三十歳、地元、サブカル本屋

1

 うたが二歳になったぐらいから、そろそろ働くことにした。ありがたいことに弟の収入はけっこうあって、たぶん専業主婦でも生活には支障なかったのだけれど、弟に頼るのは申し訳なかった。それに、弟はだいぶ残業がきつそうだったので、「あたしも働くから、もうちょっと楽をしていいんだよ」と伝えたのだった。弟はわりと古風というか、よくいえば一本気なので、彼ひとりで働くことにこだわった。あたしは彼には元気でいてほしかったから、粘り強く説得し、「家族なんだから、助け合おうよ」と伝えると、ようやくあたしが働くことを許してくれた。あたしもたいがい古風だから、働くからといって、うたを託児所とか保育園に預けることはしたくなかった。田舎には昔ながらの「みんなで助け合おう」「みんなで子育てしよう」という風土がわりと残っていて、二歳児を連れたままでも働かせてくれるお店はどこもちいさいところだったけれど結構あった。あたしは大嫌いだった田舎のよかったところを見つけ、少しずつだけれど、地元を好きになり始めていた。

 高校教師をしている弟のツテもあって、働かせてくれそうな場所をいくつか見繕ったあと、けっきょく商店街にある本屋を選んだ。商店街は、まあ田舎にありがちなシャッター街というやつで、開いてる店舗はほとんどなく、本屋を訪れるお客さんもごく少なくて、かんぜんに開店休業状態だった。ただオーナーがいわゆる地主であったみたいで、お金には余裕があり、まあその本屋がひとつの道楽だったというか、とにかくちゃんと給料ははずんでくれそうだった。それがその本屋を選んだ理由のひとつ。あと、なんだか暇そうだったから、というのも、その本屋で働きたかった正直な理由だ。理由の三つ目は、あたしが東京で過ごした日々を働くうえで生かしたかったから。本屋のオーナーは気のいいひとで、本屋の運営のなにからなにまであたしに許してくれるらしく、内装はいくらでも変えていいし、レイアウトも、どんな本を置くかも、ぜんぶあたしの一存で決めていいとのことだった。それどころか、「本屋じゃない店にしてもいい」とまで言ってくれた。あたしはほんとうに人に恵まれていると思う。和尚も、銀貨さんも、部長も、元カレも、キャシーも、もちろん、弟も、すごくたくさんのひとに助けられてあたしは今ここにいる。この町で、あたしが生まれ育った町で、あたしはその恩返しをしたかった。本屋には、あたしが東京で得た知識とか経験とかセンスとかコネなんかを総動員し、あたしが見つけた珍しい本とか雑貨をたくさん並べていった。サブカル系の本屋といえば、有名な店として「ヴィレッジヴァンガード」があるし、それはこの町の郊外にあるイオンにも入っている。でもあたしのほうがずっとサブカルを知ってるという自負があった。アンダーグラウンドは東京じゃない場所にもあるということを、あたしは証明したかった。それは、あたしの存在証明にも等しかった。

 本屋はもともと十時開店だったのだけれど、商店街はちょうど中学生とか高校生の通学路に当たるため、朝にも見ていってほしかったので、七時開店にした。だから朝はいつも五時起きだ。弟も朝は早いので、あたしは彼を起こし、簡単な料理をこしらえたあと、一緒に食べてうたを連れて出勤する。弟があたしのために中古だけれど状態のいい軽自動車を買ってくれて、それが通勤の足だし、この田舎町では重宝する。商店街のアーケードに車を滑りこませ、本屋のすぐ裏手にある月極駐車場に車を停める。月極駐車場とはいっても、商店街のご厚意で無料にしてもらっている。それではさすがに申し訳ないので、日々の買い物は必ず商店街で済ませるようにしていた。この町はそういうふうにして回っているわけだ。

 あたしはうたを車から降ろし、半分眠っている彼女を抱き上げ、片方の手と足でお店のシャッターを器用に開ける。いつもの流れなので、こんな動作が無駄に上手くなってしまった。カウンターの裏手にはうたのために用意したベッドがあって、あたしは彼女をそこに横たえたあと、かんたんに開店作業をする。カフェなんかと比べれば、本屋は作業の量がずっと少なくてずいぶん楽だ。

