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 しかし、あたしと弟の体調はなかなかよくならなかった。熱っぽいし、じっさいに微熱があるし、のどが痛くて、身体中がだるい。あと、なんだか息苦しい。あたしも弟もおなじような症状だった。ふたりとも風邪薬を飲んで、弟は高校に行き、あたしは本屋で働いた。まあまあ忙しかったし、いちおう働けていたので、病院に行くほどのものではないと思っていた。彼女と電話したとき、そのことを相談したのは軽い気持ちだった。相談というよりも、ほんの愚痴ぐらいの心づもりだった。

『……それさあ、エイズじゃない? ちゃんと検査受けてる?』

 だからキャシーがそう言ったときは、冗談かと思ったし、じっさいに笑ってしまった。

「いやいや、ないし。うたが産まれてからは、昔みたいに不特定のひととはしてないし」

 あたしがあかるい口調でそう返すと、しかし電話の向こうからは、ひどく重い沈黙が伝わってきた。

『……知らないの? HIVに感染して、さいしょの症状は数週間で出るんだけど、それはすぐに収まるんだよ。それで、じっさいにエイズが発症するのは、数年とか、十数年かかることもあるの』

 キャシーが言ってることは、耳には入っていたが、頭には入っていなかった。HIV? エイズ? なにそれ。ただ、エイズがひどくおそろしい病気だという認識はあったし、うたが産まれるまでは感染してもおかしくない性生活をしていた認識はあった。あのころあたしは、性病と妊娠さえ避けられるなら何をしてもいいと思っていた。でもあたしは妊娠したように、性病、いやエイズにかかってもぜんぜん不思議ではないのだった。

『こっちではけっこう、HIV流行っててね。私も検査したし。サチコも検査してもらったほうがいいよ。安心できるし、万一感染してても、最近はけっこういい薬あるからさ。昔みたいに、かかれば死ぬっていうそういう病気ではないし。治療せずにエイズが発症して死んだひとも結構いるからさ。それはまじで心配だから。ほら、無量大数の和尚、いたじゃん。あのひともさ、亡くなっちゃったんだけど、エイズだったんじゃないかなって思うんだよね。まああのひとはだいぶ不摂生してたし、もともとそんなに長くないだろうと思っていたけどさあ』

 和尚がエイズで死んだかもしれないと聞いて、あたしは後ろ頭をがあんと殴られたような気になった。あたしは一回だけだけれど、和尚とセックスをしたことがある。あのときはゴムをつけてもらえなかった。そんなこと、気にしてもいなかった。あたしの人生にそんなことはありえないと思っていた。だってみんな、セックスしてたじゃん。当たり前に。ゴムつけないとかふつうだったし。中出ししても妊娠しなかったことだってざらだし。性病にだってなったことないよ。なんで? なんでいまさら? それにあたし、いまはそんなふうなセックスなんてしてないよ。ちゃんとひとりのひとを愛して、ちゃんとひとりの子どもを大事にして、ふたりのためにちゃんと働いてるよ。毎日、誠実に生きてるよ。なんで? どうして?

 そのさきキャシーが言った言葉は耳にも入らなかった。さいご、キャシーが口にした、

『生き残れよ』

 という言葉は、すごく遠くから聞こえた。

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