三十五歳、実家の海、うた
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うたは小学校が終わると、ヤマハの音楽教室に行く。友だちのお母さんが車でいっしょに音楽教室まで連れてってくれるので助かっている。音楽教室が終わるのが夜九時ぐらいなので、そのちょっとまえにあたしは店を閉め、車でうたを迎えに行く。
「うたー、ごめんごめん、遅くなっちゃった」
あたしは車を飛び出すと、教室のなかに駆け込んだ。
「お母さん、おーそーいー! うた、ぷんぷんですよ」
うたが口を膨らませて言った。どこかで見たことのある表情だと思ったら、優花ちゃんが怒ったときに見せる仕草だ。うたと優花ちゃんは仲良しというか、もはや親友なので、よく一緒に遊んでるし、うたはいろんなことを優花ちゃんから覚えてくる。へんな言葉とかよくない言葉も教えてもらってるみたいで、ちょっと心配ではあるけれど。
「ごめんねー、おなかすいたよねー」
あたしはうたの正面にしゃがみ、彼女の頭をなでた。我が子ながら、すごくかわいいと思う。クラスでも、いや学校でもいちばんにかわいいと思うのは、たぶん親のひいき目ではない。友だちの親とか先生からもよく褒めてもらえるし、ちょっとませた男子にはモテているようだ。小学校の最初のバレンタインではなぜか男子からチョコをもらって困惑していた。音楽教室では歌を習っている。彼女は将来は歌手になりたいらしいのだけど、見た目はいいし、歌もすごく上手いので、本気で目指してもいいのかもしれない。ただ音楽教室の先生いわく、そのためにはもっとちゃんとしたスクールで学んだほうがいいそうだ。「都会にはそういう場所がたくさんあるんですけど、この町にはないですし、うちの教室では申し訳ないんですが正直手に余るので」と恐縮していて、あたしのほうが申し訳なかった。
「うた、マクドナルドがいい!」
うたは飛び跳ねながら言った。これはうたの口癖で、じっさいにマクドナルドに連れていくと、「お母さんの作ったごはんがいい!」と言い出すので、真に受けてはいけない。赤ちゃんのころはおとなしかったうただが、小学校に入って友だちができ、音楽教室に行き始めた頃ぐらいから、やけに自己主張が激しくなってしまった。まあ歌手を目指すことを考えれば、いい傾向なのかもしれない。ステージに立つ人間は、自己顕示欲が高くてなんぼだろう。
「うたちゃーん、お母さんが来てよかったねえ」
先生がうたにそう笑いかけた。笑いじわの似合う彼女は、音楽教室で歌を担当している先生だ。彼女は謙遜するが、声楽にたいする知識が豊富で助かっているし、それにすごくやさしくて、うたも懐いている。なによりも歌を教えるとき、技術を頭からたたき込むのではなく、生徒のやりたいようにやらせてくれるのがすごくいい。彼女に付いてもらってから、うたの歌は自由で大らかなものに成長した。
「ごめんなさい、いつも。遅くなってしまって」
あたしがうたの手を引き、苦笑して言うと、先生は、
「あらあら、全然いいんですよ。私もうたちゃんと話してるのは楽しいですし。それよりもあの件、よろしくお願いしますね」
といたずらっぽく微笑んだ。あたしはわらってうなずきかえす。先生は年は六十歳近いと思うのだけれど、若い男の子のアイドルが好きで、そういうCDとか写真集とかエッセイ本を本屋に入れておいてあげるとすごく喜ぶ。一度、東京のツテをたどってサイン入りの生写真を入手し、彼女にプレゼントしたら、ちょっと引くぐらい喜んでいた。彼女のいまの目当てはまだあまり売れていない男子アイドルグループがもうすぐ出す新譜で、サイン付のものをフラゲしてくれるように頼み込まれていた。
「せんせー、さよーならー」
うたが手を振って言う。あたしも先生に頭を下げ、うたを助手席に乗せ、車を走り出させた。
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