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 その日は中野と東中野の物件をみっつ回る予定になっていた。どの物件も新築で、2LDKで、十階ぐらいのそこそこの高層階で、駅近で、七千万円ぐらい。まあ東京では無難な選択肢といったところだろう。雑誌やインターネットの情報を当たるかぎりではほぼ同じような物件に見えたけれど、実際に内見してみれば細かな違いに気づくはずで、今日はまずそのあたりの感覚をつかむつもりだった。当たり前だけれど、今日いきなり物件を契約するつもりはなかった。内見は初めてだし、「家探しとはどんなものか」ということがだいたい分かればそれでいい。引っ越しを急ぐ事情もないので、だいたい一年ぐらいのスパンでゆっくり探そうというのが彼との共通認識だった。

 最初の物件の予約は午前十時。いつもよりゆっくり起きて、交互にシャワーを浴びて、化粧と服装を整えて家を出たあと、高円寺駅前のマクドナルドで朝マックを食べた。

「なんかあんまり家探すふうじゃないよね。ヒゲ生えてるよ」

 あたしはエッグマフィンを食べながら彼にそう笑いかけた。彼の衣服はうちのワードローブに三、四着は入っているのだけれど、この日彼が選んだのは、そのなかでもいちばん地味なボーダーのTシャツにジーンズだった。そのうえヒゲも剃っていないし、やわらかい猫っ毛がちょっと跳ねている。

「そんなことないよ。真剣だよ」

 彼はコーヒーを飲みながらぼんやりと応えた。彼は平日は朝からバリバリ働く有能な社員だが、休日の朝はなぜかめちゃくちゃ弱い。そんなギャップがかわいいと思う。

「まあ、あんまり現実感はないよね」

 あたしはそう言って、テーブルのうえのポテトをひとつ掴み、口にくわえた。

「そう?」

 と彼は言い、あたしに続いてポテトを口にふくむ。そしてふたりとも黙ったまま、すこしずつポテトを減らしていく。

 同棲の話こそ進んでいるけれど、あたしはまだ彼にプロポーズされてはいない。持ち家を買って同棲するのは「そういうこと」だと分かってはいるが、それを言葉にされたことはないわけだ。いったい彼はどういうつもりなのだろうなあ、とときどき不安になる。別に彼との結婚をそれほど望んでいるわけではないし、仮に破談になっても別に泣かないと思う。ただ、どっちつかずというのはどうにも気持ちが落ち着かない。結婚というのはたぶん、あるべきものがあるべきように進んだ結果なのだろうと思う。実際、そのとおりに進んではいる。しかし、ちゃんとした区切りはあるべきだ。彼がいったいそれをいつどのように切り出すのか、その日はきっと近いんだろうと構えながら、どうにも落ち着かない心を持て余していた。

 テーブルのうえにポテトがひとつだけ残っている。まるでそれが口にされるのを待つように。こういうのをあたしの地元では「遠慮のかたまり」って呼ぶんだけど、東京ではそうでもないみたい。彼はあっさりとそのポテトをくわえて、腕時計に目をやり、

「それじゃあ、行こうか」

 と言って立ち上がると、トレイを持った。食べられなかった遠慮のかたまりがあたしのなかでわだかまる。あたしはたぶん、彼にたいして遠慮をしている。これからも遠慮をしつづける。人生をかけて。あたしはあたしが素人AV女優であったことを、遠慮したまま、人生をかけて隠しつづける。

 最初の物件は中野駅から南に歩いて五分ぐらいのところにあった。アクセスは悪くないし、お店もたくさんあるわりに、繁華街からは離れてるので落ち着いた雰囲気だ。隣に公園があるのも好印象だった。あたしたちは約束の時間の十五分ぐらい前に到着し、あたりを散策しながらそんなことを話した。

『本日はお世話になります。下までお迎えに伺いますので、ロビーのソファーにお掛けになってお待ちください』

 時間ちょうどにマンションのエントランスにあるインターフォンを鳴らすと、上品な女性の声があかるく応じ、ぴかぴかに磨かれた透明な自動ドアが開いた。あたしと彼は造りやデザインを確認しながらゆっくりロビーに入り、革張りのしっかりしたソファーの上座に腰かけた。