 七時を過ぎたあたりから、通学中の中学生や高校生が来店する。だいたいは男子で、目当てはだいたいジャンプかマガジン。買ってすぐに去っていく子もいるし、しばらく立ち読みする子もいる。立ち読みしている子には「漫画ばっか読んでると頭悪くなるよ」と茶化す。恥ずかしそうにはにかむ子もいれば、嬉しそうに漫画の展開を語ってくれる子もいる。あたしもわりとそうだったから分かるのだけれど、立ち読みするような子は、お金がもったいないから買わずに済ませたいというずるい子じゃなくて、だいたいは単に本を買うお金がない子たちだ。あたしはそんな子には本をプレゼントすることがあった。薄いけれど、めちゃくちゃどぎつい純文学を。読むのに時間がかかるから、漫画よりよっぽどいい暇つぶしになる。それに、いざ買おうと思いたったとき、純文学の短篇は文庫ならすごく安い。あたしが本をプレゼントした子たちがまた店に来て、恥ずかしそうに純文学の本を買っていく場面に立ち会うと、これぞ本屋の醍醐味だよなあ、と、あたしは無性にうれしくなるのだった。

 中高生の通学時間が終わると、商店街のひとどおりはすごく少ないので、だいぶ暇になる。このぐらいになるとうたが起きてきて、寝起きの彼女はすこぶる元気で、店内をしきりに歩き回る。読めないだろうに、ドストエフスキーの古い文庫本を広げてみたりもする。魔の二歳児なんていうけれど、彼女は泣き叫んだりはぜんぜんなくて、もっとちいさい頃から手のかからない子だった。いつ覚えたのか、広げた本もちゃんと棚に戻してくれる。年のわりには会話もできるほうだ。ちょっと自己主張がなさすぎるのが気がかりだけれど。

「サチコちゃーん、うたちゃーん、いるー?」

 その言葉とどうじにガラガラ音を立てて引き戸が開いた。壁がけ時計を見やると、いつのまにか十時を過ぎていた。ちょうど彼女が来る頃合いだった。

「優花ちゃん、まーた学校、サボってんの?」

 あたしはカウンターに肘をついたまま、店内に入ってきた彼女を見据え、にやにや話しかける。優花ちゃんは近くの高校に通っている女子高生だ。あんまり彼女は自分のことを話したがらないけど、たしか一年生。駅前にあるその高校は町でいちばんの進学校で、そこに通っている彼女はそうとうに頭がいいはずなのだけれど、ほとんど高校には行ってないらしく、夏休み明けぐらいからしばしば本屋に寄ってくれるようになった。彼女が来るのはいつも朝のこの時間。制服を着ていて、いちおう親の前では通学する素振りを装っているのだろう。髪は染めてないし、スカートも短くないし、見た目だけみれば模範的な女子高生に見える。ちょっと、高校のときのあたしにも似てる。ただ、あたしよりずっとかわいらしい顔立ちをしていた。どことなく垢抜けなさはあるけど、まあそこは、田舎なので。

「サボってないし。これから学校行くし。生理で遅刻するだけだし」

 優花ちゃんは口を尖らせて言う。いかにもドラマで覚えたふうな、わざとらしい仕草がかわいい。そんなこと考えてしまうあたしも、だいぶ擦れてしまったな。あたしは今年でもう三十歳になる。

「優花ちゃん、いつも生理じゃん」

「そうそう、万年生理」

「子ども産めないじゃないすか」

「いや、産まなくていいし。まあうたちゃんは可愛いけど」

 軽口を叩いてるうち、優花ちゃんはほそい身体で床に積まれた本のあいだを器用にすり抜けると、うたの頭をなでた。うたも優花ちゃんにはだいぶ懐いてるので、きゃあ、とうれしそうな声をあげた。

「優花ちゃん、なに探してんの? もしかして、セイコの新譜?」

 あたしは優花ちゃんに声をかけた。優花ちゃんはセイコのコアなファンで、まあ好きになったのは最近らしいけれど、セイコのCDが出るとマニアックなものも含めて必ず買ってくれていた。サブカルの書店として、セイコにかんするアイテムは一通り揃えている。彼女にたいし、昔みたいな思い入れはないけれど、ないからこそフラットに彼女の作品と向き合うことができた。

「あー、だいじょうぶ、だいじょうぶ。私、自分で探したいからさ」

 優花ちゃんはそう答え、本棚をまさぐった。自分でモノを選びたいという彼女のこだわりは知っているけれど、彼女は手さばきが乱暴なので、あんまり自分で棚をいじってほしくないんだよな。あ、ほら、本が落ちた。それ、けっこうな希少本なんだけど。

