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 土曜日の夜、暗くなってから、弟が車を出してくれた。うたはとっくに寝付いていて、あたしは彼女を起こさないようそっと抱き上げて、車の後部座席に滑りこんだ。弟が車のエンジンをかけると、郊外の住宅地を抜ける狭い道路がライトに照らされる。弟が乗ってる車はいわゆるSUVというやつで、後部座席はけっこう狭い。あたしと同居しだしたころ、「一生独身を貫くつもりだからおもいきり趣味の車を買ってしまった」と恐縮していた。まあ子どもがふたりとかさんにんになったらこの車ではキツいかなと思う。うたにきょうだいがいないのはさびしいので、もうちょっと子どもがほしいなという気持ちはなくはないけれど、いい手段が思いついていない。さすがに弟とセックスするのはためらわれる。こんなあたしにもけっこう倫理的な側面があったんだと苦笑する。

 車は住宅街を通り抜け、長い信号待ちをしたあと、山沿いを抜けるバイパスを走った。

「なんかさあ、緊張するねー」

 車がトンネルにさしかかったころ、あたしはうたの背中をぽんぽんと叩きながら言った。SUVは遮音性が高いのか、あんまりエンジン音とかロードノイズは車内に響かないので、うたのやさしい寝息もしっかりと聞こえる。

「いまさら? 姉ちゃん、そういう場所、けっこう行ってきたんでしょ?」

 弟がわらいながら応える。

「それが意外とそうでもないんだよね。片手で数えられるぐらいかも。それに、だいたい男に任せてたから、あんまり手続きとかわかんなくてさ。あんた、知ってる?」

「いやいや、言ったじゃん。僕、童貞だったんだって」

「童貞でも、彼女とかいたでしょ?」

「いねーよ。彼女がいたとしても、そういう場所行ってなんもしないとか、ヘタレじゃん」

「え、ヘタレじゃなかったの? あんた、あたしと寝ててもなんもしないじゃん」

「そういうこと言う? してほしいの?」

「あーはいはい。あたしが悪うございました。うたに聞かれたらどうすんのよ」

 なんだか気恥ずかしくて、黙り込むとへんな気分になりそうで、あたしたちは止めどなく内容のないおしゃべりを続けた。

 高速道路のインターチェンジの近くにそのラブホテルはあった。知り合いに見られるとまずいから離れた場所のほうがよかったし、まあまあきれいなことで有名なラブホテルだった。そういう場所なので、けっこう不倫とか、パパ活とか、ヤバイ関係にも使われているそうだ。まああたしたちも、ヤバイ関係には違いないが。

 地下の駐車場に車は入っていった。駐車場はなかなか広く、週末だからかほとんど埋まっていた。田舎はわりと軽自動車に乗ってる人が多いのだが、ここでは立派な外車が目立つ。弟はできるだけ奥にあるスペースにバックで一回切り返したのち停車した。右もベンツ。左もベンツだった。弟はさっさと車から降りると、駐車場のはじに立てかけてあるベニヤ板を車のまえに置いた。なにをしてるのかと一瞬いぶかしんだが、ほかの車も同じようにしてることに気づき、その意味を察した。ああ、ナンバープレートを隠してるのか。東京でラブホテルを使ったときは、車で行ったことがなかったので知らなかった。

 まだすやすや眠っているうたを抱きかかえ、車から降りた。弟が先導するようにスロープを上がっていった。あたしは彼のうしろを追いかけた。

 そのラブホテルはいかにもお城といったかんじのきらびやかな風貌だった。尖塔がいくつも立ちならび、あちこちでカラフルなライトが点滅している。立派な木々が立ちならぶ庭では、いきおいよく水を吹きあげる噴水があたしたちを出迎えてくれた。重厚な扉をはさんで二匹のライオンの彫像。東京のラブホテルはもっとシンプルだったように思うんだけれど、田舎のラブホテルはすごいな。セックスぐらいしか娯楽がない、なんて聴いたこともあるけれど。ただあんまりに豪奢すぎるというのか、セックスをする場所としていかにもすぎて、笑っちゃう。のはつい東京の暮らしと比較をしてしまうあたしの悪い癖。

