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あのころの記憶をたどりながら高円寺駅の西側を歩いた。セイコと会ったライブハウスはすぐに見つかった。そうだ、たしか「無量大数」という名前だった。まだ時間は早かったため、オープンしているのか懸念されたけれど、とりあえず階段をあがり、あいかわらず防音性の低そうな扉を開けた。扉に鍵はかかっておらず、あたしはかんたんに「無量大数」のなかに吸い込まれた。
「あら、いらっしゃい」
嗄れた声があたしにかけられた。赤ちゃんのロンパースを着た、化粧の派手な男性が部屋のまんなかに座り、ちゃぶ台のうえにビールの瓶を並べていた。彼はたしか無量大数のオーナーで、「和尚」という名前で呼ばれていたはずだ。昼間にもかかわらず、和尚はだいぶ酒が入っていて見るからに泥酔している。声もたぶん酒焼けなんだろう。アル中なんじゃないかと思われたが、和尚のことはどうでもよかった。
「あ、これ……」
あたしは壁沿いに並べられたCDのうち、いちばん目立つ場所に置かれたそれを手に取った。ジャケットに写っている少女のちょっとはずかしそうな笑顔。昔と変わらないピンク色の服とぎりぎりのミニスカート。セイコのCDだった。
「ああ、それ、セイコちゃんの新譜なの。聴く?」
和尚はそう言って、あたしの手からCDを取り上げると、奥へ入っていった。やがて無量大数のスピーカーから爆音でセイコのうたが流れはじめた。むかしと変わらない弾き語りだ。むかしと同じように歌からはじまり、おってギターの音色があらわれた。ギターはやっぱりあんまり上手くなかった。でも、歌はびっくりするぐらい上手くなっていた。あのころの圧と艶っぽさはそのまま、感情表現がずっと豊かになっていた。あのころのセイコの歌は、独白かダジャレでいうと毒吐くみたいなかんじで、野放図だったし、そんなうたに怒ったようなギターが合っていた。いまのセイコのうたは、語りかけているかのようだった。そんなうたに下手くそなギターがミックスされたとき、怒りのニュアンスが変わった。昔のセイコはたぶん、自分のために怒っていた。いまのセイコはきっと、あたしのために怒ってくれている。すくなくともあたしにはそう感じられた。あたしはあのとき思った。セイコはきっと、世界中のふつうの女の子を救えるミュージシャンになれるだろうって。その直感は間違いじゃなかった。すくなくとも新宿を歩くふつうの女の子が口ずさんだりしてくれている。セイコはきっと、もっとずっと強くなれる。
「セイコちゃんはいま、高円寺ですごく売れてるのよ。あんまり無量大数ではライブしてくれなくなったのが寂しいけど。メジャーデビューの話もちょくちょく来てるみたい。まああんなふうに荒っぽい性格だから、そんなにうまく進んではないみたいだけどね。このまえもSNSで炎上してたし」
和尚がそう言った。彼はいつのまにかあたしのとなりに立っていて、しゃべるとひどい酒の匂いが漂った。
「大丈夫ですか?」
あたしが和尚にそう声をかけると、彼はあたしに寄りかかるようにして倒れた。ちょうど彼があたしに馬乗りになったようなかたちとなった。ずいぶん酔ってるんだな、と思い彼の表情をみやると、ぎらぎらした瞳には酔っているのとはまたべつの狂気が現われていた。
あたしの手首が和尚に掴まれた。その力はすごく強くて、怖くて、振りほどけそうになかった。
「下着つけてないじゃない。サチコちゃんも、準備ができてたのかな?」
和尚の手がTシャツの隙間から侵入し、あたしの胸をわしづかみにする。和尚のくさい息があたしにかかり、そのままあたしのくちびるを覆う。あたしは好きにされながら、「和尚はあたしの名前を覚えてくれていたんだな」とどうでもいいことを考えた。「和尚はゲイじゃなかったんだな」とどうしようもないことを考えた。
いつのまにかあたしはホットパンツも脱がされて、裸になっていた。和尚は粉薬のようなものを指にのせ、あたしの肛門に突っ込んだ。電流の走るような快感はすぐに現われた。あたしは今日のことをちゃんと覚えていたかったから、嘘をつかれてるみたいで残念だった。
嘘をつかれてるみたいに、あたしと和尚はひとつになった。
それはあたしの初めてのライブだった。あたしは初めてセイコの下手くそなギターに合わせてうたを歌った。でたらめなリズムが子宮を叩いた。出されるたびなかでしろい音符が弾けた。そのたびにいった。うたを歌うのはこんなに気持ちいいんだと知った。うたうのが気持ちいいのは初めてだった。
セイコはうたった。「音楽は魔法ではない」と。そうだね。こんなもの、魔法であるはずがないよ。これはただの現実。性病になったり妊娠したりもする、生々しい現実。だからうたうんだ。苦しそうに。息継ぎも忘れて。
セイコはうたった。「全力でやって五年かかった」と。そうか。あたしと同じ五年間を、セイコはこんなふうに生きてきたんだ。すごいよ。尊敬するよ。かっちブーだよ。あたしはいまセイコとセックスできていることを、なによりも誇らしく思う。
あたしは泣いた。赤ちゃんみたいに泣いた。おしめを替えてもらうときのポーズで、お母さんを呼んだ。うれしいからじゃなくて。かなしいからじゃなくて。いたいからじゃなくて。濡れてるからと。冷たいからと。気持ち悪いからと。そうやって、あたしもいま、お母さんになる。セイコがいつか「子どもができても、ギターのほうがかわいい」と歌ったみたいに、あたしには、もっとかわいいものなんてないから。それがあたしの人生。だからあたしはいま、音楽に抱かれている。せめて音楽を妊娠する。
できなかったセックスのことを思い出した。彼氏のようなひとのことを思い出した。「こんな男じゃ終わんねーぞ」とずっと思っていた、けっして身体を許さなかった彼のことを思い出した。よかったね、あたしを抱かなくて。こんな女で終わらなくて。あたしはいまほど自分がつまらない女だと思ったことはなかった。あたしはただの媒体。弾かれるための楽器。生むための機械。産み落とされる音楽が、すべてつまらないものでありますように。「No Music, No Life」を六弦ごと叩き切ってくれますように。あたしのアイドル、性子。
あたし、セイコが好き。汚れても、いいよ。
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