「あった、あった」

 優花ちゃんは棚から本を取り出すと、にっこり微笑み、開いて地面に座った。パンツ見えてますよ。うたが優花ちゃんに駆け寄る。優花ちゃんはうたを抱きしめてくれて、ほっぺに音を立てて二回キスをした。優花ちゃんは胸にしがみついたうたを片手で撫でながら、もう片方の手で本を開いた。

「優花ちゃんが本を読むなんて珍しいじゃん。なんの本読んでんの?」

 あたしはカウンターに身を乗り出し、優花ちゃんが開いた本の表紙を確認しようとする。見覚えのない本だった。

「知らないの? サチコちゃんが仕入れた本なのにおかしー。セイコちゃんの自伝みたいな本だよ。書いてるのは半分が詩人のひとみたいだけど」

 優花ちゃんは本にかぶりついたまま、どんな作品なのかを説明してくれた。

 今年の頭に出たばかりの本らしかった。書かれているのはセイコの半生で、書いたのはセイコと、いま売れているある詩人。サブカル界隈では有名な詩人なので、うちの店でもいくつか扱っていたが、セイコの本を入れた記憶はなかったので、びっくりした。たくさんの本を配本してもらっているとたまにこうして想定外の本が混じることがあり、なかにはちょっといい掘り出しものもあったりして、その偶然が楽しいのだが、まさかセイコの本が混じるとは。それも、自伝だという。

 優花ちゃんによって語られるセイコの半生は、あたしの知らないものばかりだった。当たり前だ。あたしはセイコと無量大数でしか会ったことがないし、ちょっとしか話したことがないんだから。あたしはセイコのことをほとんど知らなかったのだと、そんな当たり前のことを突きつけられた。なのにあたしは勝手に、セイコのことをすごく知ってるような、そんな気持ちになっていた。

 セイコは小六のとき、レイプされてたんだって。そんなこと、知らなかったよ。無理矢理にされてるとき、車のなかで流れてた音楽が「モーニング娘。」だったんだって。そんなこと、知らなかったよ。男はセイコを抱いてるとき、「モーニング娘。」のパンチライン「大嫌い、大嫌い、大嫌い、大好き」を、ぜんぶ「大嫌い」で歌ってたんだって。そんなこと、知ってたら、あたし。セイコの携帯電話に、たったひとつだけ付いてたストラップは「モーニング娘。」だった。彼女はなんのために歌っていたんだろう。彼女にとって、音楽とはなんだったのだろう。あたしは勝手に、すべてのふつうの女の子のために歌っているんだと思っていた。あたしは勝手に、セイコにとって音楽とは怒ることなんだって思ってた。いまになってそれらはぜんぶあたしの思い違いなんだと知った。あたしは勝手にあたしにとって都合のいいセイコを作ってた。あたしは今になってようやく、本当のセイコを知りたくなった。

「セイコちゃんね、去年から、『ミスAV』っていう企画の、審査員やってるんだって。いいなあ、私も出てみたいなあ」

 優花ちゃんはそのことを教えてくれた。

 「ミスAV」という企画はサブカル界隈では有名なのであたしも知っていた。次世代のAV女優を選ぶ企画で、始まったのは三年前だが、AV女優にとどまらず舞台女優やモデルやアイドルを多く輩出したこともあり、自己顕示欲の高い少女たちのあいだにあっという間に広まり、年々エントリーする子が増えている。そうか、あの企画の審査員を、セイコがしてるのか。

「……いいんじゃない? 優花ちゃんも、エントリーすれば」

 あたしは努めてふつうの会話を心がけ、なるべく平坦な口調で言ってみたけれど、やけに嫌味のある言い方になってしまった。

「それは無理だよ。だってエントリー資格に『処女ではないこと』ってあるじゃん」

 優花ちゃんはさいわいあたしの口調の微妙なニュアンスには気づかなかったようで、わかりやすく口を尖らせて、不満そうに言った。

 そうだ。「ミスAV」のエントリー資格は三つある。(心が)女性であること、未婚であること、そして、処女ではないこと。

「あーあ、セックスしたいなあ」

 優花ちゃんはうたを撫でながら、軽い口調で言った。それは、ちいさい子どもを抱きながら言えるようなことじゃないよ。それは、そんな軽々しくできることじゃないよ。あたしは軽く腹が立ったけれど、そんなことを言うとおばさんみたいだから言わなかった。まあ、三十歳なんてもうおばさんに違いないけど。それに、優花ちゃんに説教をするのは、あのころのあたしに説教するような、そんな気分になるから。それはたぶん、誠実じゃないから。

