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あたしがいちばん恐れていたのは、弟とうたにも感染させたかもしれないということだった。弟とはセックスしたことがあるし、うたとは母子感染もありえるはずだ。あたしだけならまだいい。でも、世界一大切なふたりに感染させていたとしたら。
あたしは本屋のパソコンのまえに座り、エイズについてインターネットで検索しようとしていたはずが、涙でディスプレイが見えなかった。気がついたら、あたしはセイコのSNSを開いていた。まるで救いを求めるかのように。まるで助けてほしいかのように、あたしはセイコのSNSを過去に辿っていった。読んでいるうち、あたしの涙は引っ込んで、かわりにおなかの底からふつふつと怒りが立ち上ってきた。なにこれ、すごく幸せそうじゃん。すごくやってけそうじゃん。十七年前はあんなふうなライブしといて、あたしにトラウマを植え付けといて、いまさらひとりで幸せになろうっていうの。セイコ、うたってたよね。「魔法が使えないなら死にたい」って。それぎゃくにいえば、いま生きてるってことは、魔法が使えてるってことじゃん。うそつき。
音楽は、魔法じゃん。
あたしはセイコのライブを検索した。直近のものはあした新宿で行われるようだった。予約サイトからチケットを購入しようとしたが、さすが人気の超ミュージシャンといったところか、チケットは埋まっていた。あたしはすぐにオークションのサイトに飛んだ。予想通り、それなりの高価格ではあったがセイコのライブのチケットは数枚出回っていた。あたしはそのうちいちばん早く購入できそうなものを選び、相場の倍額を入札すると、かんたんに落札できた。そのあと交換したメッセージによれば、チケットはライブ当日の朝、新宿駅で現金と交換してくれるとのことだった。
あたしはスマホを取り出し、弟にメールした。
〈あのさあ、あなた、理科教師だったよね? 今日、硫酸持って帰ってきてくれない? 鍋の汚れが取れなくてさ。使ったらすぐ返すから、瓶ごと持ってきてくれるとうれしい。お願い〉
ちょうど休み時間だったのか、弟からはすぐに既読がついて、
〈了解〉
とだけ返事があった。
そのさきのことはあんまり覚えていない。いつものように本屋を閉めたあと、いつものように車でうたを迎えにいって、いつものようにごはんを食べさせて、いつものように皿を洗いながら弟とうたがお風呂から上がるのを待って、いつものようにうたを寝かしつけたあと、いつものように弟とおしゃべりをした。できるだけ、いつものように、を心がけたつもりだった。いつもと違ったのは、弟が硫酸の瓶をくれたことだった。思ったより量が多くて満足した。弟はそれについてなにも触れなくて、またいつもどおりの会話が続いた。弟はやっぱり体調が悪いのか、ごめん先に寝る、といって、さきに寝室に向かった。あたしは階段のしたから彼を見送ったあと、硫酸と財布とスマホだけをハンドバッグに入れて、車を走り出させた。新幹線の終電には間に合わなかったが、ぎりぎり東京行きの夜行バスが取れた。バスのなかではまったく眠れなかった。いくつもの眠れない夜をすごしてきたはずなのに、こんなに深くて、暗い夜は初めてだった。
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