「ねえねえ、いまさらだけど、子ども連れでも入れるわけ?」

 あたしはロビーを足早に歩く弟のうしろを追いかけながらそう尋ねた。

「入れるって。だって受付は無人だもん。最近はゲイカップルとか三人以上で使うこともあるらしいよ」

 弟は小声で答えながら、壁に埋め込まれているタッチパネルのようなものを操作する。

「え、めっちゃ詳しいじゃん。なんか、受付のやり方も知ってるっぽいし。なんで、やっぱ来たことあるんじゃない?」

「調べたんだってば。いまはネットでなんでも調べられるんだから」

「調べた? やらしー。そんなに楽しみにしてたわけ?」

「姉ちゃん、そういうの止めて。姉ちゃんのためにやってるんだから。あと、声でかい。テンション高すぎ」

 弟はあたしの頭をこつん、と叩いた。まあ彼の言ったとおり、あたしのテンションは相当上がってたんだと思う。ラブホテルもだけれど、なかでなにをするのか、ということに。

 機械からカードキーのようなものを受けとって、あたしたちは指定された三階に上がった。エレベーターも廊下もやっぱりすごくきれいで、どこからもへんな声とか音とか聞こえてこなくて、ここがそういう場所だなんて思えない。にもかかわらず、その部屋がちかづくと、あたしの心臓はばくばく唸りはじめた。処女のときでもこんなには緊張しなかった。

 部屋の扉を開けると、内装は意外とシンプルだった。浴室がガラス張りなぐらいで、あとはふつうのビジネスホテルとおなじように見えた。壁に埋め込まれたディスプレイが目立つ。そこにはいやらしい動画の案内みたいなのが流れていたが、弟がリモコンを押すと、カラオケに切り替わった。

「ここ、どこー?」

 胸に抱えていたうたが声を上げた。ずいぶん長いあいだ抱きかかえたまま移動していたからか、さすがに起きてしまったようだ。

 もう二歳だし、うたは成長がいいので、起きてしまうとだっこするのはむずかしい。そっと床におろすと、部屋のまんなかぐらいまでよたよたと歩いたあと、不思議そうにあたしたちをふりかえった。弟はにこにこ笑っていて、その表情を見て安心したのか、うたも「あー」と声をあげて満面の笑みを見せた。

「あのねー、うた。いまからお母さんが、すごくかっこいいところ見せてくれるからねー」

 弟がそう言って、うたをひざに乗せ、ベッドに腰かけた。カラオケ用の巨大なリモコンがあたしに手渡される。あたしはタッチパネルを操作し、歌手名の欄に「セイコ」と入れ、検索する。セイコがメジャーデビューしてもう二年が経つ。そのあいだに彼女はすごく売れて、カラオケにもたくさんの曲が入っていた。

「かっこいいところって、なーにー?」

 うたが弟の顔をみあげて尋ね、あたしに視線を戻した。弟もだけど、うたに見られてると思うと、すごく緊張する。

「あのね、お母さんはね、音楽なんだよ」

 弟が言った。なれるだろうか。あたしは、音楽に。

「おんがくって、うたのこと?」

 うたが尋ねる。弟はうたの頭をゆっくりと撫で、あたしを見つめ、言った。

「そうだよ。うたはね、音楽の子どもなんだよ」

 弟がスマホを取り出し、横倒しにしてあたしに向けた。

「撮る準備、できてる?」

 あたしはマイクを胸元に寄せ、もう片手でカラオケのリモコンを抱きしめたまま、弟に尋ねた。

 弟はぷっと笑い、

「いや、姉ちゃんこそ、準備できてんの? めちゃくちゃ堅いよ? 分かってる? この歌で、選考を通過できるかどうか、決まるんだよ?」

 と言った。うたがうれしそうに手をぱちぱちと叩いた。それであたしの肩のちからがすっと抜けた。もしあたしが「ミスAV」の選考を通過できないとしたら、これがあたしがうたにあたしの音楽を見せられる、最初で最後の機会となる。そう思うと、あたしはどうあるべきなのか、腹を決めることができた。

 セックスは、音楽だ。あたしはこの音楽を、セックスのようにやろう。これまでずっと、そうやってきたように。あたしがあたしであるように。

 あたしがカラオケのリモコンを置くと、やがてカラオケ特有の軽い電子音が流れはじめた。あたしは弟が構えるスマホのビデオカメラに向かい、せいいっぱいの笑顔を向けて言った。

「こんにちは、はじめまして。あたしの名前はサチエ。素人AV女優です。『ミスAV』の審査員のみなさま、がんばって歌うので、どうか最後まで、聴いてください。曲名は……」

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