「俺のなかではこの物件がいちばんオススメかな。施工会社がいちばんしっかりしてて、日本どころか世界中に実績のあるブランドなんだよ」

 彼がそう教えてくれた。あたしはロビーを見渡してうなずく。余計な装飾とか調度品はなく、シンプルにまとまっている。彼が好きそうな、センスのいいマンションだなと思った。

「お待たせしました。どうぞこちらへお越しください」

 しばらくして、エレベーターホールから笑顔のほがらかな女性が姿をみせた。丁寧に化粧が施されているけれど、首元と手の甲の張り具合を見るかぎり、四十歳ぐらいのベテランかなと思われた。いかにも営業とか販売の人間っていうかんじで、気をつかわずに接することができそうな点は好印象だった。

 あたしたちはエレベーターに乗り、十階にあるモデルルームに向かった。築半年の物件であるため、エレベーターで住人と同席した。気品のあるおじさんで、毛並みのいいトイプードルを抱いていた。「このマンションはペットもOKなんですよ」と販売員さんが教えてくれた。ペットを飼うのは実家を思い出すので、あたしはちょっとげんなりした。両親ともにペットが好きで、犬とか猫とかインコとかにとどまらず、モルモットとかアヒルとか亀とか、とにかくいろんなペットを飼いたがる家だった。弟は動物が好きだから喜んでいたけれど、あたしはあんまり気を惹かれなかったし、とくに世話もしなかった。あのころから、実家は近いのに遠くて、いつかここを飛び出してやるんだってずっと思ってた。そのとおりにあたしは東京に来たし、もうあの家に帰ることはないんだろうと思う。そうだ、新しい家は、できるだけ実家と遠いような物件がいい。あたしは新居探しにあんまり気が向いてなかったにも関わらず、その点にだけは強くこだわりたいと思った。

 モデルルームにはほかにも家族やカップルが数組いて、子どもたちがきゃいきゃい声をあげながらキッズスペースで遊んでいた。あたしたちは挨拶もそこそこに、空いている部屋を内見させてもらった。残っている部屋は三つだけで、どの部屋も何人かがすでに検討中らしい。話を聞きながら、なんとなく急かされてるかんじがして、はやく帰りたいなと思ってしまった。

「気に入ったお部屋はありましたでしょうか?」

 内見を終えたあと、モデルルームの奥にある一室に案内されたあたしたちは、販売の女性にそう尋ねられた。いかにも人好きのするような、いい笑顔だなあと思う。あたしはあんまり笑顔が好きではない。それはたぶん、あたしが上手に笑えないからだ。ちょっと息苦しくて、つい腕時計を確認してしまった。二、三時間は経ったように感じていたけれど、まだ一時間も経過していなかった。

「そうですね、2LDKの部屋で考えてるんですけど」

 彼がそう答えると、販売員さんはしごく残念そうに眉をさげ、

「ごめんなさい、2LDKのお部屋はほぼ契約が終わりかけてるんですよ。まだローンの審査が降りてないのでいちおうご案内してはいますが、もしこのまま審査が通れば、申し訳ないのですがお部屋をお渡しすることはできないんです」

 と言った。

「えっ、二部屋ともですか?」

 彼がめずらしく甲高い声をあげて驚いた。オレンジジュースのグラスを手元に寄せ、落ち着かせるようにストローをくわえる。

「そうなんです、二部屋ともなんです」

 販売員さんの回答を聞いて、彼があたしに目をやった。あたしは「帰ろう」とうながすかのごとく、肩をすくめてみせた。2LDKの物件はどちらも安く、新宿まで電車一本で数分という条件にしては、びっくりするぐらいの価格帯だ。つまり、実際には存在しない、客を釣るためだけの物件なのだろうと察した。この物件を求めて訪れた客に「もうこの物件はないんです」と嘘をつき、ほかの物件に案内するための撒き餌だ。彼いわく、この物件は施工会社も販売店もしっかりしているとのことで、あたしもそれなりに信用していたけれど、ずいぶん姑息な手を使うんだなとがっかりした。まあ昔からよくあるベタな手ではあるのだが、彼はちょっと世間知らずの気があるので、あまり気づいてはないかもしれない。

