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 早朝、高円寺駅のほとんど始発に乗り、中央線で新宿駅に向かい、そこで乗り換えた。新宿駅の構内を歩いたのはわずかだったけれど、やっぱりそれなりに感慨があった。きっともう新宿に来ることはないんだろうなと思った。新宿はあたしにいろんなことを教えてくれた。住んでいたときもあった。避けていたときもあった。働いてたときもあった。セックスしてたときもあった。生きてたときもあった。息をしてたときもあった。新宿はいつだって、あたしが何者であるかを問い続ける町だった。あたしが何者であるかによって、その姿を変える町だった。いまのあたしが新宿のビル街を見ていて感じるのは、あたしは素人AV女優でもなく、一流企業の会社員でもなく、借金の取り立てでもなく、高円寺のカフェオーナーでもなく、お母さんでもなく、そのすべて、あたしだということだ。だからもう、地元に帰っても大丈夫だと思った。セイコにもいつかそういう日が来るのだろうか。セイコはあのとき、「超ミュージシャンになりたい」と言った。なれただろうか。なれるだろうか。セイコにはそのとき、新宿という町があたしと同じように見えるだろう。あたしはずっとセイコを追いかけつづけて、いつのまにか、セイコを抜かしてしまっていることを知った。

 さよなら、新宿。やっぱりあたしは、新宿が好きだよ。あの「新宿」っていううたは、もう歌えないけどね。セイコはうたった。「アンダーグラウンドは東京にしかない」って。「サブカルにしかなれない歌がある」って。あたしはそんなものをすべて新宿に置き去りにする。新宿から消えていくひとはみんなそうだろう、片づけないまま帰っていく。だから新宿はそんなものでできている。新宿のアンダーグラウンドには、捨てられたサブカルが眠っている。そのなかに、あのときの「新宿」といううたがある。

 山手線で品川駅に向かい、もともと予定していた時間の新幹線の指定席を買った。あたしが東京に来たときとちがって、いまは品川駅で新幹線に乗ったほうが早いと知っている。あたしが東京で覚えたことなんて、それだけかもしれなかった。

「サチコ!」

 あたしと弟が立ったまま新幹線を待ってると、その声があたしを呼んだ。ちゃんとお別れができるよう出発の時間を遅らせたのに、彼女が来たのはぎりぎりで、ぜんぜん話できないじゃんって思った。まあでも去っていくあたしが話せることも、話すべきことも、ほとんどないのかもしれない。あたしは弟に荷物を預け、彼女に走り寄った。あたしが全力で抱きつくと、彼女の細い身体があたしを抱きとめてくれた。

 東京を離れるにあたり、銀貨さんとか、和尚とか、部長とか、元カレとか、ほかたくさんのお客さんとか、これまでにお世話になったすべてのひとにお礼のメールを送った。これまでのあたしだったら、ぜったいそんなことはしなかった。スマホを解約して、なにも言わないまま去っていたと思う。でもあたしは不誠実だから、あたしがこの町でしたことの責任を取りたかったわけじゃない。ただあたしは、あたしがこの町でしたことを確認したかった。あたしがあたしだった証を、どうでしたかと、みんなに聞いて回りたかった。だからみんなから届いた大量のメールをぜんぶ読んだ。内容はいろいろだった。すごく長いものもあったし、すごく短いものもあった。ポジティブなものもあったし、ネガティブなものもあった。でも、ちゃんと全員からメールが返ってきたから、あたしはこの町に認められたんだと思った。

 そして、見送りに来てくれるのは彼女だけだろうと思ったし、彼女だけでよかった。

「これ……」

 キャシーは手にもっていた四角いものをあたしに持たせた。そのデザインを見てそれがなんなのかあたしにはすぐ分かった。

「これ……発売日、明日じゃなかったっけ?」

 あたしは目をまるくして言った。そのCDは欲しかったけれど、弟の仕事の関係で発売の前日には出発しないといけなかったし、きっと手に入らなくて、それでもいいと思っていた。

 セイコのメジャーデビューのシングルだった。

「ツテをフルに使って、フラゲしたの。やっとさっき入手できて、それで遅くなっちゃった。どうしても今日、サチコに渡したかったからさ」

 キャシーはにっこり微笑んで言った。フラゲというのはフライングゲットの略で、発売日よりまえに入手することらしい。ふつうはファンクラブ限定で販売されたりもするのだが、セイコのメジャーデビュー作はその対象にはなっていなかったはずで、彼女がそうとう苦労してこのCDを入手してくれたのだと察せられた。

 あたしはうれしいというより、戸惑っていた。東京から離れる日、あたしに手渡されたCDには、いったいどんな意味があるというのだろう。すくなくともそれは、音楽のなかにだけあるのだと分かった。

 ベルが響き、おって新幹線が入ってきた。もうあんまり話せそうになかった。

「私、いつかぜったい、セイコのこと記事にかくから。ぜったい読んでね」

 キャシーはあたしの手をにぎり、そう言った。彼女がさいごに選んだのはそんな言葉だった。彼女はこれからも、きっとセイコのことを追いかけて生きていくのだろう。でもあたしはそうじゃない、と、CDを渡された瞬間、気づいてしまった。あたしにとって、セイコは性交であり、神さまだった。だからあたしが性交を手放した瞬間、セイコは神さまじゃなくなった。

「うん、読むよ、ぜったい」

 あたしはキャシーの手を握り返し、そう答えた。あたしがその記事を読むと決めたのは、あたしのためじゃなく、彼女のため。セイコが好きだからではなく、セイコが好きだったことを確認するため。いつかあたしはそんなふうに、新宿の日々を振り返るだろうと思った。

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