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「ねえ、あなた、パソコン持ってたよね、貸してよ」
新幹線が動き出してしばらく経ち、あたしは弟にそう話しかけた。弟は駅のキオスクで買ったサンドイッチをほおばりながら、
「いいけど、学校のパソコンだからあんまり変なことしないでよ。ネットはスマホに繋いでるから、そこそこにしてね。僕の契約だと、パケ代高いし」
と不平をぐちぐち漏らし、足下のビジネスバッグから薄いノートパソコンを取り出した。あたしのまえのテーブルに広げ、電源スイッチを押すと、すぐにログイン画面が現われる。
「ケチだなあ。ネットなんかしないし。それよりログインパスワード教えてよ」
「いや、僕が打つから」
「なんだよ、ケチ。どうせ同居するんだから、パスワードぐらい教えてくれてもいいじゃん」
「だから学校のパソコンなんだって」
あたしたちは盛んに言い合い、冗談みたいにパソコンを取り合いながら、とにかく弟がパスワードを入力してくれて、デスクトップが現われた。学校のパソコンというだけあって、Office以外の余計なソフトはほとんど入ってなさそうだった。
あたしはセイコのCDの包装を開け、ケースからCDを取り出すと、パソコンのディスクトレイに吸い込ませた。
「あれ? iTunesどこ?」
「学校のパソコンにそんなの入ってるわけないじゃん」
「えー。どうやって音楽聴いたらいいのよ」
「Windows標準のプレイヤー使ったらいいじゃん」
「えー、なんかしょぼい。音悪いんじゃない?」
「……文句あるなら使うなよ。ちょっと寝てていい?」
弟はそう答えたあと、あたしにイヤフォンを手渡し、おおきくあくびをして、背もたれに身体をあずけ、すぐに寝息を立て始めた。ずいぶん簡単に眠れるんだな。あたしは薬がないとなかなか眠れないから、ちょっとうらやましい。
あたしはイヤフォンを耳に刺し、パソコンに接続した。音楽の流し方はすぐに分かり、あたしは再生ボタンをクリックした。CDがきゅるきゅると音をたてて回転をはじめる。
あたしはなんらの逡巡もなく、すごくかんたんにセイコのCDと向かい合うことができた。それが彼女のメジャーデビュー作だという感慨はなかった。あたしはセイコの音楽を八年前から知ってるんだから、セイコが無量大数でライブしてたときから知ってるんだから、あの下手くそなギターも、あの艶っぽい歌声も、ぜんぶ知ってるんだから、聴いたところでいまさらだと思った。
ぜんぜん違った。
音楽がはじまった瞬間、いやな予感がした。セイコはいつも歌が先にあって、そのあとに下手くそなギターが追いかけてくる。この曲は違った。まず音楽があった。それも、ギターの音じゃなくて、やたらよくできた、ちゃらい、打ち込みの音だった。なんで? セイコといえばギターじゃん? あの下手くそな、怒ってるような、叩きつけるようなあのギターじゃん? この曲、ぜんぜん怒ってないじゃん。たしかによくできてるよ。売れると思うよ。でもセイコって、そういうミュージシャンじゃないじゃん。これじゃただのミュージシャンじゃん。ぜんぜん超ミュージシャンじゃないじゃん。
ダメジャーデビュー。そんな言葉が頭をよぎった。音楽を、いや音楽とも呼べないものを、止めたくて仕方なかった。でもちゃんと最後まで聴いた。終わった瞬間、やっと終わったと思った。AVを撮ったあとのようなかんじだった。でもAVを撮ったあとと違って、涙がぽろぽろと溢れてきた。セイコの顔を思い出せなくなった。
あのころ、セイコの瞳のなかに、地平を駈ける獅子を見た。いまあの獅子は、どこへ行ってしまったのだろう。
「地平を駈ける獅子を見た」は、西武ライオンズの球団歌だ。あのころ、セイコは西武が好きで、あたしは野球なんかぜんぜん知らなかったけれど、セイコが教えてくれて、岸っていう投手がかっこいいんだよって教えてくれて、いつか一緒に試合を見ようねって話をした。あたしはその夢をずっと追いかけていた。いま気づいた。ピンクセトラというお店は、そのための手段だったんだ。あたしはピンクセトラでセイコにライブをしてもらうことで、彼女と再会し、それからいっしょに西武ドームに行き、野球を観たかったんだ。いっしょに「地平を駈ける獅子を見た」を歌いたかったんだ。
子どもよりも大切なものがあるとしたら、セイコといっしょに岸を応援することだったんだ。
あたしが東京に来て、セイコと出会った年、岸も西武ライオンズに入団した。あたしが東京を去り、セイコと別れる年、岸はノーヒットノーランを達成した。ノーヒットノーランは、つまりヒットを打たれなければ点も取られないということだ。ノーヒットノーランは、処女に似ている。
あたしの処女膜は再生した。それがたぶんセイコが与えてくれた、最後の魔法だった。そしてそれは、最後の音楽だった。
なにひとつ東京に、新宿に思い残すことは無くなった。あたしはCDを割ろうとしたけれど、なかなか割れなくて、床に置いたあと革靴で思い切りふみつぶしたら、やっと折り曲がってくれた。あたしはそのCDを新幹線のゴミ箱にケースごと捨てた。もう音楽を聴くことはないと思った。
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