「はっはっは。高校生のうちはしないほうがいいよ。痛いだけだよ。まああれが良くなるのは二十歳過ぎたぐらいからだね。だからいまはまだ、キスぐらいの健全な恋愛してなさい」

 だからあたしは冗談めかしてそう言ってみた。

「……いやだよ、恋愛なんて。つまんないもん」

 優花ちゃんはうたから手を離し、立てた膝に頭をうずめて言った。その仕草のわりに、その口調は大人びて感じられた。すくなくともあたしよりよっぽど大人だったかもしれない。あたしは今でも、恋愛とはなんなのか分からない。弟とうたと暮らしているいまの平和な暮らしが、日々の平穏な感情が、いちばん恋愛に近いような気すらしてくる。あたしはたぶんおかしい。たぶん、セイコと同じように。

「……ねえ、さっちゃん、訊いていい?」

 優花ちゃんが顔を上げていった。彼女があたしをさっちゃんと呼ぶ、そのときの声色があたしは好きだった。さっちゃんと呼ぶとき、優花ちゃんはあたしと同じ顔をしてくれる。あたしと同じように笑い、あたしと同じように悲しみ、あたしと同じものを持ってくれる。

「さっちゃんは昔、AV女優だったんでしょ。セックスって、どうだった?」

 優花ちゃんと同じように、うたもあたしを見上げた。その答えが、なにか究極的なものであるかのように。あたしは優花ちゃんとは違い、過去の話を包み隠さず話していたので、高円寺のカフェのことも、新宿のキャリアウーマン時代のことも、AVに出演していたことも、優花ちゃんはぜんぶ知っている。誰にでも話しているわけではない、優花ちゃんはそれを受け止めてくれそうな気がしたから、あるいは生かしてくれそうな気がしたから、話したのだ。あたしの期待どおり、優花ちゃんは余計なことは訊かないでいてくれて、結果あたしたちの仲は深まった。優花ちゃんがあたしの話を生かせるかどうかは、これから次第だろう。そのなかに、いまの優花ちゃんの問いもあるのかもしれなかった。そして、あたしはいつかうたにも、あたしがAV女優だったことを話すと思う。なぜなら、うたは女の子だから。うたにも同じように、あたしの話を受け止めてほしいから、あたしの話を生かしてほしいから。そして、いつかうたにその質問をされたとしたら、あたしの答えはいつも用意ができていた。

 ――セックスとは、なんですか?

「セックスは……」

 魔法ではない、でも、セックスは。

「……音楽です」

 あたしはそう答えた。あたしの答えは、いつも明確にあった。

「……ふうん」

 優花ちゃんはあんまり分かったふうではなく、あたしはちょっと力が抜けてしまった。まだ早かったかな。うたが大きくあくびをした。そろそろ眠くなる時間かもしれない。

「そういえばさあ、このお店、いつも音楽流してないよね。流せばいいのに。すごくいいCDいっぱい置いてるんだから」

 うつらうつらとしたうたを抱き上げ、ベッドに運んでると、うしろから優花ちゃんがそう声をかけてきた。とくに含みのない、無邪気な口調だった。

「そうだっけ?」

 あたしは率直にそう返してしまった。あんまり音楽をかけてないという意識もなかったし、音楽をかけようという気にもならなかった。ふだんもあたしは音楽を聴かない。音楽がないのが当たり前のような、そんな生活を送っていた。

「そうだっけ、って。そうだよ。おかしい。サチコちゃんって、わりと天然だよね」

 優花ちゃんが肩を揺らしながらけらけら笑った。この子は笑うときれいなえくぼができてかわいい。高校のころ、「処女でなくなるとえくぼが消える」という伝説が女子生徒の間で噂されたことがあった。ぜったい嘘だと思ったし、いまでも嘘だと分かる。でも、セックスをして失われるものは、たしかにある。

「流せばいいじゃん。セイコちゃんの音楽とか。ほら、うたちゃんにも聴かせてあげたいじゃない?」

 優花ちゃんはあいかわらずの無邪気な口調で言った。

 あたしはもう、セイコの音楽は聴けない。だからもう、聴ける音楽はない。うたにセイコの音楽を聴かせることはできない。だから、聴かせられる音楽はない。

 あたしは、音楽を取り戻さないといけない。あたしのためじゃなく、うたのために。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る