8

「ねえ、あなた、パソコン持ってたよね、貸してよ」

 新幹線が動き出してしばらく経ち、あたしは弟にそう話しかけた。弟は駅のキオスクで買ったサンドイッチをほおばりながら、

「いいけど、学校のパソコンだからあんまり変なことしないでよ。ネットはスマホに繋いでるから、そこそこにしてね。僕の契約だと、パケ代高いし」

 と不平をぐちぐち漏らし、足下のビジネスバッグから薄いノートパソコンを取り出した。あたしのまえのテーブルに広げ、電源スイッチを押すと、すぐにログイン画面が現われる。

「ケチだなあ。ネットなんかしないし。それよりログインパスワード教えてよ」

「いや、僕が打つから」

「なんだよ、ケチ。どうせ同居するんだから、パスワードぐらい教えてくれてもいいじゃん」

「だから学校のパソコンなんだって」

 あたしたちは盛んに言い合い、冗談みたいにパソコンを取り合いながら、とにかく弟がパスワードを入力してくれて、デスクトップが現われた。学校のパソコンというだけあって、Office以外の余計なソフトはほとんど入ってなさそうだった。

 あたしはセイコのCDの包装を開け、ケースからCDを取り出すと、パソコンのディスクトレイに吸い込ませた。

「あれ? iTunesどこ?」

「学校のパソコンにそんなの入ってるわけないじゃん」

「えー。どうやって音楽聴いたらいいのよ」

「Windows標準のプレイヤー使ったらいいじゃん」

「えー、なんかしょぼい。音悪いんじゃない?」

「……文句あるなら使うなよ。ちょっと寝てていい?」

 弟はそう答えたあと、あたしにイヤフォンを手渡し、おおきくあくびをして、背もたれに身体をあずけ、すぐに寝息を立て始めた。ずいぶん簡単に眠れるんだな。あたしは薬がないとなかなか眠れないから、ちょっとうらやましい。

 あたしはイヤフォンを耳に刺し、パソコンに接続した。音楽の流し方はすぐに分かり、あたしは再生ボタンをクリックした。CDがきゅるきゅると音をたてて回転をはじめる。

 あたしはなんらの逡巡もなく、すごくかんたんにセイコのCDと向かい合うことができた。それが彼女のメジャーデビュー作だという感慨はなかった。あたしはセイコの音楽を八年前から知ってるんだから、セイコが無量大数でライブしてたときから知ってるんだから、あの下手くそなギターも、あの艶っぽい歌声も、ぜんぶ知ってるんだから、聴いたところでいまさらだと思った。

 ぜんぜん違った。

 音楽がはじまった瞬間、いやな予感がした。セイコはいつも歌が先にあって、そのあとに下手くそなギターが追いかけてくる。この曲は違った。まず音楽があった。それも、ギターの音じゃなくて、やたらよくできた、ちゃらい、打ち込みの音だった。なんで? セイコといえばギターじゃん? あの下手くそな、怒ってるような、叩きつけるようなあのギターじゃん? この曲、ぜんぜん怒ってないじゃん。たしかによくできてるよ。売れると思うよ。でもセイコって、そういうミュージシャンじゃないじゃん。これじゃただのミュージシャンじゃん。ぜんぜん超ミュージシャンじゃないじゃん。

 ダメジャーデビュー。そんな言葉が頭をよぎった。音楽を、いや音楽とも呼べないものを、止めたくて仕方なかった。でもちゃんと最後まで聴いた。終わった瞬間、やっと終わったと思った。AVを撮ったあとのようなかんじだった。でもAVを撮ったあとと違って、涙がぽろぽろと溢れてきた。セイコの顔を思い出せなくなった。

 あのころ、セイコの瞳のなかに、地平を駈ける獅子を見た。いまあの獅子は、どこへ行ってしまったのだろう。

 「地平を駈ける獅子を見た」は、西武ライオンズの球団歌だ。あのころ、セイコは西武が好きで、あたしは野球なんかぜんぜん知らなかったけれど、セイコが教えてくれて、岸っていう投手がかっこいいんだよって教えてくれて、いつか一緒に試合を見ようねって話をした。あたしはその夢をずっと追いかけていた。いま気づいた。ピンクセトラというお店は、そのための手段だったんだ。あたしはピンクセトラでセイコにライブをしてもらうことで、彼女と再会し、それからいっしょに西武ドームに行き、野球を観たかったんだ。いっしょに「地平を駈ける獅子を見た」を歌いたかったんだ。

 子どもよりも大切なものがあるとしたら、セイコといっしょに岸を応援することだったんだ。

 あたしが東京に来て、セイコと出会った年、岸も西武ライオンズに入団した。あたしが東京を去り、セイコと別れる年、岸はノーヒットノーランを達成した。ノーヒットノーランは、つまりヒットを打たれなければ点も取られないということだ。ノーヒットノーランは、処女に似ている。

 あたしの処女膜は再生した。それがたぶんセイコが与えてくれた、最後の魔法だった。そしてそれは、最後の音楽だった。

 なにひとつ東京に、新宿に思い残すことは無くなった。あたしはCDを割ろうとしたけれど、なかなか割れなくて、床に置いたあと革靴で思い切りふみつぶしたら、やっと折り曲がってくれた。あたしはそのCDを新幹線のゴミ箱にケースごと捨てた。もう音楽を聴くことはないと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る