!?」

 ばぁん、と音をたてて扉が開いた。あたしはすぐに立ち上がり、キャシーに抱きついた。彼女が救ってくれるとは思ってなかったけれど。ほかの誰にもあたしは救えないと思っていたけれど。

「はいはい、大丈夫だから」

 キャシーはあたしの背中を片手でやさしく叩きながら、もう片方の手で薬局のビニル袋をまさぐり、そこから取り出したものをあたしに持たせた。何度か持ったことのあるその感触を覚えていたが、今まででいちばん、堅く、冷たく感じられた。

「おしっこ出る? かけなさい」

 キャシーはそう言って、あたしの両肩をそっと押し、あたしを洋式便座に座らせた。あたしはうなだれたまま、ようやく、

「分かったから。外で待ってて」

 とちいさな声で言った。

 キャシーはあたしの正面にしゃがみ、あたしの顎を持ち上げて、あたしと目線をかみ合わせた。見たことのないその強い視線は、彼女が薬剤師であるがゆえの、命と向き合うときの顔なんだろうと思った。

「いま、ここで、おしっこかけなさい。私の目のまえで」

 そして視線とおなじぐらいの強い声で言った。

「サチコをひとりにしたら、ぜったいおしっこかけないでしょ。分かるよ、私、そんなに長くないけど、サチコと一緒にいたんだから。私だって、サチコのセックスを、AVで観たことあるんだから。だから、私の目のまえでかけなさい。ちゃんと本当のことを言いなさい。ちゃんと受け止めるから。大丈夫だから。サチコを一人にはしないから」

 彼女の言ったとおりだ。あたしは、汗か涙かを妊娠検査薬にかけるつもりだった。そしたら、ぜったい反応しないから。でも、彼女の言ったとおりだ。あたしは、汗か涙かに嘘をつかせるべきではなかった。妊娠しているとしたら、それはあたしのこれまでの人生の因果だ。あたしはちゃんと、それを受け止めないといけないんだ。

 キャシーのまえであたしは下着をおろし、妊娠検査薬に尿をかけた。放尿プレイはAVでもそれ以外でも何度かしたことはある。興奮することはあっても、恥ずかしいことなんてなかったのに、いまはひどく屈辱的だった。妊娠していたとしたら、あたしの自尊心が失われる。いつかセイコは歌った。「子どもが産まれても、ギターのほうがかわいい」って。セイコにとってきっとギターが自尊心だった。あたしにはそれはない。もしも子どもが産まれたら、あたしはたぶん、あたしじゃなくなる。

 あたしは尿をかけた妊娠検査薬をキャシーに押しつけるようにして手渡し、声を震わせて言った。

「ごめん、外で結果みて。結果がでたらあたしに教えて」

 キャシーは妊娠検査薬を携えたまま、すぐに外に出てくれた。やさしい音をたてて扉が閉まった。

 あたしは便座に座ったまま、下着も履かず、しばらく待った。背中を寄りかからせ、天井を見上げ、口をぼんやりと開けた。「この姿勢だと悲しいことが考えられなくなる」と誰かが言っていた。でも、悲しいことってなんだろう。子どもができることか? 産むことか? 育てることか? あたしを産んだお母さんは、悲しかっただろうか。きっとそうだよね、一方的に家を飛び出して、勝手に離縁して、顔を見せてなければぜんぜん連絡も取ってないもんね。ごめんね。そしてあたしは、あたしの子どもにもきっと悲しい思いをさせる。ごめんね。セックスなんてしなければよかった。あたしはセックスで他人を幸せにできると思っていたし、傲慢なようだけれど、たぶんある程度は幸せにできた。でもセックスは、あたしを幸せにしてはくれなかった。いま気づいた。セックスとは、あたしだ。そしてセックスは、お母さんも、あたしの子どもも、きっと幸せにしてはくれない。いま分かった、セックスとは、家族。いまさらなんだ。誰もが当たり前に分かっていることを、いつもあたしは遅れて気づくんだ。

 トイレの扉がとんとん、と叩かれ、あたしはびくっと身体を震わせた。扉が開けられることはなくて、かわりに扉の隙間からほそい紙が差し込まれた。それを受け取って、書かれている言葉を読んで、あたしは妊娠検査薬の結果をさっした。その紙には、いびつな、しかししっかりした手書きの文字で、産婦人科の名前と住所と電話番号が書いてあった。歩いていけるぐらいの近くにある産婦人科だった。

「もしかしたらまだ堕ろせるかもしれないから。私が予約取っておくから、すぐに行って。お店の前には休業の貼り紙を出しとくから。ほかにも私にできることがあればするから。サチコ。ねえ、さっきもいったけど、私はいつもそばにいるから。サチコがどんな選択をしたとしても、ずっと味方だから」

 扉のむこうから、彼女らしい凜とした声がした。それは薬剤師としてだけではなく、あたしの友だちとしても言ってくれているのだろうと思った。彼女は言ったそれは、すべて本当なのだろうと思った。

「でも、一言いっておくけど」

 すこし間を置いて、彼女が離れ際、言い残した言葉は、純粋に、あたしの友だちとして言ってくれた言葉なのだろうと思う。

「子どもを産むってことは、幸せなことなんだろうと、私は思うよ」

 それだけに重かった。本当のことだから重かった。

 でもセイコは、子どもなんか産んでないよ。それが答えじゃないかな。君には分かるはずだよ。

 キャシーの足音が去ったあと、あたしはスマホを取り出し、メールを打ち始めた。この先にうちでのライブを予定してくれているミュージシャンたちだった。「店主の体調不良のため、ライブは中止とさせてください」という内容の文章を、ひとりひとりに文面を変え、ひとりひとりのことを真摯に考えて、丁寧にメールした。ライブの予定は一年ぐらい先まで入っているため、送るメールは膨大になった。いくつかには返信の入った通知があったけれど、申し訳ないがそれは読まなかったし、読めなかった。さいご、お店のSNSを開いた。なにか書くべきなんだろうと思った。でも、書きたい内容も、伝えたい相手も、まったく思いつかなかった。たったひとつ、セイコのライブを開けなかったことだけが心残りだった。SNSには「一生セイコ」とだけ書いて、スマホの電源を落とした。長いあいだ便座に腰かけていたので、ひどく腰が痛かった。這うようにしてトイレから出ると、厨房からセイコのライブがもしあれば開けようと思っていた高級なウォッカの瓶を取り出した。それを携えたまま、畳のうえに膝を滑らせ、部屋の端にあるタンスに向かった。そのいちばん下の段はダイヤル式の南京錠で封じられている。暗証番号は「918」。セイコの誕生日だ。

 鍵を解除し、引き出しを開けると、そこには薬が大量に入っていた。これまでに貯めたさまざまな向精神病薬だった。あたしはシートに入っているそれをぷちぷちとひとつずつ押し出し、ちゃぶ台のうえに広げていった。

 百錠ぐらいが並んだあと、あたしはウォッカの蓋を開けた。錠剤を十錠ぐらい手のひらに乗せ、口に含むと、ウォッカのラッパ飲みでのどに流し込み、こう呟いた。

「……無量大数」

 セイコが初めてライブをした場所。そしてセイコはこれからも、たくさんの場所でライブしていくんだろう。それを読み上げるように、あたしは、十錠ぐらいを次々と飲んでいった。

「不可思議、那由他、阿僧祇、恒河沙、極、載、正、澗、溝、穣、垓、京、兆、億、万、千、百、十、一」

 そしてそのなかに、あたしの場所は、ない。

「零……」

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