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『えーっ、聴きたかったなあ、サチコの歌う、「新宿」』

 電話の向こうでキャシーは言った。彼女とは今でも定期的に連絡を取り合っている。近況報告というか、まあ生存確認みたいなものだ。高円寺のお客さんとか友だちで、死んでいくひとはすごく多くいた。みんなだいたい不摂生がひどいので、病気で亡くなるひともいたし、それよりも自殺するひとのほうがずっと多かった。あたしはうたと弟がいるからもう絶対に自殺しないけど、キャシーはいつ死んでも不思議はないかなと感じていたので、それを止められるとも、止めるべきだとも思ってはいないのだが、生きてるうちにたくさん話しておきたかったのだ。理科教師の弟がたまに使う言葉で「安全側」というものがある。壊れたときにどちらに振れるかを示す言葉らしい。ふつうの人間にとって、安全側は「生」だ。困難があり、つまづき、倒れても、立ち直るためにかれらは「生」を選ぶ。高円寺の人間はそうではない。高円寺の人間にとって、安全側は「死」だ。生きているほうが不思議なのだ。あたしだって本来はそうだ。ただ、うたと弟がいるだけだ。セイコだってきっとそうなんだろう。いま彼女を支えているのは、きっとギターではないけれど。

「『ミスAV』に合格してたら聴かせられたんだけどねえ」

 あたしは苦笑して応えた。「ミスAV」は審査員が動画を観て行う最初の選考であっさり落ちた。まあそんなもんだ。合格者一覧をウェブサイトで見るかぎり、若くて可愛くて魅力的な子ばっかりだったし。もともと通るとは思っていない。ただあたしは、あたしの歌を、セイコがあのころ教えてくれた歌を、聴かせたかっただけだ。あたしのプロフィール欄には「素人AV女優」と書いていた。セイコはそれを読んで、それがあたしだと気づいただろうか。意気込みを書く欄には「地平を駈ける獅子を観たいんです」と書いていた。セイコはそれを読んで、それをあたしが望んでいると気づいただろうか。とにかく審査員であるセイコにそれを聴かせることがたぶんできたんだ。

『憑きものが落ちたような声だね。すごくいい声。満足した?』

 キャシーがやさしい口調で言ってくれた。

「うん、もうすごく満足。うたにもあたしの歌、聴かせられたし」

 あたしはそう応えた。セイコのことは、もういいんだ。あたしにはうたがいる。あたしはうたのために生きていかないといけない。あたしの歌を聴いて、うたは珍しくギャン泣きした。うたのなかの何かが目覚めたかのようだった。あたしがいつかうたに、あたしがAV女優だったことを話すときも、うたは泣くかもしれない。グレるかもしれない。でもうたは女の子だから、いつかそれを知ることがすごく大事になるだろうと信じている。あなたのお母さんはこういう人ですよと、それを教えないといけない。そしてあたしはセイコの音源を聴かせ、こう教えるんだ。あなたのお父さんは音楽ですよと。あたしはもう、セイコの音楽とそういうふうに向き合うことができる。それでよかった。

『……で、結局、弟くんとはセックスしたの?』

 キャシーの言い口があまりに率直で、下世話で、思春期の女子高生みたいで、あたしは電話口に向かい大きく吹き出してしまった。まあでもそこは気になりますか。大事なことだし、彼女が気にしてくれるのも分かる。単に興味本位なのではなく(いや、それもあるだろうが)、きっと心配してくれてるんだろうとも分かる。だってあたしにとって、弟もまた、生きる理由のひとつではあるから。

「ご想像にお任せします」

 一度言ってみたかった台詞を言ってみた。言ってみると、あんまり格好良くはなかった。あたしは弟とのあいだにあの夜起こったことを、生涯誰にも言わないし、言っても誰にも分かってもらえないだろうとも思っている。だからあたしはあのことを墓まで持っていく。うたにだって言わない。うたへのたったひとつの秘め事。お母さんが女であった証。恋をした証。あたしはうたが世界一大事だけれど、あの時間だけは、弟のほうが大事だった。あたしはやっと、子どもよりも大事なものを見つけた。それは弟そのものではなく、気持ちのことだ。

「でもあたしは、弟のことが、好きだよ」

 一度言ってみたかった台詞を言ってみた。言ってみると、なかなか格好良かった。

 それからあたしたちは長時間雑談をして、うたが起きてきたので、電話を切った。切るまえ、あたしはキャシーに、

「生き残れよ」

 と伝えた。それがあたしたちの、いつもの合い言葉。

『生き残れよ』

 とキャシーもあたしに言ってくれた。

 高円寺で育ったあたしたちは、日々を生き残っていく。いや、たったの三分間だけでいい。三分間生き残れば、次の音楽は始まる。そうやってまた次の三分を生き残っていく。音楽で育ったあたしたちは、そういうふうに日々を生き残っていく。面白いことや本当のこと、愛してるひと、ふつうのことを、シャッフルするように。生き残らないと、ぜんぶ、なかったことにされちゃうから。なかったことに、されちゃうから。

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