「よかったら4LDKの部屋はどうですか? 最上階の角部屋で、見晴らしがいいですよ。再登録なので割安ですし、本来は抽選なのですが、本日契約を進めて頂けるなら、優先的に案内させていただきます」

 販売員さんは表情をふたたびよくできた笑顔に戻し、いかにも特別待遇といったかんじの持って回ったような口調で言った。ああまあ王道というか、やっぱりそのパターンで来るよね。この瞬間、この物件はないなと心を決めた。あたしはペンで机のしたの彼の足を叩いたのだが、お気に入りの物件がなくなった彼は慌ててしまったのか、あたしの合図には気づかない様子で、食いつくように、

「4LDKの物件なら契約できるってことですか?」

 と言った。あたしはやっとで溜息を堪えた。仕事はできるくせに、仕事以外になるとこういうところがあるんだよな、このひと。安くなったっていっても、2LDKの物件と比べれば4LDKの物件は二千万円ちかく高いよ。それにふたりで暮らすのに四部屋もいらないじゃん。うっかり住み始めて子どもの話なんかでてきたらとてもやってられない。あたしはだんだんイライラしてきて、

「ちょっと予算に合わないかな、と思います」

 と、販売員さんに負けないせいいっぱいの笑顔を作って、販売員さんの言葉をさえぎるように言った。

 一瞬、販売員さんの顔がびっくりするぐらい堅くなった。この冷たい表情がこの人の素顔なんだなと察した。そんな姿を晒したらプロ失格だよ。といってもたぶん彼は気づかなかっただろうし、心の機微をあたしほど敏感に察することができる人はそういないだろう。あたしが素人AV女優をしていたころ、あたしの動画が裏サイトにしばしばアップされていたため、暇なときはよくそれを眺め、自分の表情とか動きをつぶさに検証した。新宿歌舞伎町にあるネットカフェのブースで、ヘッドフォンをつけ、デスクライトはつけず、音量を最大にしてあたしはあたしを鑑賞した。あたしはあたしのなかにあたしを見つけたあたしをあたしだと思った。あたしはあの狭くて臭くて汚くて真っ暗なブースで確立された。自分を同一視することは、同時に他人にたいする観察眼も与えてくれた。それ以来、あたしは他人をあたしのように考えることができるし、あたしを他人のように考えることができる。自分だと思えば、他人の考えていることもだいたい分かる。その特性は深く付き合っていくうえではそれほど役に立たないが、仕事をするうえではすこぶる役立った。だからあたしは一流企業に就職できたし、正社員になれたし、家を買えるほどの財力がある。あたしはAVに出演したことをちゃんと見つめてきたから、いまこうしてここにいる。

「……まだお若いんだし、ちょっと背伸びしてもいいんじゃないですか? ローンだって三十五年組んでも無理がありませんし。いま、金利もすごく下がってるんですよ。ほら、おふたりともパワーカップルなわけですから」

 販売員さんはぎこちなく笑顔を整えながらうたうように言った。パワーカップル、という言葉を聞いて、あたしはつい舌打ちをしてしまった。あたしもまだまだだな。彼氏にこんなところを見せたことはないのに。パワーカップルという言葉は合わせての年収が一千万円以上のカップルを指すらしい。モデルルームに入ったとき最初のアンケートで年収を書かされたのだけれど、こんなふうに弄られるなら、年収をずっと低めに書くか、専業主婦にでもしとけばよかったな。あたしは高収入と思われるのが何よりも嫌いだ。なんだか馬鹿にされてるような気がしてしまう。だってあたしの価値はそこにないって、誰よりもあたしが知ってるから。

 ああ、もう潮時だな、と感じ、あたしは椅子の背もたれに身体を預け、おおきく溜息を吐いた。販売員さんもプロだからもう見込みのないことには気づいているだろう。あたしはさいごに今日一番の笑顔を作り、

「ありがとうございます。検討させていただきますね」

 とはきはき言って、ちょっと失礼なぐらいおおげさに頭を下げた。ハンドバッグを抱え、足早にモデルルームを出た。すこし遅れて彼氏が着いてきた。販売員さんは玄関までは見送りに現われたけれど、エントランスまでは同行せず、あたしと彼はふたりだけでエレベーターに乗り、きっと二度と来ることのないだろうマンションを飛び出した。

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